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<東京怪談ノベル(シングル)>


塔の巫女
 先のレスラーとの闘いで負ったダメージを意識から切り離し、水嶋・琴美は階段を昇る。
 行き過ぎたいくつかの階には番人どころか私兵ひとりいない。が、さながら月光のごとくに“上”より降り来るプレッシャーは、一歩進むごとに、一段上がるごとにその濃度を増して琴美にしんしんと降り積もり、その内へじわじわと染み入った。
 ――恐い。
 彼女の体を支える気力が、体の震えによって削られ、少しずつ砕け落ちていく。
 切り離したはずの痛みと疲労が、薄くなった気力の上から存在を主張する。こんなに痛くちゃもう闘えない。こんなに疲れてちゃもう動けない。だから逃げよう。頭を抱えて、子どもみたいに必死で。後のことは元気になってから考えればいいじゃないか。
 ――私が次に眠るのは、格闘神を殺した後か、格闘神に殺された後よ……!
 弱音を吐く自意識へ言い返し、彼女は進み続けた。
 そして。
「お待ちしておりましたよ、水嶋・琴美さん」
 板張りの広間の奥、ひとり姿勢を正して座す道着姿の女が静かに声を発した。
「息を整えなさい。必要であれば痛み止めを用意しますが……五感が鈍るのは兵法者として致命的でもありますから。使うも使わないも、あなたの判断にお任せいたします」
 切れ上がった目尻に朱を帯びた鳳眼が、琴美を見据えてまたたいた。
「……あなたは、誰?」
 問うた琴美を見上げていた女がつと立ち上がり、一礼。
「塔の番を務めるひとりに過ぎませんが、自らは格闘神様の巫女を名乗っております」
「なぜ、私の怪我を心配するの?」
 傷ついてなお、華のごとく匂い立つ艶やかさを失わない琴美。
「互いに言い訳はしたくないでしょう」
 凜としていながらやわらかい、慎ましやかな美しさを映す女。
 琴美を動とすれば、女は静。
 琴美を華とすれば、女は侘びであり寂び。
 対極にあるふたりの女が今、ここに向き合った。
「なら、早く始めましょう」
「終わらせますか?」
「ええ。長引かせる意味がないから」
 どちらもなにを始め、どう終わらせるかを語らない。
 武を修めた者が対し、始めることは闘いだ。そして終わらせるものは、その闘いに決まっている。始まって、終われば、あとに残されるものは立ち続ける勝者と倒れ伏す敗者。それ以外にはありえない。
「はっ!」
 琴美はまっすぐに女へと踏み込み、右の縦拳を打った。
「古流、というわけではないのですね」
 それを前にゆるく伸べた掌で払った女がつぶやき。
「踏み止めて、打つ。後はその脚を軸に攻め手を重ねるおつもりでしょうか」
 琴美は続く攻めを留め、間合を離した。
 女の「古流ではない」との言葉は、すなわち琴美の踏み込みを見て取ったからこそだ。
 柔術や合気道といった、この国の古流格闘術の根底には剣術の思想がある。基本となる構えからして、剣術の中段構えを模したものなのだ。
 ゆえに踏み込んだ前脚は大きく前に曲げ、自重を下へ向かわせることで突きの“重さ”をいや増し、必殺を成す。
 このような“腰を据える”発想は中国拳法や、そこから派生した空手などにも見られるものだが、琴美の格闘術は常に研究を重ね、最適解を上書きしていく忍のもの。攻撃と回避の回転を高めることを第一に考えた彼女の足捌きはむしろ、ステップワークでこまめに重心を移していく西洋式のそれに近い。
 ――ただ一度手を合わせただけで、琴美の技の有り様を見透かされた。
 それを推して連撃を打ち、捕らえられるとはとても思えない。
 だから琴美は離れた。
 緊張が引き絞られ、じりじりと押し詰まる。
 それでも琴美は動けない。
 相手に手を読まれていながら相手の手を量りきれず、結果として踏み出せない。
 と。
「わたしは攻めるよりも受けるほうが得意ですので、あなたが動かないかぎりはこのまま立ち尽くすよりないのですが……」
 それで困るのは、ダメージを抱えた琴美のほうではないのか。
 女の含みに、琴美の胸の奥で焦燥がざわめいた。
 言われるまでもなく、時間が過ぎるほどに不利となるのは琴美である。
 ――無理にでも攻めるしかない、ってことね。
 女の姿を見れば、彼女が古流の技を修めていることは明かだ。しかし、あえてその装束をまとうことで、真に修めた格闘技を隠している可能性もある。
 ――どちらでもかまわない。
 女に技を出される前に、もしくは身なりと言葉で隠した技を弄される前に、叩き潰す。
 琴美は肚をくくり、息を深く吸い込んで止め。
 打ち込んだ。
 握らずに左右から、角度を散らした拳を降らせ、女に当たった瞬間にだけ握り込む。
 その合間に女の内膝へ引っかけるように蹴りを放ち、靱帯を痛めつけると同時に体勢を崩すことを狙う。
 女が打ち返してくればバックステップですかし、すぐにステップインしなおして強烈なストレートブロウを繰り出しておいて、そこにローキックを重ねて女を惑わせる。
 ボクシング、キックボクシング、日本拳法――虚実を“動”の内に散らせて敵を討つ技を重ねておいて。
 いきなりすべての“動”を止めた。
「?」
 守りにつとめていた女の眉が、疑問を映して跳ねた、その瞬間。
