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<東京怪談ノベル(シングル)>


彼がために
「君の強い心身は、我が国の礎となるだろう」
 男が軍装の上着をちぎるように脱ぎ捨てた。
 すべてが赤く染め上げられた肌と、鍛え上げられてはいたが太いというほどではなかったはずの筋肉が――今や内から押し上げられるかのように張り詰めた、巨木のごとき筋肉が露わとなる。
 あの赤は、血液中にあって酸素を運ぶヘモグロビンだ。しかし肉体の張りを見れば、動力である血そのものが強化されていることが知れる。
 血中成分を操作し、肉体に過剰なエネルギーをもたらす……男は小脳を補助する電子脳の存在を示したが、ほぼ確実に大脳や脳幹へも改造が施されている。
 ――それほどの科学がこの世界にあるなんて。
 水嶋・琴美は乾いた唇を舌先で湿し、男の様子をうかがう。
 隙がないというよりも、五感の高まりによって隙が消えている。
 ――どこから攻めても同じということ。……なら。
 どこからだろうと仕掛けてみるよりない。
 琴美は大きく踏み出し、それを踏み止めることなく床を蹴った。
 常人を超えた柔軟性を備える関節に“ねじれ”を作り、それを戻す回転力を、体の中央から末端である手まで増幅させながら繋いでいく。反動という最大の力こそ乗せられていなかったが、それはいわゆる発勁である。
「はっ!」
 体が男にぶつかる直前、琴美が右掌を男の胸に当て、弾いた。
 打撃ではなく、衝撃をねじりこむ勁であれば、筋肉の鎧を乗り越えて内臓まで届くはず……。
「自分に拳法の心得はないがね。格闘術には、このようなやりかたがある」
 弾かれた男の体が大きく後退した。ダメージからではない。瞬時に脱力し、衝撃をいなしたのだ。
 ふっ、ふっ、ふっ。短い呼気が断続的に吐かれ、男はゆらりと直立する。
「脱力と呼吸法によるダメージコントロール。もっとも、今の自分が痛みを感じることはないのだが」
 体同様、赤く染まった白目のただ中、男が先ほどまで備えていたのと同じ、鳶色の瞳が白く輝いた。
 瞳孔の異常反応……アドレナリンかエンドルフィンか、脳内物質の過剰分泌によるものか。だとすれば、正気を保っていることのほうが不可解だが。
 ――軍人特有の、鋼の意志というやつかしらね。
 続けて琴美は立ち止まらずに男のまわりを巡り、不規則に拳と蹴りで牽制する。
 だが、光る目を中空に据えた男はこれらすべてを受け、弾き、流してのけた。
 闘いにおいて敵を見ることについて、師は何処かの部位ではなく体全体を見よと説くもの。しかしながら人とは集中を高めるほどに視界を狭め、見渡せなくなる。男は半ばトランス状態に心を置くことで、俯瞰の目を保っているようだ。
 ――完全なトランスでない以上、崩しようはある。
 琴美は予備動作を置かずに沈み込み、細かに蠢き、辺りをさまよう男の視線をくぐって駆ける。
 ――我が身はひとつ。されど我が手は二の我を騙り。
 琴美の左手から破裂玉が投じられ、あらぬ方向で高く爆ぜた。
 男の浮かされた目が、この闘いの場にはありえないはずの音を反射的に見る。
 注意が集中し、俯瞰が失われた。
 ――三の我を寄せ。
 スライディングからの蟹挟みで琴美は男の脚へと絡みついたが、それを足がかりに上へ跳んだ。
 虚を突かれた上で虚を突かれ、男の動きが止まった。
