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冥蝕の魔女の帰還
家から一歩踏み出すと、其処は一面の白に覆われた世界であった。
日中暖かかったから、夜になって冷えた水蒸気が霧となったのだろう。
何時もと同じ散歩のはずなのに、なんだか知らない世界に踏み込むような不思議な気持ちで楽しくなってくる。
とってもわくわくする、楽しい何かが待っているそんな気がした。
しっとりとした水気を孕む、夜霧を大きく吸い込み瞳を細める。
「にゅ?」
不意に胸元が軽やかな音を立てて振動するのに気がつき、千影はパタパタと胸元をたたいて振動の元を探した。
「武彦ちゃんだ」
暗闇に光る画面に、知り合いからのメッセージが入っていた。
「何かあったのかな?」
楽しいことがありそうな気配がして、千影は迷わず画面を打った。
「す・ぐ・い・く・ねっ」
文字を声に出し、ぽちぽちと一文字ずつ入力して、返信ボタンを押す。
「今日のお散歩の行き先は、武彦ちゃんのところにけってー!」
チリンと、ワンピースの裾に飾りつけたた、銀の鈴が音を鳴らした。
昨今にしては珍しく霧が立ち込める夜であった。
低く長く汽笛を鳴らし、夜霧をかき分け、すべる様に一艘の客船が人気のない港に接岸をした。
『御前様じゃ……』
『……おお、誠に栄神の嫁御前様よ…』
『……久方ぶりじゃ』
ざわざわと夜霧の中に潜む者が、舳先に姿を見せた人影に歓待のざわめきを上げる。
カツカツと高いヒールが桟橋へ伸びるタラップを鳴らし、1人の女性が東京の地に降り立った。
手には皮製の一抱えもありそうな鞄がひとつ。
「ただいま帰ったわ」
誰にともなく、ニコリとざわめきを含む夜霧に笑みを向ける。
久方ぶりに舞い戻った地を、自身の足で感じたいから……徒歩で帰ろうと、交通機関は使わず、人気のあるほうへ歩き出した。
この地を離れた時と、建物や景色は幾分変われども、雑多な気配に満ちた空気は変わらない。
子供達から届く手紙には、此処からは見えないが、建物は天突く程に高くそびえ立ち、昼も夜も至る所で灯りが煌々と灯される様になったと書いてあった。
怪異の好む闇は少なくなったが、その分より先ほど越えてきた海の海峡の底よりも深く、より昏くなったらしい。
「あの子達はどんな顔をするかしら?」
子供達にも、帰還する事は告げて居ない。
皆がどんな顔をするか、楽しみであった。
「時が呼んでいるの……止まっていた約束が動き出すわ」
詠う様に呟く。
「あの子達が要らぬというならば……今度こそ全てを、無かった事に。始まりの形に戻してあげましょう」
女の本質は蝕陰。
守護を誓った者達が、望むのであれば、系譜も、柵も、盟約も、何もかも全て、この手で無に帰し。
「これまでの流れが無駄だとは言わないけれど……」
何よりも守りたい者の障害にしかならぬというならば……。
この手で終わらせて仕舞いましょう。
「それが私の果たすべき償い。私の役目」
目的のためならば、世界の総てを敵に回しても構わない。
楽しげに女は、踊るような歩調で水気を含んだアスファルトを蹴った。
白と金をベースに聖夜をイメージが飾り付けがされた、ショーウィンドの街角の抜け、閑静な住宅街に足を進める。
古い石造りの水道橋を渡り、おぼろげな記憶を手繰り寄せる。
「もうひとつ先の角を左……あら? 右だったかしら?」
記憶によれば、そろそろ目印になる神社の鳥居が見えてくるはずだった。
「もう少し先立ったかしら」
気がつけばぐるぐると同じ場所を歩いている様であった。
夜霧の中に途方にくれた先で、燕尾服を着た人影立っていた。
ぼんやりとした街頭のしたで、それは壁に映った影そのものであった。
「おや……これはこれは、冥蝕の姫君では御座いませんか」
影が女に気がつき恭しく腰を屈めて見せた。
「御機嫌よう。お久しぶりね」
もう姫と言う年では無いのだけれど…。
苦笑しながら、軽く漆黒のドレスの裾をつまみ礼返した。
「ところで、私。家に帰りたいのだけれど、何処だったかしら?」
街並みが随分変わってしまったから、道が朧気で先程から同じ場所をぐるぐる歩いているみたいなの。
