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<東京怪談ノベル(シングル)>


真偽の行方
 真名を削り落とされ、犬の偽名を上書きされたイアル・ミラール。
 その内に在る鏡幻龍は語った。響・カスミには思い出す権利があり、義務がある……イアルを名乗る女との縁を。
 眠り続けるカスミを鏡幻龍が手招いた。
 数百年のほとんどを石やタールの内で“停止”したまま過ごしてきたイアル。その彼女が生者として演じた希有な幾日かへ。


 女王の間。
 玉座に腰かけた女王へ呪い師が告げた。
「王女と女たちは生きながらにして地獄へ落ちました。これでもう、女王陛下の純愛を脅かすものはおりませんよ」
 足元に這う元王の口――歯はもれなく折り砕かれている――へ足の指を突っ込んでやりながら、女王は満足気に笑んだ。
 彼女はようやく穏やかな日々を手に入れたと思っているのだろう。
 しかし、女はこの後いくらでも生まれてくる。
 それ以前に、政治などなにひとつ知らず、よきにはからわせるばかりの女がいつまで玉座を暖めていられるものか。
 ――ま、ウチの都合が噛み合ううちは保護して差し上げますけどもね。
 呪い師は慇懃に頭を垂れ、四肢を半ばから切り落とされて四つ足となった元王と、彼に飼い主として戯れを強いる女王のぎらついた目から笑みを隠した。


 イアルは暗闇の内にいる。
 わけもわからぬままに袋へ詰め込まれ、ずいぶん長い間揺さぶられ、吐き気をこらえきれなくなったころ、ここへ放り出された。
 手で探れば、ぬるりと湿った苔に覆われた石壁があると知れる。壁とは逆に、ざらりと乾いた床があることもだ。
 おそらくここは天然の洞窟。高さの測りようはないが、幅は四メートルほどか。そこに石床が敷き詰められているわけだが……なぜ、わざわざそのようなことを?
 事情はすぐに知れた。
「ゴオオオオオ」
 イアルの後ろで泣き叫ぶ女の声とにおいに惹かれて来たのだろう巨大な人型が、低く唸った。トロールだ。
 この床は人間のために敷かれたものではない。魔物が足を滑らせないために敷かれたものなのだ!
 反射的に身を床へ投げたイアルの上方を、太い風圧が行き過ぎる。
 そして女の悲鳴とともに風圧は戻り来て、洞窟は甲高い断末魔と血脂の臭いでいっぱいになった。
 なにが起きているのかが理解できず、沈黙を押し詰める女たちにイアルが鋭く告げた。
「見えなくてもいい! わたしの声がするほうに走って!」
 かくして王女は駆ける。生の骨が噛み砕かれる音から少しでも遠ざかるために。
 ついてくる靴音は少ないが……トロールの動作は緩慢だ。獲物を喰らい尽くすまでにはそれなりの時間がかかるだろう。残った女たちがその間に正気を取り戻せれば、助かる可能性はある。
 ――どうしてわたしはこんなことを知っている?
 トロールは獲物が豊富な山地に棲まう。近年では餌を求めて戦場へ降りてくることもあるようだが……普通に暮らしている人間が目にする機会はない。ましてや王宮の奥で守られ育ってきたはずの王女が、その生態や特性を知るはずがないのだ。
 そう、国を越えて世界を渡る旅人か傭兵でもない限りは。
 と。こんなことを考えている場合ではない。血のにおいがさらなる魔物を引き寄せている。
「こちらへ!」
 イアルは壁に左掌をすべらせて進路を探り、短い声音を発してついてくる女たちを導きながら進む。
 洞窟の奥へ、奥へ、奥へ。

 闇に身を浸しているうちに、苔が放つ微細な光を捕らえられるようになった。
 なんとか出口を探したいところだが、どこに魔物が潜んでいるかわからないし、出口が素直に開いてくれる保証もない。
 ――となれば、奥へ進んでみるしかないんだけど、ね。
 ここがなんらかの目的をもって造られた迷宮なのであれば、奥に進むほど強力な魔物が棲まっているはずだ。トロールを餌にするものが。そのものすらも餌にするものが。
 せめて剣があれば。
 歯がみしたイアルは、自らが歯がみしたことにとまどった。
 今までの人生の中で稽古以外に剣を取ったことなどないのに、なぜ? わたしはいったい――?
「ん――あ――」
 後ろから、低く抑えた声が聞こえた。
 生き延びた女たちが、不安に耐えかねて互いに抱き合っているのだ。
 すえた苔のにおいを押し退け、濃い女のにおいが立ちのぼる。
 止めようとして、イアルはあきらめた。
 どれほど生きられるか知れない人間には、慰めとぬくもりが必要だ。戦場の男が娼婦にそれを求めるように、死地にある女が互いを求め合うのは止められない。
 イアルは辺りをうかがいながら息を詰めた。
 そうしなければ、女たちのやわらかい肉に溺れたくなるから。
 それをしてしまえば、弱い自分を女たちに、それよりも自分に悟られてしまうから。

