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<東京怪談ノベル(シングル)>


温かな聖水


 見せても支障はない、と言うより見せる事を前提に作られた黒のスポーツブラが、胸に密着している。
 微かな膨らみを精一杯、強調してくれるデザインである。
 自分のためにイアル・ミラールが一生懸命、選んでくれたに違いない、と茂枝萌は思った。
「あいつ胸小さいから……なんて思いながら? ねえイアル」
 この場にいない相手に語りかけながら、萌は鏡を見つめ、軽く身を翻し、確認してみた。
 イアルからの贈り物を身にまとった、己の姿をだ。
 ゆったりと下半身全体を覆う黒のパンツは、両脚の動きを妨げない。
 スポーツブラだけを巻き付けた上半身に、同じく黒のトップスを羽織っているのだが、これは丈が短く、脇腹のラインが丸見えである。体型をごまかす事が、全く出来ない。
 常日頃から過酷なまでに身体を動かしている、胸はないが肥満とも無縁なIO2女エージェントのために、イアルが選んでくれたものである。
 彼女からのプレゼントであるが直接、手渡されたわけではない。
 いつの間にか、萌の自室に置いてあったのだ。
 イアル・ミラールより、惜別の思いを込めて。そんな事が書かれた、メッセージカードと一緒にだ。
 手書きのメッセージカードである。だから、それがイアル本人の筆跡ではない事もわかった。
「イアル……ねえ、何があったの一体……」
 イアル・ミラールが、またしても姿を消した。
 どうやら魔女結社の仕業ではないらしい。現時点でわかっているのは、それだけである。
 IO2の捜査網にも、全く引っかかってこないのだ。
「イアル……どこにいるの? ねえ、どこへ行っちゃったの……」
 呟いてみる。鏡に向かって問いかける、ような格好になった。
 もちろん白雪姫ではあるまいし、鏡が答えてくれるはずはない。
 魔法の鏡、ではない単なる安物の壁掛け鏡を、萌はじっと見つめた。無言で、唇を引き結んだまま。
 その唇が、鏡の中で微かに動いた。
 鏡の中の自分が、何かを言おうとしている。そんな夢のような事を、萌は思った。
 もう1つ、鏡がある。
 机の上に放り出してある、年代物の手鏡。5匹の龍が鏡面を取り囲んでいる。
 萌はとっさに、それを手にとって覗き込んだ。
 手鏡に映った萌が、言葉を発した。
『……繋がった……ようやく……』
「……鏡幻龍……なの……?」
 はたから見れば不気味この上ない、鏡との会話を、萌は始めた。
「今どこにいるの!? 貴方も、それにイアルも」
『……捕われている……虚無の境界の、盟主に……』
 萌は、己の耳を疑った。
『この鏡を通じて……茂枝萌、お前と連絡を取る……それが、今の私には精一杯だ……』
「私は、何をすればいいの」
 何か考える事もなく、萌は言った。
「あの女からイアルを取り戻すために……私は、何をすれば?」
『盟主直筆の……メッセージカード……』
 鏡幻龍の声は、今にも聞き取れなくなってしまいそうだ。
『そこに付着している、盟主の微かな念を……辿って来て、もらうしかない……私が、案内をする』


