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夜宵の魔女が“夜宵”になった日
■1■
長きに渡り常識という重い枷に身を委ねきって生きてきた初老過ぎの男にとって、その現実はなかなかに受け入れ難いものであった。常識人という自負もある。これが10代20代の脳みそ空っぽにして突っ走れた若さがあったならまだ良かったのかもしれない。
この歳になってこの現実はダメだ。いくら肉体が若返ろうが精神は若返らないのだから関係ない。いろいろダメだ。無理に決まっている。せめて自分を乗っ取ろうとした悪魔とやらが男であったなら許容出来たのだろうか。いや、どっちにしてもダメだ。無理なものは無理なのだ。
そう思っていた。
だが。
そんなのは数日程の葛藤に過ぎなかった。
いつしか考えても出ることのない答えを求めるのに疲れ果て、諦念と麻痺によってこの現実を現実として、非常識を常識として受け入れていた。
つまりは何やかやあって己の脳内に棲み付いた女悪魔との共存共栄も、あれほどの紆余曲折があったにも拘わらず、今となってはすっかり状況に馴染んでしまっていたのだ。
返す返すも慣れとは恐ろしいものである。
そんなこんなで――。
太一は脳内の女悪魔に今朝もいつものように呼びかけた。いつものように。いつもの…。
「あの…」
脳内の女悪魔はそれにやっぱりいつものように『何用か?』と返す。
「着替えたいのでお願いします」
何がお願いなのやら、しかしそれ以外の言い方を思いつかないのだから仕方がない。そんな太一の言に、最初は噴き出して笑っていた女悪魔も今となっては呆れたのか特段反応を示す事もなくなった。
彼女も慣れたのだろう。
『わかった』
そうして作り上げられていく、これが太一の今の日常だった。
ところで――。
太一は脳内の女悪魔の事を「あの」とか「おい」とか呼んでいた。いや呼んでいると言ってももちろんそれらが女悪魔の名前というわけではない。ただ、そう呼びかけているだけだ。それで彼女は応えてくれるし、別段問題も不都合も不便もなかった。
ないと思っていた。
鏡に映るいつも通りの自分の顔を見て、それから首もとのネクタイに視線を落とし鏡を見ながらネクタイを結びつつ、ふと思い出す。
時々、脳内の女悪魔は太一の体を使う。
あまり思い出したくもない現実だが、女体化させられた体は初老を過ぎた男には苦行でしかないのに、その上、魔女の姿を晒してくれるのだ。コスプレと自分に言い聞かせてなんとか自我を保ってはいるが、正直あれほどの辱めを受けるとは。
いや、今はそういう事ではなくて。
女悪魔は魔女の姿で他人と接触した際、なんと名乗っているのだろう。
よもや、松本太一と名乗るわけではあるまいな、と恐ろしい想像が脳裏を過ぎって太一は何とはなしに訊いてみた。
「あの…」
彼女の名前を。
だがそれは。
――……キコエナカッ…タ?
■2■
目を開ける。ベージュのエンボス加工された天井の、地震の時に歪みで剥がれかけそのままになっている壁紙が視界に入った。
見慣れているかといえば寝室ほど見慣れているわけでもない、恐らくこんなにマジマジと見たことはなかったんじゃ、と思うリビングの天井。
まごうかたなき自分のアパートの天井だ。
それでよかったと心底思ったのはそれから数分後の事である。
とにもかくにも。天井をぼんやりと見つめながらフローリングの冷たい床に転がっている事実よりも、頬を伝うものが気になってそれに手で触れた。涙…ではない。涙も混じっているのかもしれない。でも、それは半開きの口の端から垂れている。
この歳で何をやってるんだ、と呆れつつ誰も見る者のない自宅で良かったと安堵しながら、それを手の甲で拭い、若干陰鬱な気持ちで上体を起こした。
「寝て…いた…のか?」
自問に違うと自答する。床についた手の平に、否、全身に嫌な脂汗をかいていた。
視線を周囲に投げる。時計の短い針が10を指していた。
着ているものはYシャツにネクタイ、スラックス。
「仕事!! 会社!!」
一般常識に寄り添って生きてきた男は条件反射のようにそう声をあげて立ち上がったのだが、すぐに冷静になった。
「間に合いません…よね…」
とるものもとりあえず職場に電話し謝罪と午前半休を申し出て何とか人心地吐く。全休に出来ない自分に自嘲のそれを滲ませながら。
「…で」
――自分は一体何をしていたのだ?
――何故、リビングの床に倒れていた?