 こうして幾度もの儚い昂ぶりと浅い眠りを経ていく中。女たちは魔物に喰われ、または恐怖に駆られて自らの命を絶ち、その数を減らしていった。
「はっ!」
 イアルは跳びかかってきた獣魔の右目へ、迷宮の隅に残されていた短剣を突き込み、脳をかき回した。この肉を喰らい、血をすすれば、いくらか生き延びられるだろう。
 と。もう、なぜ自分がそのようなことができるのかを考えるのはやめた。
 今は生き延びるのだ、なんとしてでも。
「解体はもう少し安全な場所に戻ってから――」
 痙攣する獣魔の骸の顎を吊り上げ、振り向いたイアルが硬直した。
 そこにあるはずの女の顔がなかったからだ。
 リザードマンの顎に頭ごと食いちぎられたせいで。
 女たちを咥えていないリザードマンが、音もなくイアルへ迫る。
 リザードマンは迷宮の中層、地下水が沸き出している辺りを縄張りにしている。ここで遭遇したということは、獲物を追うことに気を取られ、想定よりも深く迷宮に踏み込んでいたか。
「……」
 イアルの耳では捕らえられない音波でやりとりをしながら、リザードマンが彼女を包囲した。
 イアルは骸を投げつけ、リザードマンの意識をそちらへ向けておきながら転進、まっすぐ逃げ出して。
「!」
 待ち構えていた別のリザードマンどもに阻まれた。
 リザードマン単体であれば、後れはとらない自信がある。問題はこのように群れで来られたときだ。巨大な地竜をも狩るその連携に、こんな小さな剣で立ち向かえるはずがない。
 見る間に追い詰められたイアルは見えるはずのない天をあおぐ。
 剣を! わたしの手に戦う術を!
 殺到するリザードマンの顎が、イアルの伸べた首筋を噛み裂く――
 と。
 ウオオオオオオオ!
 イアルの奥底から、音なき咆哮が轟いた。
 気圧され、動きを止めるリザードマンども。
 咆哮はなおもリザードマンを押し返しながらイアルに告げた。『戦エ! 生キヨ!』と。
 でも。
 言い返そうとしたイアルの左手を銀が包み、やがて形を成した。
「盾!」
 右手に生じた銀もまた形を得、確かな重さを成した。
「剣!」
 左手にカイトシールド、右手にロングソード。それはイアル自身の得物ではなかったが、問題はない。どのような武器も使いこなせてこそ、戦場で命を繋ぐことができる。
 イアルはシールドバッシュで先頭の個体を殴り飛ばし、続く個体の口へ切っ先を突き込んでひねり、引き抜いた。
「こっちを見なさい!」
 イアルは剣の柄頭で盾を叩き、高い音を鳴らす。リザードマンの固い外皮に剣の強さを試すのは愚策だ。こちらを向かせて、少ない手数で口腔をえぐる。相手が生物である以上、喉には神経、血管、急所。ひととおりそろっているのだから。
 かくして。群れを殺し尽くしたイアルは惨状を後にした。
『イアル……ールヨ。イマ……ソ……スメ』
 彼女の内から発せられていた声が途切れ、弱まっていく。
 声の主は、今まで彼女の内に在りながら沈黙を保ってきた鏡幻龍。
 乙女の純潔な魂に宿る龍は、身を穢されたイアルと真の意味で共鳴することはできないのだろう。しかし、イアルの危機に、わずかばかりとはいえその力を顕現させた。
 ――わたしには龍の加護があり、そして剣がある。恐れるものはなにもない。
 イアルは強く踏み出し、歩き出した。
 迷宮のさまよう日々はもう終わり。このときからは出口を目ざす。


「やっぱり、顔が綺麗でも素材がいいわけじゃありませんねぇ」
 使い魔の目を通じて迷宮の様子をうかがっていた呪い師が、円卓を囲む黒衣の魔女どもへ肩をすくめてみせた。
 魔女どもが大量の女をかり集めて迷宮へ落とした理由は、女王の許可の下で商材を得るためだ。そして商材とは、美しい容姿と、どれだけ削られてもなお輝きを失わぬ魂を備えた女。
 それを測るため、女たちに恐怖と危機を与えた。
 結果、残った商材はある意味でのイレギュラー――魔女どもがなんとしてでも手にしたい鏡幻龍の加護を持つ王女、ただひとりだった。
「いちおう、武器とかばらまいといたんですが……使ってくれたの王女だけでしたね。ただの女には酷な話でしたか」
「反省は次に生かせばいい。今は確実に王女の内の鏡幻龍を抑えるときであろうよ」
 魔女のひとりが呪い師を見やった。
「ですね。じゃあ、早速しかけましょう。このままだと出口抜けられちゃいますし、出番待ちの魔物さんもいらっしゃいますから」
 モノクルをふたつ繋げた眼鏡を鼻先から押し上げ、呪い師は口の端を吊り上げた。


