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<東京怪談ノベル(シングル)>


偽姫
 帰り路はにおいが教えてくれた。
 潮を吸って吐くごとに。ヒレを振って海を割るたびに。彼女は自らの成すべきことの自覚を強めていく。
 私は人魚の姫として、部族を導き、守る。

 部族の元へ帰りついた姫は、喜びと涙とで迎えられた。
 日と月が200回巡るほどの過去、石怪に贄として捧げられたはずの姫が、無事な姿で帰ってきた!
「ごめんなさい。私、どうしても昔のことが思い出せない。自分が誰か以外のこと、全部」
 宴の席で皆に打ち明ける姫に、部族の長――父は重い声音で語る。

 西の海を住処としていた自分たちは、ふと潮の味が変わったことに気づいた。
 もっとも足の速いものたちが原因を探って沖へと向かったが、あるところまで行くとなぜか進めなくなり、探索を切り上げるよりなくなった。
 その話を元に古老たちが話し合った結果、潮が非常に小さな範囲で巡るようになったこと、海もまたその潮の流れが及ぶところまでの広さに縮まったこと、ふたつの仮説が立てられた。
 それ以上の真実を突き止める力のない人魚たちは、とにかく環境を受け入れ、営みを続けることにしたのだが。
 あるとき、どこからか現われた石怪が、人魚を狩るようになったのだ。
「そして石怪は、そなたを差し出さば日と月が500巡るまでの間、集落に手出しはせぬと言い出した」
 後の展開は知れる。姫は自ら贄となることを決め、我が身を差し出したのだろうと。
「忘れたことはそのうちに思い出すだろう。が、できうることならば、そのまま忘れておってくれればよいとも思う。そなたは十二分に苦しんだのだから」
 そう言われても、姫に苦しんだ記憶はない。しかし父の心だけは痛いほどに知れた。だから、とにかくうなずいておくことにした。
「大丈夫です。僕がきっとあなたを」
「もう二度とあなたをあのような目に」
「あなたの姿を再び見ることのできたこの喜びを」
 今まで長の手前、控えていた男たちが、悲劇の影で匂い立つ姫の美しさにたまらず押し寄せた。
 とまどいながらも、言祝ぎやら騎士の誓いやらを受ける姫。
 苦い顔の長を置き去り、場は華やいでいく。
 ……その様を離れた場所から見やっていた歳若い侍女は、ふと目線を外してその場を離れた。

 あの姫が姫でないことは明らかだ。なぜなら――姫だったものの欠片は、この手の内にあるのだから。
 侍女は袋の内に閉じ込めた石の欠片を取り出し、暗い眼を向ける。
 姫は石怪によって石にされ、180巡かけて砕かれた。
 それをずっと隠れ見ていた彼女は、打ち捨てられた欠片の中から、心臓だったものを探って持ってきたのだ。
 姫が憎かった。自分などとはちがって見目も心も美しく、男たちからも女たちからも慕われるから。
 姫が愛おしかった。見目も心も凡庸以下の自分を気づかい、優しくしてくれたから。
 ふたつの反する心を抱えたまま、彼女は姫以外の誰にも見出されることなく、姫のそばで過ごしてきた。
 そんな日々の中、石怪は現われたのだ。
 石怪が美しいものを嫉み、同時に欲望を感じる性であることは、同族の者たちの話ですぐに知れた。驚くほどに彼女自身の性と似通っていたから。
 気づいてしまったその日から、彼女は夢を見るようになる。石怪となった自分が、幾度となく姫を犯し、砕く様を。
 そして彼女は願ってしまったのだ。本当に姫が犯され、砕かれる様を味わいたいと。
 ……石の欠片は記念品であり、侍女をあの夢へと引き戻すための鍵。
 姫を騙るあの女が何者なのかなんて知らない。
 でも。あの女は誰よりも姫に似ていて、美しい。だから。
 もう一度、鍵を開けよう。
 愉しむために。愛でるために。

 集落から抜け出した侍女は、石怪の棲まう深みへと急ぐ。


 石怪から新たな要求が突きつけられたのは、姫が戻ってわずか17巡後のことだった。
 いかなる術を使ったものかは知れぬが、今度こそ姫を我が手に差し出せ。
 閉ざされた海の西、人魚たちの数少ない漁場のひとつが壊滅させられたことで、石怪の怒りがうかがえた。
 集落では夜昼問わず長と古老たちが論を交わし、この要求を拒む手を探ったが、南の漁場を失い、探る手を止めることとなった。
「私が行きます」
 きっと以前も言ったのだろう言葉と共に、姫が進み出た。
 父らの話を盗み聞いていた侍女からすべては聞いた。侍女は不安を押し隠して、このときとばかりに詰めかけようとした男たちから彼女を守り、心配することはないと慰めてくれた。
 あいかわらず記憶は曖昧として、そのほとんどを思い出すことはできなかったが、これだけはわかる。
 私は今ここで、姫としての責を果たさなければならない。