けして、脳が老化して萎縮したわけじゃ無いのよ。
と、軽く頬を染め俯き小さな声で問いかけた。
「其れでしたら……其処の十字路で立ち尽くしている、災難にばかり好かれそうな背中の煤けた探偵殿に聞くのが良いでしょうぞ」
ほれ、其処の。
我らの事に気がつきながらも、全力で見えて居ない風を装う、怪奇探偵殿が適任だ。
と、ひょろ長い陰は戯けた調子で女の背後を指し示した。
「其れではわたくしは是にて……御前失礼致します。一足先に皆々に姫の帰還をふれてまわりましょう」
カカカカっと、闇夜に笑い声を響かせて、異形の影は霧に紛れるように一陣の風にのり、姿を消した。
巷で怪奇探偵と称される草間武彦が、その場に居合わせたのは偶然だった。
タバコが切れたので買いに出る序でに、封書を投函しようと、近所のコンビニからほんの少しだけ足を伸ばした所にあるポストまで行こうとしたのが間違だったのだ。
神魔、怪異、怨霊呼び方は様々あれど、人為らざる物が活動的になる時間帯に出歩くものではないと痛感する。
夜霧立ち込める宵闇の中。
場違いな女の姿が目に飛び込んで来た。
服飾に疎い武彦が表現するならば、一言で言うと『高そうな』漆黒のドレスに、黒の毛皮のケープを肩に掛けた女。
無邪気な少女の様な容貌に重なる、老成した気配と優艶な物腰。
可憐な乙女の様にも、枯木を思わせる老婆様にも見える、得たいの知れぬナニかが目の前にいた。
鮮やかな薔薇を思わせる赤髪の彼女は、恐れる事もなく、長身の異形の陰に語りかけていた。
振り向くな、俺は無関係だ。
無心だ。
空気に成るんだ、俺。
「御機嫌よう。探偵さん?」
で、良かったかしら。
武彦の努力も虚しく、其れまで異形を見上げ、歓談しているように見えた女が、くるりと武彦を振り返り小首を傾げて見せた。
瞳の色は髪よりも鮮やかな咲き初めの薔薇。
闇夜の下、僅かに遠い街灯の灯りよりも鮮やかに見えるにも関わらず、その中に映り込むのは深淵よりも昏い闇。
見た目は己の妹よりも幼く見えた。
だがしかし、武彦の長年の勘が、目の前にいる者は見た目通りの生き物ではない事を感じていた。
出来ることならば絶対に関わりになってはイケない類の存在であろう。
「あー……何か御用かな。お嬢さん」
「私。帰る家を探しているの」
貴方なら判るだろうって事なのだけれど……。
「随分長い事、この地を離れていたから……すっかり街並みが変わってしまって」
可愛らしいと言うであろう、顔を曇らせる。
「つまり……迷子か」
武彦は重くため息を1ついた。
「ついこの間、出かけたと思っていたのだけれど……人の営みは、早い物ね」
女は何かを懐かしむように瞳を細めた。
「離れてどの位経つんだ?」
「20年は経っていないと思うのだけれど……」
何でもない事の様に答える。
夫はとうになく。
子供達が各々に独り立ちをしたから、久しぶりに自分の時間を過ごしたくなり…。
「少しの間、旅に出ていたのよ」
子持ちには見えない女には、3人の子供がいるらしい。
「あんたの家が元の場所にそのまま残っているのは間違いないのか?」
帰るのだと言う、家自体が既に喪われているのではないかという、武彦が疑問に女は気を悪くした様子もなく笑顔で否定する。
「ええ♪」
色々残して来たから、器である家がなくなったら分かる筈なのだと続けた。
「だって、この街がこんなに平和なのですもの」
家が喪われて、中に入れてあったモノが外に漏れだしたとしたら……平穏とは真逆の荒廃した世界になってしまうから……。
「………」
女が肩を竦め、小さく洩らした呟きを武彦は聞かなかった事にした。
「ところで先程から何をしているのかしら?」
「ちょっと、助っ人の要請を……だな」
片手でスマートフォンを操作している武彦の手元を女がしげしげと覗き込んだ。
「今は、そんな物で連絡が出来るのね」
珍しくリアルタイムでSNSが既読になり、送信相手から返答が来る。
「よし……。すぐ来られるらしい」
これで捕まらなければ、一度事務所に戻らなければ為らなくなる所であった。
顔を上げると間を置かず、チリンと遠くで鳴り響く鈴の音が聞こえた。
「こんばんわっ♪ 武彦ちゃん」
御用はなぁに?
