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<東京怪談ノベル(シングル)>


誰がために
「随分と急いで登ってきたのだね」
 床も壁も天井もコンクリートが剥き出す寂びた空間のただ中で。
 軍装でその身を包む男が、侘びた笑みを浮かべて水嶋・琴美を出迎えた。
「君のやりようは見せてもらったが……できうることなら死合いたくないものだね。自分とは噛み合わせが悪い」
 歳の頃は40代後半から50代前半か。腕の筋肉を外側も内側も鍛えていることから、打撃と組み技、どちらも使うと知れる。それも古流のように相手の力を利するのではなく、自ら打ちかかり、投げ落とし、極めに行く能動的な技をだ。
「その歳まで闘ってきた理由は――今もなお闘う理由は、なに?」
 琴美の問いに、男はほろりと笑み。
「過去も今もないさ。軍人は、国の理念と理想を守るために闘うものだ」
「神を騙る男の、ありもしない国を?」
「そうだ。未だ在りもしない国の、理念と理想をね」
 男がベレー帽を足元に脱ぎ落とし、構えた。
 腰に重心を置きながら、沈みこませていない。あくまで姿勢は自然体に保ち、ゆるゆると立ち位置を移しながら琴美へ巻きつくように迫る。
「温存はさせない」
 琴美が大きく踏み出した右の一歩を踏み止め、右ジャブを繰り出した。
 通常であれば利手ならぬ左で出すべきジャブ。距離を測りつつ相手の動きを硬直させ、続く大砲をぶち当てるためのリードパンチ。それを利手の右で出す理由はひとつだ。
「シっ」
 男の鼻先と顎先をつつき、引き戻したジャブを外から、フックとして振り込んだ。
「ぐっ」
 肋のもっとも下側……短くもろい骨を打たれた男が息を詰める。
 もちろん両手とも同じように使えはするが、精度に対する信頼はやはり利手が勝る。リードパンチとハードブロウをひとつの拳で成すため、琴美はあえてサウスポースタイルで挑んだ。
 体をかすかに前屈させた男の顎にまた琴美のジャブが刺さった。
 そうして意識を上に向けておいて横腹を打ち、さらには後ろに引いた左脚によるミドルキックを肝臓にねじ込む。
「か、はっ」
 男があえぎ、琴美から一歩離れた。
 肝臓を打たれれば鈍い激痛が動きを鈍らせ、横隔膜が引き攣れれば呼吸が奪われる。「生き地獄」と称される苦痛の内に、男はいるのだ。
「打撃なしのルールなら、あなたもやりようがあったでしょうけどね」
 人間は加齢により、体機能の多くを失っていく。そのもっともたるものが“反応”と“体力”だ。
 動体視力、反射神経、反応速度……これらが低下することで格闘家は打撃の攻防でのアドバンテージを奪われる。そして持久力の低下は戦闘可能時間を狭め、集中力を奪い去る。
 琴美が執拗に男の腹を狙ったのは、彼が反応しきれない打撃で息を乱して体力を奪うため。
「さすが、なんでもありのくノ一だ。ここに詭を加えられれば、早々に自分は沈むだろうね」
「でも退かないのでしょう? なら、少しでも早く終わらせる」
 アッパーカットで顎を跳ね上げるべく、もう一歩踏み込んだ琴美が、そのまま前へ身を躍らせて回転。大きく距離を取って立ち上がった。
「軍隊格闘術は敵を壊し、殺す術だ。君のように回りくどい真似はしないさ」
 コンクリートに叩きつけた軍靴の踵をにじり、男が無造作に琴美へと迫る。
 術(じゅつ)とはすなわち「すべ」。身に備えたすべてのものを武具として使い、敵を確実に殺す術(すべ)というわけか。
 先ほど男は、踏み込んできた琴美の足を硬い踵で踏み抜こうとした。
 この技は琴美自身、入口の番を務めていたボクサーに使っている。ただちがうのは、下が土ならぬ、破壊力をやわらげてなどくれないコンクリートということだ。つまりはより小さな力で人体を破壊できる。
 床も壁も天井までもコンクリートを剥き出しにしてあるのは、自身の攻撃にその固さを利用するため――いや、それを意識させておいて暗器(隠し武器)を使ってくる気か?