 1人は、炎か電光か判然としない怪光線に打たれて消し炭と化した。
 1人は、念動力の塊を喰らって砕け散った。
 1人は、身体の中身と外側をひっくり返され、よくわからぬ形の屍となっている。
 1人は、召喚された悪霊に食い尽くされて跡形も無くなった。
 IO2きっての腕利きエージェントがたちが、まるでRPGの敵キャラクターの如く一掃されてしまった。
 彼らへの鎮魂歌であるかのように『終末の予定』が流れている。
 うっとりと聴き入っている『虚無の境界』盟主に、萌は斬りかかった。
 高周波振動ブレードが、一閃した。したたかな手ごたえが、少女のたおやかな五指を震わせる。
「ヴィルト……カッツェ……そう、貴女もいたのね」
 盟主の口調が若干、苦しげに揺らぐ。
 虚無の境界の、盟主の居所が掴めるかも知れない。
 IO2上層部に萌がそう報告したところ、4人のエージェントが一緒に来てくれる事になった。
 目的は無論、イアル・ミラール奪還などという茂枝萌の私事ではない。盟主の暗殺である。
 それは失敗だ、と萌は確信した。
 エージェント4名はあっさりと斃され、萌1人が盟主を負傷させる事に辛うじて成功したものの、この程度で絶命してくれる相手ではない。
 だから萌は、私事を優先させる事にした。
 盟主の傍にあった石像を、左腕で担ぎ上げる。重い、などとは言っていられない。火事場の馬鹿力を、無理矢理にでも発動させるしかない。
 振動ブレードの柄を口に咥え、可愛らしい歯でしっかりと固定しながら、萌は右手で小さなものを回収した。
 おかしな模様の、コンパクトミラーである。
『そう……それだ。その中に……私の本体が、封印されている……』
 非力な分身となり、五色龍の手鏡を通じて萌に接触を図ってきた鏡幻龍が、言った。
『退却する……この場で、盟主と戦ったところで……勝てる、わけがない……』
 5色の光が、石像を担いだ萌の全身を包み込む。
 自分は今、この場から消えようとしているのだ、と萌は感じた。
「……いいわ。イアル・ミラールは、とりあえず返してあげる。私に手傷を与えた御褒美よ、ヴィルトカッツェ」
 盟主の、声だけが聞こえる。
「私も、しばらく忙しくなる事だし……ひとまず、預けておくわね」


 身も心も石像となったイアル・ミラールを、IO2の技術で元に戻す事は出来ない。鏡幻龍は、そう言った。
『1つ、必要なものがある。それは聖水だ』
「聖水……」
 萌は、首を傾げた。
「IO2は、ローマ教皇庁とも繋がりがある。本物の聖水を手に入れるのが、そんなに難しい事だとは思えない……もちろん私の一存じゃ無理だろうけど、虚無の境界の盟主と繋がりのある重要人物を、石化から解き放つためなら、上層部だって動いてくれる」
『そんな手間は要らない。ここで言う聖水とは、もっと容易く手に入るものだ』
 五色龍の手鏡に映った萌が、そんな事を言いながら、何やら困ったような顔をしている。
『聖水……と言っても、わからんか。本当にわからんのか茂枝萌よ。お前の年齢でわかってしまうようでは、それはそれで大問題なのだが』
「はっきりしないね。何、その聖水というのは何か危険なものの隠語? 古代の忌み言葉か何か?」
 禁じられた、あるいは封印された、呪いの言葉。そういったものが災厄をもたらした事態は、IO2でもいくつか記録されている。
 だが次の瞬間、鏡幻龍が口にしたのは、そのような事ではなかった。
 萌は思わず、手鏡を床に叩き付けてしまうところだった。
「こんな時に、くだらない冗談を言うのは……いくら貴方でも許さないよ、鏡幻龍」
『すまぬが冗談ではないのだ。現にイアル・ミラールは、これまで幾度も、その方法で助かっている』
 鏡像の茂枝萌が、手鏡の中で俯いた。
『やってはくれぬか。お前に断られたら、他の者に頼むしかなくなる。例えば、あの女教師』
「私がやる」
 萌は即答した。
「イアルは……私が、助けるから」


 誰かが、耳元で何かを囁いている。
 イアル・ミラールは、そう感じた。
 あの盟主であろうか。
 彼女はそうやって、イアルを愛でてくれたものだ。
 滅びの石像イアル・ミラールがいかに素晴らしい存在であるかを囁きながら、時には石化から解き放ってくれたりもした。
 たとえ生身に戻っても、しかしイアルは彼女の所有物であった。物、であった。
 硬く冷たい『もの』に変わった心に、温かな何かが染み込んで来るのを今、イアルは感じている。
「イアル……私、貴女が好き……」
 囁く言葉に合わせて、温かな液体が全身を濡らしてゆく。
「どういう、好き……か、は自分で考えてね」
「……萌……?」
 今まで石に変わっていた唇が、言葉を紡ぐ。
 生身に戻ると同時に、イアルはその名を呼んでいた。目の前に、いたからだ。
「何を言って……ねえ、何をしているの……?」
「……それも自分で考えて。私、言いたくない」
 茂枝萌が、ぷいと顔を逸らせてしまう。
 温かさと、そして妙な匂いが今、イアルの全身を包み込んでいた。
 萌が、いくらか上目遣いに視線だけを向けてくる。そして言った。
「……お風呂、入る?」
「……そうさせて、もらうわ」
 自分が何をされていたのかを、イアルは即座に理解した。
 よくある事だ、と思うしかなかった。