「高みより、推して参る」
 真上から男の頭頂へ、肘を落として打ち据えた。
 これこそが水嶋の口伝に語られる無手術(格闘技)のひとつ、“逆風(さかかぜ)”。比較的初歩の技ではあるが、重ねる手が少ないだけ体力の消耗が少ないし、頭頂部は急所でもある。この確かな手応え、相応の効果を期待していいだろう。
「小道具を使うとは無粋だね……自分が言っていいセリフではないが」
 小揺るぎもせずに男が言い放ち。
 頭に突き立った琴美の肘を無造作に掴んで引いた。
「っ!」
 関節を動かし、腕を蛇のごとくにくねらせて逃れようとする琴美だが、男の単純な握力にすべてを掴み止められ、振り解けない。
「安心したまえ。まだ折らないさ。君にまず見せるのは、力だ」
 自らの顔の横にまで引き寄せた琴美の横顔へささやき、男が小指でそっと彼女の耳を探り、小指の先を穴へねじ込んだ。
 耳内のカーブを力任せに押し広げ、押し入ってきた指が、鼓膜を突き裂いた。
「――!!」
 悲鳴を噛み殺すので精いっぱいだった。
 叫んだところで敵を悦ばせるだけだ。代わりに仰け反りそうになる背を丸め、男の背に幾度も膝を打ちつける。1、2、3、4、5――12発めでようやく男が拘束を外し、琴美を手放した。
「く」
 片耳が破られたことで、場に流れる音が揺らぐ。聞こえるべき音の半分が損なわれた結果、体が均衡を失う。動くどころか、まっすぐ立つことすらできない。
「ああ、強く押し込み過ぎたようだ」
 男がねじ曲がった自分の小指を見やり、笑んだ。
 掴まれれば膂力でねじ伏せられる。
 掴まれなくとも、あの力で打たれれば骨が砕け、動き自体を止められる。
 その上あの男は痛みを感じることもなく、全力を振るい続けられるのだ。
 ――膝か足首を砕くしかない。そこへ行き着くために、もっと細かなところを破壊しなければ。
 不幸中の幸い、激痛を意識から外す訓練は積んでいる。治せないまでも忘れていられれば、あとしばらくは保たせられる。
 いや、保たせなければならないのは、この場限りではない。
 この上で待つ、格闘神との闘いを終えるまでだ。
 ぐらぐらとおぼつかない視界の中、琴美は男の突きをかわして転がった。
 振りかぶらずにまっすぐと飛んでくる拳はそれだけでも見えづらいが、さらに神速が加わり、軌道など読めるはずはない。ボクサーのジャブに対するのと同じく、男の筋肉の動きを読んでかわしはしたが、見切るどころではないため、ことさらに大きく回避するよりなかった。
「ははっ」
 男が笑いながら、回転する琴美の腹を爪先で蹴り上げた。
「くあぅっ!」
 内臓に打ち込まれた衝撃が、思わず漏らした琴美の悲鳴をも押し潰し、くもぐらせた。
 立ち上がれば、その間に待ち受けている男の攻めを受けることになるだろう。琴美はすぐにでも体勢を整えたい衝動に耐えてもう2回転。壁を蹴ってさらに回転し、ようやく立ち上がった。
「片耳を損ないながら、よくそれほど回れるものだね。それも鍛錬の成果かな?」
 琴美は応えず、息を鎮めることに全力をそそぐ。
体を大きく動かすほどに鼓動が高まり、傷口から血が流れ出す。血の粘りが肌を侵し、たまらない痒みとなって集中を削ぐ。それは痛みとは別種の責め苦だ。
 ――ひとつだけ、きっかけを作れれば!
 力を温存しようという欲はここで捨てる。
 ただ力を尽くし、あの男を討ち――踏み越える!