チリン、チリンと楽しげな鈴音が近づいてきて、ひょっこりと小さな人影が元気に飛び出して来た。
「落ち着けチカ、夜だから騒ぐな」
萌えいずる新緑の虹彩に縁取られた、猫を思わせる縦長の瞳孔を持つ少女が勢いのままに武彦に飛び付いた。
緩く波打つ黒髪を、両耳の直ぐ上ですくうようにリボンで結わえ、光沢のある緑の糸で飾られたふんわりとした膝丈のワンピースは黒のベルベット。
裾の所々に縫い取られた柊の葉の刺繍と、銀の鈴飾りがアクセントになっていた。
近所迷惑になるからと、武彦は喜色を満面に、はしゃぐ少女の頭にぽむりと手を乗せた。
「お呼ばれしたから、チカは来たのよ?」
心外だと、ボリュームに乏しい胸をはる千影の頭を、掴む指先に軽く力を入れる。
「世間様は寝てる時間だからな。お前も御主人様が寝てる横で誰かが騒いで、御主人様が起きたら嫌だろ」
「……そうかな。うん。そうかも?」
千影でも分かるような例えを交え、言い聞かせてみたが……。
疑問符が残るこの言葉尻の様子では、間違いなく、次回会ったときには覚えていないであろう事を、武彦は短くない付き合いで覚っていた。
千影の頭に乗せた拍子に袖から見えた腕時計が、深夜0時を指していた。
「待たせたな、あんたの家について外観とか目印とかが有れば、こいつに聞くといい」
見た目は小娘で、頼り無さげかもしれないが……街一番の情報通である事には間違いない。
「もしかして………チカちゃん?」
女の手から皮の鞄が音を立てて地面に落ちた。
「まぁまぁ、大きくなったわね」
「うにゅ?」
横から抱きしめられ、大きな瞳を殊更に大きく見開き、女の腕の中で千影が不思議そうに小首を傾げる。
スンスンと回されたケープから覗くドレスの袖元に、記憶の片隅にある何かを確かめる様に、猫さながらの仕草で鼻を寄せた。
「最後に会ったのは、まだ2人とも小さかったから……忘れちゃったかしら?」
「………ぅん……と……。華南ちゃん? 華南ちゃんだ!」
お帰りなさいっ! と、千影が破顔した。
「そうよー。本当に大きくなったわね」
やたらと交友範囲の広いこの子猫だから、何かの手掛かりになればと思って声を掛けたのだけれど……。
手を取り合って再会を喜ぶ二人の勢いに付いていけず、武彦が夜空を見上げる。
ふと気付けば、先程まで立ち込めていた夜霧が晴れ、夜天に届かんばかりに建ち伸びる高速ビル郡の切れ間に星空が広がっているのが見えた。
「チカ……知り合いか」
「華南ちゃんだよー。華南ちゃんは……。え〜……と。ママ様のママ様!」
束の間の思惟。
千影の口から出てきた珍しくもピンポイントな回答に、思わず武彦の顔がビキりッと、音をたてて強ばった。
この子猫が主の母をママ様と呼び慕っているは武彦も知る所である。
主の母の母、即ち其れが意味する所は……。
「あれの……婆ちゃんか」
似ていない……。
思わず本音が漏れた。
「…………そうなるわね……私は、華南。栄神の華南よ、華南でいいわ」
華南の口元に一際深く刻まれたな微笑みが怖い。
「………草間・武彦だ」
武彦の『婆ちゃん』呼びに、一瞬だけ殺されそうな殺意を感じたが、厄介ごとが解決しそうな事だけが救いであった。
「まさか、うちの子達と偶然出会った探偵さんが知り合いだったなんて」
世界は狭いものね。
華南と名乗った女が、ふふふと笑みをこぼした。
「………全くだ」
「ありがとう武彦クン。助かったわ。チカちゃんにもお土産があるのよ。お家に案内してくれるかしら」
落としていた鞄を拾い上げ、パタパタと汚れをはたく。
「うん♪ 華南ちゃん。お鞄チカが持つよ。じゃあ、武彦ちゃん。またね」
「あぁ……またな」
武彦に見送られ、華南と千影は仲良く手をつなぎ、夜の東京に帰っていった。
「何があっても、貴方が全てを見届けてね……」
華南は去り際に武彦にだけ聞こえる様に、耳元に囁きを残し、意味深な笑みを浮かべいていた。
「これ以上。厄介ごととは関わりたくないんだがな」
千影は元より、今夜であった華南という女とも短くない付き合いになりそうな、そんな予感を確信していた。
【 Fin 】
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