 魔物を切り伏せ、突き倒し、進み続けて、イアルはついに出口を発見した。
 最初からこの剣と盾があれば誰も死なせずにすんだかもしれないのに。イアルは頭を振って悔いを払い落とし、出口である鉄扉へ手をかけて、
「っ!」
 大きく跳び退いた。
 わたしは知っている。これは……この圧力とにおいは……
 イアルを追うように扉を開いて押し入ってきたものは、二メートルを優に越えるなまめかしい巨体の女――いや。
「メドゥーサ!!」
 盾で目を隠し、メドゥーサの石化眼を防ぐイアル。しかし、その後が続かない。得体の知れぬ嫌悪と恐怖が彼女の体を縛りあげ、動きを阻害する。
「――このままでは!」
 盾を掲げたままイアルは剣を振るったが、彼女の体は意志に反してじりじりと下がるばかり。
 決定打どころか有効打すらも放てないまま、イアルは壁に後退を止められた。
「あっ」
 蛇の尾先で盾を跳ね上げられて、ついに石化眼と向き合った。
「く、あ、うっ」
 彼女の指先とつま先、髪先が……やがて腕と脚、頭部が、最後には心臓までもが石と化し、イアルは苦悶する顔を上向けた石像と成り果てた。
「――メドゥーサへの苦手意識、ちゃんと残ってたみたいですね」
 扉から踏み入ってきた呪い師がメドゥーサに指示を出した。
「そのままいちばん奥まで持っていっちゃってください。しばらく放置します」
 魔女どもに飼い慣らされたメドゥーサは、石像を抱えて迷宮の奥へ向かう。
 この迷宮にメドゥーサの石化眼を無効化できる魔物はいない。食い合わせの問題で最強の座にいる彼女に托せば、途中で像を損なうこともないだろう。
「奥に着いたら、石化をちょっとだけ解いてあげてくださいね。イアルさんにはたっぷり絶望してもらわないと」
 そう言い置いて呪い師は元どおり、迷宮の扉を閉ざした。
 ――程よくイアルさんの魂が弱るまでに、次の商材を集めておきますか。
 そして呪い師は世界を巡り、魔物の恐怖と牙に対抗しうる強く美しい素材を集めにかかった。このときから始まっていた計算違いに、まるで気づくことなく。

 迷宮の最奥に放置されたイアル。
 石と化した体はわずかに身じろぐこともなかったが……メドゥーサによって意識と五感のみ生身へ戻された彼女は、石の呪いを解こうと今も必死であがいた。
 このときイアル自身は気づいていなかったが、彼女の石肌からはかすかな甘香が漂い出していた。
 それに惹かれて押し寄せる魔物ども。彼らは互いに争い、相手を追い散らしてはイアルへその体をこすりつける。
 脂、汗、粘液、汚物、ときには精までもが彼女を汚し、それらの入り交じった悪臭が鼻をつく。
 頼りの鏡幻龍は沈黙したまま応えない。
 イアルは独り、目を逸らすことも鼻を塞ぐことも体をかわすこともできぬまま抵抗を続け――深く疲弊し、その魂の輝きを薄れさせていった。


 迷宮に落とされた女たちはとまどい、恐怖した。
 そして魔物の襲来とともに、本来の自分を取り戻した。
「石でもなんでもいい。手にできるものを手にして戦え!」
 彼女らは同じ部族に所属する戦士集団――アマゾネスであった。
 土着の病原菌によって女しか生まれぬアマゾネスは、膂力の不足を練度と連携で補い、強固な戦闘単位として機能する。
 リーダーの統率下、アマゾネスは陣を成して迷宮を進み、魔物を殺して喰らいながら、さらに奥へと踏み込んでいった。
 ここが人造の迷宮なら、封じられた宝のひとつもあるだろう。迷宮の造り手へ復讐する前に、それを贖いとして手に入れるのだ。
 そして。
 迷宮の主と思しきメドゥーサの首を落として封じたその先で、一体の石像を発見した。
「これは――」
 部下に辺りを見張らせ、魔物の脂に灯した火を頼りにリーダーが像を調べる。
 折り重なった汚れを爪でこすり落としてみれば、現われたのは美しい女の苦悶の表情。
 同時に匂い立った甘香に目をくらませながらも、リーダー鉄の理性をもって踏みとどまり、部下へ告げた。
「――この像こそが迷宮の宝だろう。まずはこれを持ち帰り、識者に托す。意趣返しはその後だ」
 なめした魔物の皮で幾重にも像をくるんでかついだアマゾネスたちが、来た路を取って返して地上を目ざす。
 先頭に立って行くリーダーの厳しく引き締まった面は誰と似ていることもなかったが――この夢の唯一の観客、カスミはどこかなつかしい、鏡に映るかつての自分と対面したかのような、不可思議な切なさを感じずにいられなかった。