 ステップを刻んで迅速な移動を成す西洋式から、自然体をとってすべるように動く古流の構えに変えた琴美が、細く息を吹きながら男を待った。
「いいだろう。追いかけさせてもらう」
 男の蹴りが風を斬り、低く鳴った。
 半ば目を閉ざした琴美は重心を崩さず後方へ。両掌で男の蹴りを上から押さえ、逆側へと回り込んだ。
「日本武術……いや、これもまた忍術か」
 おもしろげに笑んだ男がさらに速度を上げた蹴りを放った。
 今度はかわさず、蹴り脚に掌を置いて上に乗った琴美はふわり。宙で身を転じて降り立った。
 水嶋曰く、“綿毛”。敵の攻めを受けることなく流して落とす、型のない守りの型だ。
 敵に無為な攻撃を繰り返させ、消耗させるためのものではあるが、高い先読みの精度と、引きつけた攻撃に寸前で掌をかける反射神経と運動能力……そしてなにより、高度な精神力を必要とする。
 ――あと何手、かわし続けられるか。
 敵よりも自らが優位であればいい。が、優位が敵にあることは明らかだ。蜘蛛の糸を綱渡りするような緊張が、壮絶な速度で琴美の心を引き絞り、ちぎり取っていくが。
「ふん」
 男が興味を失った表情で息をつき、ローキック、アッパーカット、フック、跳び膝蹴りのコンビネーションを放った。あれだけ攻め続けてきたとは思えない、力に満ちた打撃。ひとつでももらえば、それだけで意識を体から弾き出されて終わる。
 だが。
 琴美は待っていた。男が決めに来るときを。
 コンビネーションに紛れ込ませて大技を繰り出してくる瞬間を。
 フックに鼻先を焦がされながら、琴美は男の体を掌で押し、隙間を作っていた。そこへ男の跳び膝。それは琴美の誘いであり、賭けでもあった。
 まっすぐ顎へと迫る膝をくぐり、男の足首を抱えながら肩で軸脚を刈る。
 足を床についていない男はあっさりと体勢を崩し、琴美に押し倒された。
 ――ここから!
 軍靴の爪先をねじってヒールホールドに行く……当然男はすぐに関節の向きを変えてそれをしのごうとする。そうでしょう、あなたの力があれば、私の技を強引に崩すことができるのだものね。だから! 筋肉と関節を撓めて溜めておいた勁力を解放。すべての力を込めた拳を男の顎へと叩きつけた。
「あっ……!?」
 拳が、上に弾かれていた。
 彼女の下で打たれるのを待つばかりだったはずの男の掌に迎え討たれて。
「君のやりようは見せてもらったと言ったはずだ。そしてこの場において、君はできる限り早く勝負を決めたいはずだ。とすれば、最大火力を叩き込んでくるのはここしかあるまい」
 勁を弾けるものは、勁をおいてほかにない。
 この男は……勁力を使えるのか。だというのに今の今まで使うことなく、温存してきたのか。初手で使えば琴美を圧倒できたはずなのに、あえて。
 琴美の驚愕を見上げ、男はまた笑んだ。
「我々はそもそもが格闘家の寄せ集めだよ。学ぶ機会はいくらでもあった。とはいえ自分には、埋め込んだものを起動させた後でなければ使いこなせないのだがね」
 電子脳とは、人造神経とは、血ばかりか気功までをもコントロールできるのか。そのような人間が量産できるとしたら……文明と共に戦う力を失くし、荒野の隅を這うようにして生き長らえている人類は……暴力という名の法に跪くよりない。
「自分が損なった寿命分くらいは楽しませてもらいたかったが、ここまでだ」
 男が下から琴美の右腕を左手で取った。
 いけない! このままでは! 我に返った琴美は男の左腕に絡みつき、肩関節を折りに行くが――反応と動作、ふたつの速度がちがいすぎる。
 なにひとつ追いつけないまま、琴美の右腕は関節を引き延ばされて固められ、逃げることを封じられて、手首を、肘を、肩を、同時に折り砕かれた。
 果たして激痛に眩む視界を男の掌が覆い隠し。
「報いを受けろとは言わないが。後は格闘神様の思し召しだね」
 琴美の意識は弾け、途切れた。

 元の肌色を取り戻した男が、部下に命じて琴美を運ばせる。
 彼は自らを格闘神の木偶として捧げているが、琴美は格闘神をより完成へと近づけるための贄となるだろう。
 肉となるか、酒となるかは知れないが……いずれにせよ男が気にすることではないのだ。