 人魚が「石怪」と呼ぶ、この閉ざされた海における絶対の捕食者“シーメデューサ”。
 黒い海底のただ中、石を積んで造った神殿の口から、彼女は赤く輝く両眼を上へと向けた。
 人魚の姫が集落に還った。
 いや。集落からその話を持ち込んできた人魚によれば、姫の顔をしたなにかが、姫のように振る舞っているだけだというが……それにしても腹立たしい。
 彼女にとって美しいものを石に変えることは喜びであり、それを思うままに砕くことは悦びだ。偽姫は、姫を壊し終えたときに覚えたあの絶頂感を穢すものに他ならない。

 髪の代わりに頭部を覆う海蛇どもが、思い思いに声なき声をあげた。
 石怪は蛇を無造作にちぎり殺しながら待ち続ける。偽姫がここへ、贄として送られてくることを。
 彼女を捕らえてこの海へと投じた女――モノクルをふたつ繋げた眼鏡をかけた魔女――に植えつけられた欲望と、それを拒む無意識(イド)のせめぎ合いに心を掻かれながら。
 そんな彼女の揺らぐ心を嘲笑うかのように、ちぎられたはずの蛇が新たに生えだして鎌首をもたげ、騒ぎ始めた。


 人魚たちの手により、粛々と錆びた錨が運ばれていく。
 同じく錆びた鎖で錨にくくりつけられたものは人魚の姫だ。
 彼女は自らの意志で鎖をうたれ、贄として神ならぬ魔物に捧げられる。
 海上を向いた彼女に他の人魚の顔は見えなかったが、結果としては幸いだった。彼らの哀しみと、そして侍女の悦びと対峙しなくてすんだのだから。

 人魚たちは海底の一角に錨を突き立て、後ろ髪引かれながら離れていった。
 そしていくらかの時を経て、石怪が現われる。
 石怪は、強い目でにらみつけてくる姫を見、嗅いだ。
 見た目もにおいも、確かに姫だ。しかし、なにかがちがう。魂の造形の端々が雑というか。まるで人魚姫という鋳型に別の魂を押し込み、無理矢理に形を整えたかのようだ。
 まあ、こうなればどうでもいい。
 心の奥から沸き上がる嗜虐の飢えを満たし、偽物を壊して思い出の輝きを守るだけだ。

 石怪の眼が赤く輝き、姫の目を捕らえた。
「っ!」
 心を強く持ち、抵抗しようと試みた姫だったが、濃密な呪が練り込まれた赤い視線はそれをゆっくりと押し割り、こじ開けていく。
 あ、ああ、あ。
 声にならない叫び声をあげながら、姫は思い知った。
 ――石怪は私に恐怖を与えたくて、わざと時間をかけている!
 気づいたからとて、どうすることもできなかった。
 恐怖が、それを押さえ込んでいた気持ちの殻の割れ目から噴き出し、姫の心を苛んだ。
 その表情を心地よさげに見やりながら、石怪が姫の豊かな肢体に爪先を這わせた。
 肌を掻かれる不快がぞくりぞくりと姫を揺らし、その“ぞくり”が序々に寄り集まって硬質化していった。
 ――石に……!
 視線によってねじ込まれた石化の呪が、爪の刺激によって起動し、姫を固め始めたのだ。
 覚悟はしていた。決意もしてきた。しかしそんなものは、奥に隠した本心と向き合う時間を与えられば容易く折れる。だからこそ人の世界でも、拷問や尋問にあれだけの手間と時間をかける。
 果たして剥き出しの恐怖と向き合わされた姫はもう、それ以外になにも見えなくなっていた。
「やめて! お願い――」
 泣き叫び、許しを請う姫。そこに姫たる威厳も凜然とした美しさもない。
 ただの女に堕ちた姫に薄笑いを返し、石怪はさらなる恐怖を煽るべく彼女の肌を掻く。
 ああ、思い出した。あのときの姫も、こうして泣いていた。
 石化を止める換わりに一族を差し出せと言いかけて、石怪はやめた。偽姫があの姫と同じ思考をするのなら、それだけは最期まで言わないだろうから。
 野暮なことはなしだ。
 今はこの時間を愉しもう。
 陶然と眼を細め、石怪は姫の恐怖を味わい尽くし。
 姫は哀れに命乞いを唱える石像と成り果てたのだった。


 石怪は自らの神殿の口に石像を飾り、また笑んだ。
 どこかから侍女の視線を感じる。歪んだ眼をしたあの女は、集落に帰ってこのことを仲間に伝えるだろう。他者の哀しみや憤りを悦びの糧とする性の持ち主であればこそ、詳細に。
 石怪は神殿の奥で、いつになく深い眠りに落ちた。
 眼が覚めたら、偽姫の髪の端を砕こう。姫と同じように、時間をかけてゆっくり壊すのだ。代用品とはいえ姫は姫。いくらかの間、この無聊を慰めてくれようから。


 一方。人魚の姫の末路を知らず、イアル・ミラールは鏡幻龍とともに響・カスミ救出の準備を進めていた。
 彼女が出立するとき、それはすなわちカスミを捕らえた魔女結社に決戦を挑むとき。だからこそ今回ばかりは感情を抑えつけ、万全を期す。
「今度こそ……カスミ……!」