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<東京怪談ノベル(シングル)>


忍の詭
 襲い来る拳を掌打で払い、膝関節にブーツの踵を打ち込んでへし折る。
 物陰から跳び出してくる刃へ苦無を滑らせ、その根元にある腕の筋を斬り裂く。
 包囲して一気に押し潰そうと図る者たちを、火薬を塗した菱と棒手裏剣で撃ち落とす。
 父の仇――“格闘神”を詐称する男を倒すため、その居城である“死の塔”へと挑んだ水嶋・琴美。神の兵士らを打ち倒し、塔の頂を目ざす彼女の足が、ふと止まった。
「最小限! 最小限の力しか出してらっしゃらない! エンタテイメント精神が足りてません。それじゃあお客様にご満足いただけませんよぉ」
 なにもない、がらりと広いばかりの空間のただ中に置かれたパイプイス。そこに尻の端を引っかけて座す坊主頭の肥満漢が、琴美へ笑みを向けた。
 ワンショルダータイプのタイツをまとうその姿は、騙りでないならプロレスラーということか。
「格闘神とやらが入口で待っていてくれるなら、こんなに野暮な真似をしなくてもすんだのだけれど」
 クォ。短い息吹で体内から二酸化炭素まみれの古い酸素を抜き、新鮮な空気を吸い込んで丹田まで落とした。
 腹の奥にあるという丹田はひとつの概念に過ぎないが、腹式呼吸で大量に取り入れた酸素は血液を満たし、体の疲労を洗い流す。
「様式美ってやつなんでしょうかねぇ。ま、ギャラ泥棒をまた呼んでくれる興業主はいませんから。もらった分はきっちり働かせてもらいますよっ!!」
 坊主が尻の下からイスをするりと抜き取り、琴美の顔面へ突き込んできた。
 彼は座ってなどいなかった。いつでも奇襲できるよう、空気椅子で待ち受けていたのだ。
「でたらめな筋力ね」
 琴美は息を吹き抜き、瞬時に脱力することで腰を落とした。イスが彼女の頭上を通り過ぎる……
「エンタメですよエンタメ! ――ばぁ!!」
 おどけた声をとともに、坊主がイスを開いた。点より面へと転じた、奇襲からの奇襲。このままでは、広げられたイスの端が琴美の頭部を打つ。
 が。
「ふっ」
 琴美は脱力していた体に息を――活を吹き込み、拡げた両足の裏で床を押した。地球という超重量へ挑んだ琴美の体は逆に上へと跳ね上げられ、結果、呼吸法で固めた肩がイスの座席部を打ち上げる。
「ちぃっ!」
 坊主の手からイスがすっぽ抜けた。
「はっ!」
 がら空きになった坊主の右腹を、琴美の左回し蹴りが打つ。盛大に波打つ腹の肉。そこへ左の鉤打ち、肩を押し立てての体当たり、さらには後転に乗せた蹴り上げを叩き込むが。
「ぐふぅ」
 坊主は眉をひそめてうめくばかり。
 右腹には人体における急所のひとつ、肝臓が収まっている。しかし、そこだけを執拗に狙い打ったはずが、致命打を与えられなかった。
 ――衝撃を脂肪で吸収して、打撃を筋肉で止めた。その上で小さく体を揺すって、肝臓への直撃を避ける。エンターテイナーを自称するだけのことはあるわね。
 近年のレスラーには鍛え抜いた筋肉美を誇る者も多いが……彼らの真骨頂はバンプ(受け身)にある。
 相手の技を派手に受けてみせながら自らの体を守るため、脂肪という吸収材を最大限に活用する技を磨いているのだ。つまるところ、太っていても緩んでいるわけではない。そして。
 琴美は坊主の鳩尾に前蹴りを突き立てた。攻撃のためではなく、打たれながらじりじりとすり寄ってきた坊主から離れるために。
「おおっと」
 蹴りに押されてたたらを踏んで、坊主の巨体が仰向けに床へ倒れ込んだ。
 琴美は追わない。距離を取ったまま動かない。
「あなたの業界ではシュート(本気)というのだったわね。エンターテイメントを騙る一方的なシュートにつきあうつもりはないわ」
「ノリが悪いですねぇ。レスラーがキャッチ(組み技・固め技)に持ち込みたいのはあたりまえじゃありませんか」
 琴美の左の爪先が、転がったままの坊主の内膝へ伸びた。コツリ。
「しょっぱい! しょっぱいですよぉ!」
 琴美は応えず、同じ場所へコツリ。
「エンタメ精神ですってば! この死合は格闘神様も見てらっしゃるんですから!」
 コツリ。
 コツリ。コツリ。コツリ。コツリ。坊主がわめくたび、琴美のかるいトゥ・キックが彼の内膝をノックし続ける。
「まったく――そっちがその気なら」
 男の手が、振り込まれてきた琴美の足へ伸びた。ころりと太い小指が編み上げブーツの紐にかかり、そして一気に引き寄せる。
「逃がしませんよぉ! 何度もへし折りながら強くしてきたアタシの小指はねぇ、暴れる人間3人ぶら下げたって平気なんですから!!」