 琴美が跳んだ。
「臨兵」
 忍がコンセントレーションのために唱える九字、その最初の二文字である「臨む兵」を口ずさみ、つま先を床へつくと同時に反転し、右へ。その足を踏み止め、左へ。
 人の目はたやすく騙されるものだ。
 動体視力で捕らえきれないものを目で追う場合、人は予想に基づいて映像を幻(み)るものだ。だからこそ野球において「投げられた球が浮いて見える」現象が起こる。
 琴美は鋭く左右へ体を移しながら、その頭や腰の位置を変えていた。相手の予想を裏切り、「分身」や「消失」を幻せるために。
「闘者」
 九字の三と四文字め、「闘う者」を唱えた琴美が、惑わせた女の前にかがみこみ、ついた手を軸に回転。そのこめかみへ回し蹴りを叩き込んだ。
 本体と攻めとの位置を大きく変えることで、さらに敵を惑わせ、翻弄する。
「皆陣列」
 九字の五、六、七文字めにあたる「皆陣を張り列と成りて」の句とともに、琴美が上へ跳ねながら膝と肘で女を打ち据える。
 女は琴美の体で視界を塞がれ、結果的に死角から幾度となく打ち据えられ、よろめいた。
「在前」
 九字最後の八、九文字め、「前に在り」が完成すると同時に、琴美は女の前から消えた。
 視界を取り戻した女が見たものは、主を失くして空となった着物とスカートが床へ落ちる様。
 と。
「推参、よ」
 女の黒髪に琴美の声音が伝い。
 髪の奥に隠された延髄を手刀で刈られた女が、はらりと崩れ落ちた。
 そのはず、だった。
「――兵は詭道と言いますが、兵法もまた詭道ということですか。忍の技と忍の詭、確かに味わわせていただきましたよ」
 ゆらり、首の付け根を抑えて振り向いた女が笑んだ。
 それを見た琴美は悟る。
 髪に隠した首を瞬時に伸べて、手刀の当たりどころを延髄の下へずらしたのだと。
 しかし。見てすらおらぬ技をそこまでしのげるのなら、なぜこれまでの攻めをたやすく受けた?
 薄いインナーで守られるのみの肢体を抱え、うろたえた琴美に女が語る。
「肋二本と左の上腕を単純骨折。頭に七発分の直撃。……これで少しはあなたの傷と並びましたか」
 この女――琴美の技をわざと受けたというのか。
「言いましたよ。互いに言い訳はしたくないでしょう、と」
 体格でも筋力でも琴美が勝っているはずなのに。
 目の前の女が、自分の数十倍もの巨体を備える鬼に見えてならなかった。
 どこをどう叩けば痛がってくれるのか、どこをどうつかめばその足を地から浮かせられるのか、見当がつかない。
「っ!」
 恐怖ととまどいを闘志で押し包み、琴美は女に打ちかかる。
 焦る手指でフェイントと急所攻撃を組み合わせ、攻め立てる。
 そのことごとくを足捌きだけですり抜ける女。まるで霞を相手に暴れているようだ。
 原因は知れていた。袴だ。女の足元は袴で隠れており、動きが外から見て取れない。しかも彼女はすり足――床の上に足裏を滑らせるように移動する歩法――で、衣擦れや裾捌きで足のありかを予測させてすらくれなかった。
「なぜ神への復讐などという愚かな夢を見るのですか?」
 琴美の踏み込みを、女の掌打が出迎えた。
 自らの勢いで顎を弾かれた琴美の脳が揺れ、一瞬自分が立っているのかどうかを見失う。が、彼女は踏み留まり、横合いから回し蹴り。
「――この世界でただひとり、殺すと誓った仇だからよ!」
 食いしばった歯の間から言い放つ琴美の蹴りをかいくぐり、女は困ったように笑んだ。
「大局というものがあります。それを踏まえて世を見れば、おのずと格闘神様の大義も垣間見えるでしょうに」
「この荒廃した世界を暴力でさらに踏みにじり、死の恐怖で締め上げることのどこに大義があるというの!?」
 怒りを込めて握り込んだ琴美の拳を、女の右掌がふわりとからめ取り。
「治世であれば、人は言葉と理をもって統べられるべきもの。ですが今は乱世です。乱世に惑う人々が言葉を聞き、理を受け入れるものでしょうか?」
 琴美の拳を放し、女が右掌を差し伸べた。
 反射的にそれをつかみにいく琴美。
 が、女の掌は琴美の手が届く直前でわずかに退き、つかみ損ねた琴美はさらに手を伸ばして追い、またつかみ切れずに追い続ける。
 あと少し――あと少し――あと、少し――
「この掌と同じこと。乱世を導く手が必要なのです。誰よりも、どんな空論よりも揺るぎなく強い手が」
 気がついたときには琴美の体は大きく泳がされていて、立ちなおれないほど深く崩されていた。
「わたしの手は細く、弱い。それでも、格闘神様に降りかかろうと思い上がる火の粉を払う扇程度には役に立てます」
 女の手が倒れ込んでいく琴美の首筋を押さえ、半転させた。
 それによって琴美は延髄から床へ落ち。
 闘志と憎悪を意識ごと叩き壊された。

 力を失くした琴美の体を肩にかつぎ上げ、女が言う。
「格闘神様はあなたをおゆるしにはならないでしょうが……これもご命令ですので」
 お連れしますよ、あなたが目ざしたあの高みへ。神のまします天の座へ。
 女は胸の内でつぶやき、琴美を格闘神の待つ塔の最上階へと連れ去った。

 この後、なにが語られ、なにが演じられたのかは知れない。
 残された事実はただ、神に挑んだ女がひとり、この世界から姿を消した――ただそれだけであった。