この歳になると正直、脳卒中とか脳溢血とかそんな単語も過ぎらなくはないが、女悪魔と契約を交わした時点でこの肉体は若返り不老不死となっている。病魔に冒される事もないだろう。
「貴女は、見ていたのですか? 知っているのですか? 何があったのですか?」
わざわざ口に出して半ば自問するように太一は“貴女”に呼びかけた。それは自分でも不思議なほど穏やかなものだった。
もしかしたら愚問だったかもしれない。
『質問ばかりだな』
彼女はどこか辟易とした感じで応えてはいたが、大仰なところをみると言葉通りというわけでもないらしい。
「すみません。記憶が飛んでいて」
見ていないわけがない。知らないわけがない。何があったのか。
『……貴方の肉体は私と融合した事で不老不死になった。だが、貴方の魂は私と融合していないし不老不死にもなっていない、というだけの事』
彼女は淡々と答えた。どこか他人事のように。いや、他人事であったか。
「言っている意味がよくわかりません」
禅問答かよと太一は内心で突っ込んだ。この内心はどこまで彼女に筒抜けなのだろう。プライバシーはどこにあるのか。
『肉体的ダメージなら軽減出来るが、精神的ダメージは軽減できない』
どうやら直接的な答えはいただけないらしい。わざとそうしているのか何か意図があっての事なのか、彼女がそういう性格なだけなのか。
「それは…私はなんらかの強い精神的ダメージを受けたという事ですか?」
『そう』
「それで失神したと…」
失神するような何かとは。もちろん気になる。知る事によって再び同じ事態に陥らないとも限らない、とも思ったが彼女が教えてくれないという事は自分が思い出す事に意味があるような気もした。
よく思い出せ。意識を失う直前の事を。
記憶の糸をゆっくりと辿っていく。背筋がゾクリと凍えた。何かおぞましいモノが自分を蝕んでいくような錯覚。全身から汗が吹きだし総毛立つ。発狂したくなるほどに。
聞いた。音のようなもの。聞こえたような気もしたが、たぶん自分には聞き取れぬ、解せぬ。音なのか、はたまた別の何かだったのか。
――そうだ。名前を聞いたんだ。
■3■
――ドウやら“名前”を聞いたダケで精神はオカされるラシイ。
名前でこうなのだから、それこそ女性に年齢なんか訊いたら死に至るんじゃなかろうか。もちろん精神が。
日本にも古くから言霊信仰というものはある。言葉には魂が宿る。名前にも魂が宿り時に縛り縛られたりもする。もちろん、日本だけではない。中国でもかつては名の他に字名を持っていたし、西洋文学にもそういう件はいくらも散見される。
だから、名前が大きな意味と力を持つことは理解出来なくもない。
出来なくもないが…。
一方で、ああ、そうだったのかと思う。ただ名前を聞いて失神しただけだと教えられていたら、にわかには信じられなかったし信じなかったに違いない。説明されてもまさかと思って結局無意味な押し問答を繰り返して、ここに至る事になっただろう。
改めて、女悪魔は人ならざるものなのだと思い知る。
その名の、その在り様の禍々しさと凶々しさ。
太一はこの時初めて恐怖した。
自分の中のものを畏れた。
それまでもそうでなかったわけではない。わけのわからない出来事に困惑し多少の恐怖も覚えていた。
だけど、ここまでのものではなかったように思う。
相手は、ただ名前を呼ぶことすら、名前を聞くことすら赦されぬ程の存在だったのだ。
「え? あれ? ちょっと待って下さい…」
名を呼ぶことは縛り縛られる。そういえば、女悪魔と契約を交わす時に真名対策をしていた事を思い出した。女悪魔が太一の名を呼ぶことに問題はない。太一が彼女に縛られる事もなかった。
そういう対策を逆にも施せばいいのでは、と考えたのだが。
『無理を言うな。契約は既に交わされている』
そこに新たな条件を加えるのはどうやら出来ないという事か。それ以前の問題かもしれないが。あの時は、彼女の名など必要と思わなかった。彼女の存在に興味がなかったともいう。突然訪れた災厄に、出来るだけ目をつぶり、関わらず、干渉せず、関知せず、無関心に共存共栄出来ればいいと思っていたからだ。
だが、彼女の名前は必要だ。
さし当たっての問題は自分が魔女になった時の呼称である。“松本太一”なんてのは絶対にダメだ。
かと言って、彼女と契約を交わしている自分でさえ失神するレベルなのに、彼女に本当の名前を名乗らせるなどそれこそ狂気の沙汰だろう。一般人では狂死しかねない。
せめて仮の呼称を用意すべきだ。他人が彼女を呼ぶのにも、あるとは思っていなかったが自分が彼女を呼ぶのにも。
かといって犬猫に付けるのでもないし、適当な呼び名がすぐには思いつくとは…いや。
「夜宵の魔女…」
『何だ?』
「“夜宵の魔女”なんですよね?」
夜宵の魔女、言うなればそれは彼女の二つ名…という事になるのではないか。
『そうだが』
とはいえ、夜宵の魔女と呼称するには長いし聞いた一般人はドン引きだろう。
「なら、もう、夜宵でよくないですか?」
略して夜宵だ。
『…は?』
ヤヨイは普通に女の子の名前としてあるし、最近流行のキラキラネームでもない。とてもいい名前のような気がした。
「夜宵にしましょう。夜宵さん。貴女は今日から夜宵さんです。魔女になった時は夜宵と名乗ってください。“松本太一”じゃなくて“夜宵”ですからね」
『………』
太一の言葉に女悪魔はしばらく熟考するように沈黙を保っていたがやがて。
『わかった』
と応えた。
太一はそれからシャワーで汗を流して、朝食とも昼食ともつかない食事をし予定通りに出社した。
その日、夜宵の魔女は“夜宵”になった。
■END■
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