 抵抗する間もなく引き寄せられ、倒された。
 体つきからは想像もつかないほどの速さで坊主が琴美にのしかかり、脂肪の内に抱え込んで視界を塞いだ。
 その中で、琴美の右腕が肘から折りたたまれ、肩をねじられ。ひとつの形に固められていく。まるでそう、鶏の手羽先がごとくに。
 果たして。わずか5秒で『V1アームロック』と呼ばれる技が完成した。
「ギブアップは、聞きませんからねぇ」
 琴美の手首を掴んだ右手を引き絞り、一気に肩関節を破壊する――
「!?」
 手応えなく、くたりと曲がり落ちる琴美の右腕。
 坊主が極めに来た瞬間、琴美は自らの肩関節を外していたのだ。
「ギブアップは聞かない。それでいいんだったわね」
 骨を伝って届いた琴美の声音。
 坊主はあわてて彼女の体から転がり落ちようとしたが。
「ぎぃ!!」
 先ほど執拗に蹴り続けられた内膝を突かれ、悶絶した。
 疲労と同様、ダメージというものは蓄積する。力を抜いた攻撃でも、同じ場所を打ち抜き続ければ……最後の一撃によってその箇所を破壊する楔と化す。
 腰を浮かせ、動きを止めた坊主の下からすり抜けた琴美の脚が、蛇のごときやわらかさをもって坊主の首へと巻きついた。
「蛇のごとくに這い」
 自身の脚と坊主の肉とで頸動脈を固め、締め上げる琴美。
「葛(かずら)のごとくめぐる」
 柔術に云う三角締めにからめ取られながら、それでも坊主は常人離れした膂力で琴美の膝裏の隙間へとねじ込んでいく。敵をキャッチすることだけのために地獄へ浸してきた、その小指を。
「――あなたの心、折らせてもらうわ」
 指を縦に進ませるには、曲げて伸ばすことが必要だ。坊主の小指が最大に折り曲げられた瞬間、琴美は膝裏を締めて坊主の指を挟み止めた。
「ぐう!」
「いくらあなたの指が強くても、筋量で圧倒的に勝る脚は撥ね除けられない」
 そして。伸ばすことすらかなわず蠢く小指を、ガス栓をひねるように、ねじり折った。
「ーっ!!」
 今折れたのは、小指に封じられた坊主のプライド。キャッチの仕掛けで敗北し、心までもを砕かれた坊主は今度こそ力を失い、変形三角締めの抱擁の中で眠りに堕ちた。

 坊主を置き去り、琴美は上階への階段に足をかける。
 今は振り返らない。過去を返り見るのは、頂上へたどりついた後だ。


 そこから先には、ひとりの兵士もいはしなかった。
 階段と広間を、気配を探りながら3つやり過ごし、4つめの広間へ至ったとき。
「お待ちしておりましたよ、水嶋・琴美さん」
 道場さながらに板張りの床が拡がる空間の奥から、静かな声音がすべり出してきた。
 ――気配を読まれて、気配を読めなかった。
 忍びの常として、移動時の琴美は気配を消している。それをあっさりと感知され、しかも自分はその相手の気配を察知できなかった。
 このような状況においては、待つほうが圧倒的に優位ではあるのだが……琴美は驚きに跳ねた呼吸を鎮め、声の主を見据える。
「そのまま息を整えなさい。下の番人と組み合ってきたのでしょう? 高揚に紛れた疲労は思わぬところで顔を出すものです」
 言い募る声の主――道着姿の女。
 背筋を伸ばして座す姿は月見草のごとくに儚く、玉鋼のごとくに凜々しいが、しかし。
「いつでも始められる、というわけね」
「死合う敵方(あいかた)とは一期一会。「いつ」も「いつまで」もありはしませんので」
 女は正座の型を保っていながら、その足指を立てている。いつ琴美が奇襲をかけたとて速やかに討ち落とせるように。
 いや、それ以前に。気配が読まれていないうち、遠間から声をかけたのは、たとえ琴美がどのような手を使っても対処できる間合を取るためだ。
「そこまでできるのに、なぜ私を攻めなかったの?」
 いつでも跳べる“溜め”を直ぐに伸ばした脚へ蓄え、琴美が訊いた。
「互いに言い訳はしたくないでしょう」
 女はつと立ち上がり、答えた。
 白の胴着に黒染めの袴。重心を腰のあたりに置いていることからも、柔術ないし合気の使い手なのだろう。
 ――どうでもいいことね。
 どのような技を使うのかは手を合わせればわかる。その前に自らの先入観で隙を生むのは愚かしいことだ。
 息ひとすじ漏らさずに、琴美が跳んだ。
 女に蹴りを伸ばすと見せて、1メートル手前に着地。前進力を回転に変え、水面蹴りを放った。
「古流、ではないのですね。むしろ西洋式に近い」
 重心を腰に据えたまま一歩下がり、蹴りをかわした女が眉根をかすかに跳ねさせる。
