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満ち足りた器(2)
鼻孔をくすぐるのは、淹れたてのコーヒーの優しい香りだ。ゆっくりと、彼女はお気に入りのカップへと注がれたそれへと口をつける。隠し味程度に入れたいちごジャムの酸味はコーヒーと思いの外合い、そのフルーティーな味わいに琴美は満足気に目を細めた。
「アンドロイドの暴走事件は、ここのところ増えてきているようですわね」
小さな端末を操作すれば、空中へと今日のニュースが映し出される。そのニュースサイトでは、暴走し制御不能になったアンドロイドが起こした事件についての記事が一面を飾っていた。
原因は依然として不明。何らかの不具合か、何者かによる陰謀か。様々な噂が流れているが、どれも真実とは思えない所詮噂話に過ぎないものばかりだ。
(ただの不具合のようには思えませんでしたけれども……)
先日、一体の暴走したアンドロイドを止めた時の事を思い出し、琴美は思案する。あの後アンドロイドの体を調査してみたが、異常があった様子はなく何者かにいじられた痕跡も無かった。
(集団暴走がただの偶然とも思えませんし、やはり気に留めておくべきですわね)
その内、自身の元にこの件に関する依頼がくるに違いない。そんな予感を胸に、琴美は麗しい唇を再びカップの縁へと寄せた。
そんな時だ。電子音が、琴美の耳へと届いたのは。
慣れた手つきで彼女は常に携帯している通信機を取り出す。着信を告げるために鳴いていた通信機は、彼女が通話ボタンを押すと同時に黙り込んだ。代わりに、低い男の声がその端末からは聞こえ始める。
琴美は心なしか真剣な面持ちで、通信機の向こうの相手の事を呼んだ。
「どういたしまして? 司令」
尋ねてみたものの、用件など想像がつく。十中八九、任務についての呼び出しであろう。
案の定、司令は今すぐ司令室にくるようにとの旨を告げ、琴美の返事を聞くとすぐに通信を切った。
「朝のコーヒーブレイクは中断ですわね。さて、お仕事の時間ですわ」
肩をすくめてみた琴美であったが、その横顔は先程よりもずっと晴れ晴れとしていて、輝いていた。ゆったりとした朝の一時も彼女にとっては楽しい時間だが、街を守るために任務をこなす事はそれ以上に尊い事なのである。
◆
艶やかな長い黒髪を、風が悪戯に撫でる。琴美は物陰に隠れ、とある廃工場の様子を伺っていた。
彼女の豊満な体を、黒が寄り添うように包み込んでいる。女性らしい魅力に溢れた彼女のボディラインを浮き立たせる、黒のラバースーツだ。
ボトムには、こちらも夜のような美しい黒色に染まったプリーツスカート。丈の短いそれから覗く美脚を守るのは、編上げのロングブーツである。
機能的で動きやすいこの衣服は、琴美の専用の戦闘服だ。この衣服に身を包んだという事は、すなわち琴美に戦闘の任務が与えられたという事に他ならない。
琴美は工場の様子を伺いながらも、先程司令室で司令から承った任務内容を確認のために思い出す。
町外れの廃工場にて、とある邪教団の者達が何やら怪しげな儀式の準備を行っているのだという。以前から悪い噂の絶えないその邪教団の目的を調査をし、早急に対処が必要であれば直ちにせん滅する。それが今回の琴美の任務であった。
廃工場の周囲は静まり返っており、人けはない。まだ邪教団の者達は集まっていないようだ。
しかし、ふと工場の中を覗き込んだ琴美は、そこに広がっていた光景に思わず目を見開いた。宝石のように美しい黒色の瞳が、困惑げに揺れる。
「あれは、人……?」
人。人。人だ。
何人もの人が、その工場の中には倒れているのだ。一人や二人ではない。ざっと数えただけでも、数十人近くの人影がそこには横たわっている。
すぐに助けに行くべきか、もう少し様子を見るべきか。冷静に状況を判断しようと目をこらした琴美は、その『人影』の正体に気付いた。
「アンドロイド……でして?」
そこに転がっていたのは、人ではなく人型のアンドロイドだったのだ。邪教団の者達が集めたのだろうか。
(しかし、何故アンドロイドを……? 彼等を使い、邪教団は何の儀式をするつもりでして?)
電源が切られているのか、物言わぬアンドロイドは指先一つ動かす気配はない。
不意に、琴美の脳裏にとある事がよぎる。最近街を騒がしている――アンドロイドの、暴走事件。あの事件には、この邪教団がもしかしたら関係しているのかもしれない。
(とりあえず、どんな儀式をするつもりなのか、少し様子を見る必要がありますわね)
そう思いながら、再び琴美は物陰にて息を潜め教団の者達の到着を待ち始める。その手には無論、いつ戦闘に入っても大丈夫なように、愛用のナイフが握られていた。
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