「食えない人ね。これも年の功ということかしら?」
 額に浮いた汗を指先で払い、琴美が男の横へ回り込む。
「ロートルにはロートルのやり方があるものだよ」
 事も無げに答えた男が、逃げる琴美に正面を向けて歩み寄る。
 ……たった一手で、男は琴美に警戒心を植えつけた。自分のやりかたを見せることで、逆に次にやることを予測させない状況へ追い込み、受け身に回らせたのだ。
 ――本当に食えない人だわ。
 今は相手の出方を待つしかない。場の空気はすでに男が持って行ってしまった。下手にかき回せば思わぬ失敗を呼び込むことになりかねない。そうなればすべてが終わる。
 これは競技としての試合ではなく、死すらも結果のひとつとなる死合なのだから。

 琴美の蹴りをブロックした男が、その脚に腕をすべらせて根元へ踏み込み、彼女の着物の帯を掴んで振り回した。
 横は壁だ。叩きつけられれば内出血する。関節部に内出血が起こればそれが邪魔になって動きが阻害されるし、目が腫れれば視界が塞がれる。鼻や口なら内出血どころか軟骨や歯を損ない、呼吸と血を失うことになる。
 すぐに琴美は自ら帯を解き、着物ごと体から離した。掴まれる手がかりになるものを身につけていては、意識を散らされてつけこまれる。
 同時にミニのプリーツスカートも脱ぎ捨て、肌にぴたりと貼りつくインナーとスパッツだけの姿になった琴美は、グローブを内から濡らす汗、その冷たさに背筋をぞくりと震わせた。
「ふん!」
 それでも執拗に琴美を追う男。
 巧い。かならず琴美が自分と壁の間に入るよう位置取りしている。
 そうして壁や床を意識させておきながら、蹴りだ。通常のブーツと異なり、罠を止め、敵を踏み抜くために分厚い鉄板を収めた靴底と踵による前蹴り、横蹴り、後ろ蹴り……三銃士時代の剣術さながら、まっすぐに突き込んでくる。
 琴美は曲げた脚で受け止め、ブーツの爪先でいなし、そして背を割り込ませて受け流しつつ、壁際から抜け出した。
「さすがに、やる」
「息があがってきたわね。もう腹を打つ必要もないかしら?」
 琴美の挑発への返答は、目を狙った左拳。
 琴美は首を振ってこれをかわし、目尻にこすりつけられようとした親指を、さらに顔を倒してやり過ごした。
 そして彼女は、指を握り込まずに左手で男の顔を払う。点ではなく、複数の線による目潰し。
 男はその手を右手で掴みに来た――と、琴美は男の手に手の甲が触れた瞬間、手を握り込んで拳と成し、衝撃を爆ぜさせた。
 大きく弾かれた右手に引きずられるように男がよろめき、後退する。
 逃がさない。琴美は男の左手に掴まれぬよう上体を低くし、駆けた。
 よろけながら繰り出される、男の前蹴り。しかし威力を発揮するには距離が足りなかった。
 最高速には程遠い蹴りを右脇で挟み止め、琴美は体を一気に起こしながら男の軸脚を刈る――
 脚が、なかった。
「!」
 男の軸だったはずの脚は今、宙にあった。
 ここに来て初めて琴美は思い至る。
 軍格の中には関節技を主にするものが存在し、その技の内にはこうして自ら跳びつき、極めるものがあるのだということを。……琴美が挟み止めた脚、それこそが軸脚。
 コンクリートをあれだけ意識させたのは、すべてこのシチュエーションを呼び込むためのものだったのだ。
「もう極めさせてもらうよ。若者に長々とつきあわされるのは、さすがに辛いのでね」
 琴美に支えられる形で、男が宙で体を反転させた。いつの間にかその両手に、彼女の左腕が絡め取られている。
「くっ!」
 琴美は右腕の間から男の脚を振り落とそうとするが、彼女の左腕を跨ぎ越えながら男が放った蹴りを、顔を逸らしてよけることしかできなかった。
 果たして琴美は男に引き倒され、左腕をまっすぐに伸ばされ、極められた。
 ――跳びつき逆十字!