 忍術に最適解はない。その時代に現われた技を次々と取り込み、対処策となる“型”を構築する。それこそが、他の格闘技や武術と忍術とが大きく異なる点だ。忍の体術は忍の技にあらずと言ったところか。
「――忍の技は流水。時とともに流れ下り、岸の型によって姿を変えるものよ。だから」
 回転に乗せて体を起こした琴美が、体の正面を女に向けて大きく膝を折った。
 この国の古流格闘術……ルーツをたどれば剣術へとたどりつく、刃を振り下ろす型。ただし振り下ろすのは刃ならず、拳である。
 前へ体を倒し込むことで自重を拳にかけ、重力の補助を得て加速する突き。たいした技名などない、どの武術でも基本練習の初手として弟子に教え込む『中段突き』が、女の胃を突いた。
「私の技は、古流でもある」
 人間は、体の中心軸にまっすぐ打ち込まれる攻撃をかわすことができない。
「ぐ、ぅ」
 結果、胃を激しく揺すられた女は嘔吐き。
 逆流した胃液を、琴美の目に吹きかけた。
「――残念だわ。あなたの食生活が知れなくて」
 意図的に涙を流して目にかかった酸を洗い流す琴美。
「死合にのぞむ者がそのような粗相、できますまい」
 女が構えた。
 右足を前に置き、ゆるく伸べた両手は、右を上、左を下に。
 ――古流の者が古流で先手を取られた。その負い目を覆すには、自分が古流と知らせたうえで、古流の技で私を討つよりない。
 琴美はボクシング式のステップを踏み、体をリズムに乗せて待ち受ける。
 本当はムエタイのようなアップライトで構え、突きよりも射程が長い蹴りを使いたいところなのだが、古流には敵の臑を刈り、足を損ねるような技が多々存在する。立ち位置を固定するのは危険だ。
 ぬるり。女が粘液のごとくのすべらかさですべり寄る。重心がまったく動かないおかげで、どこを狙われているのかがわからない。
 さらにはその袴。床を擦る裾が女の足捌きを隠し、踏み込んでいるのか動いているのかを見て取らせないのだ。
 女の右の掌打が琴美の顎へ伸びる。
 琴美は呼気とともに押し出した左手で女の手首を弾き、右ストレートを返す。
 女は体を巡らせて琴美の右拳の内へと入り、左の掌打で心臓を叩きに来た。
 かわせない。瞬時に判断した琴美は体を返して左肩をすくめ、その掌打へ肩での発勁を打ちつける。
 ぱん。大きく後ろへ弾かれる、女と琴美。
 やはりそうだ。女は左手で「通し」を打っていたのだ。こちらが勁を乗せていなければ、肩に少なくないダメージを負っていた。
 ……通しとは、敵の鎧に守られた体へダメージを“通す”古流の技だ。琴美が打った勁は中国拳法の技だが、原理は同じ。筋肉と関節の伸縮を利した“衝撃”を生む技。ふたりが弾かれたのは、互いの生んだ衝撃に当てられたがゆえのことなのだ。
「よもや合わせてくるとは――」
 今度こそ驚愕する女。
 琴美は口の端を吊り上げ。
「私は古流を知っている。でも、あなたは忍を知らない。だからそうして驚きを晒す」
「……傲岸ですね。たとえ知っていたからとて、知り尽くしたわけではありますまいに」
 女が細く息を吹く。
 笛のように、息が鳴る。
 これは命令だ。耳では理解できない音を鳴らし、脳にささやきかけて誘い出す犬笛。
 そう思いながらも、琴美は女へ惹き寄せられていく。
 その目の前に、ふと右手が差し出された。
 反射的に、それを掴もうと琴美が手を伸ばすが、掴めない。ほんの少し先に引かれた女の手を追い、琴美がさらに手を伸べて――
「この手と同じこと。今の乱世には導き手が必要なのです。どれほどの空論よりも強く、揺るぎない格闘神様の手が」
 大きく泳がされ、すでに立てなおすことなどできようはずのないところまで崩された琴美の背を見下ろし、女がささやいた。
「あなたは自らの無知を心得ずに思い上がり、ここまで来た。格闘神様に代わってわたくしがあなたに理を説きましょう」
 女の手が、倒れ込んでいく琴美の首筋を押さえた――
「あの男は神なんかじゃない。自分の暴力を法と騙って世界を犯すだけの悪党よ」
 崩れているはずの琴美の体が、止まっていた。
 両脚を前後に180度開き、床に自らを固定することで、女の技を殺していたのだ。
「あなたは――わたくしの手を」
「兵は詭道。兵法もまた詭道よ」
 女の視界を闇が塞ぐ。下から琴美が投げた着物だ。女はすぐに着物を振り払ったが、そのときにはもう、琴美の姿はどこにもなかった。
「な――」
 女のこめかみと顎先が、左右からの勁で弾かれ、凄絶な勢いで揺らされた脳が頭蓋骨の内を跳ね回る。
 果たして。
 首を傾げたまま、女はずるりと崩れ落ちた。

 女の背後からその様を見送り、琴美は踵を返してさらなる上階を目ざす。
 頂上は、未だ見えなかった。