 男の両脚が琴美の肩を固定し、両手が手首を固定、一気に体を逸らして肘関節を破壊する。

 かと、思われた。

「これは?」
 男が眉をひそめた。
「忍の関節を折るのは、それほど容易くないわ」
 仰向けに倒されたまま、琴美が青ざめた顔に笑みを閃かせた。
 ……世界には、固定した腕の肘関節を360度回転させられる者がいる。言ってしまえば体質であり、特技の部類のものだ。
 しかし、琴美は幼少期から、関節外しと共にそれを学ばせられ、体得させられた。関節は外し過ぎれば損傷し、いずれ繋がらなくなるからだ。
 極められながら関節を回してずらし、技を逃れる。言ってしまえばそれだけのものではあったが、このシチュエーションにおいてはこれ以上ない効力を発揮した。
「今度は水嶋の蛇葛を見てもらう番よ」
 琴美が脚を振り上げた勢いで反転した。うつ伏せになっていた男の脚の上に体を落とした彼女は、男の背中――急所であり、多くの競技において攻めることを禁じられている腎臓に膝を叩きつける。
「ぐぁっ!」
 レバーブロウの鈍痛とは異なる尖った激痛に男が背を反らせた。琴美はひと息に捕らわれていた腕を引き抜き、反ることで持ち上がった男の顔へその左腕を巻きつけた。そしてさらに男の上体を引き起こさせて背へ跨がり、両膝を男の両脇に差し込んで、さらに右脚を横から絡めて肩関節を絞りあげ、抵抗の術を奪う。
「プロレスではキャメルクラッチと言うのだったかしら。とは言え観客に魅せるための技ではないから、比べられるものではないけれど」
 琴美の左腕は、男の頬骨の下に深々と食い込み、締め上げている。このくぼみの部分を攻められる激痛は、彼女自身修行の中で幾度となく味わってきた。さらに横を向かせることで、気道をねじって息を奪うこともできる。
 意図的に男の喉のねじれを抑え、琴美がささやきかけた。
「落ちる前に聞かせて。番人はあとどれくらいいるの? いえ、それよりも格闘神はどこ?」
「格闘神様は、上に、いるよ」
 男は狭められた喉の奥をくつくつと鳴らし、言葉を継いだ。
「だが。君が、番人の数など、気にする必要は、ない」
 君の闘いは、ここで終わるのだからね。
「!?」
「気功針点火。第2回路起動」
 男の唇がさらに紡ぎ、奥歯を噛み締めると。
 ぱぢっ。男の体の内に、なにかが弾けた。
 次の瞬間、その体表から衝撃が迸り、琴美を技ごと吹き飛ばす。
「!?」
 体を丸めて転がり、衝撃を受け流して立つ琴美。
 そして彼女は見た。
 鮮血さながらの赤で肌を染め上げた男の笑みを。
「自分はロートルなのでね。いざというときのために小脳を補助する電子脳と人造神経を埋め込んでいる。それを起動させた」
 ひとまわり太さを増した体。あの赤さは血液か。人造神経とやらの命令が、ありえない量の酸素を血に乗せて巡らせ、張り詰めさせているのだろう。
「体に多大な負荷をかけるゆえ、寿命は損なうが……長く生きる意味もないからね。心ゆくまで闘い、今はまだ存在しない国の未来を拓く。それが軍人の本懐というものだよ」
 刻まれていた皺すらも消し飛んだその顔は、まさしく少年のごとくに輝いていた。
「君の強い心身は、我が国の礎となるだろう」