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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


春の夜の夢


「……でね、もっと美味い川魚を食わせてくれる店があるんですよ! これがまた、山深い場所の民宿なんですけどね。あ、ちょっと連絡してみます」

 数時間前、伊武木リョウは友人のクマさんこと隈田進吾と有楽町のガード下で飲んでいた。
 ワカサギの天ぷらをつまみにちびちびやっていた時に、隈田がそんな言葉を口にしていたのを確かに記憶している。隈田はこのシーズン何度かワカサギ釣りに繰り出した事や、その際に出会した――否、正確に表せば迷い込んだ場所での思い出話などを面白おかしく話し、伊武木も時折声を上げて笑いながら楽しいひと時を満喫していた。

 それがなぜ今、奥多摩の辺境に立つ事になったのか。

(……真っ暗じゃないか)

 あれから、件の民宿に連絡がついたと言って、隈田は伊武木の腕を引きさっさと電車に乗り込んでしまったのだ。
 幾度か乗り換え、それからバスに乗り継いだ。最終バスはあれよあれよと言う間に人工光を離れ、とうとう終点まで二人を運んだ。終点の停留所には街灯のひとつも設置されておらず、遥か向こうに微かな光源らしき薄明かりが見えるのみだった。
 山深い場所の民宿。隈田は確かにそう言っていたが、それらしき建物が存在している様子はない。
 停留所の名称を見るに、恐らく日中に玄人な登山客が訪れる場合がほとんどなのだろう。最終バスの運転手は真夜中といっても過言ではない時間帯にこの地を訪れた乗客に怪訝な顔をしつつ、男二人を停留所で降ろすと来た道を引き返していった。
「……で、クマさん。民宿ってのはどこに」
「こっちですよ伊武木さん。俺、よく山登りの時に使ってて……」
 朗らかに笑う隈田は、背中にちゃっかりバックパックを背負っていた。予想のつかない自分の行動を、しかしある程度予想しているのだろう。
 急遽ミステリーツアーの相方になってしまった伊武木は勿論何の準備もしていなかった。バスに乗り込む前、コンビニで最低限の着替えやタオルを購入したのだが、あの時隈田がしきりにコンビニに立ち寄る事を奨めた理由が今になって理解できた。それと同時に、隈田に対する感謝も沸く。バスに乗車する前に手に入れておかなければ手遅れだっただろう。
 こっちです、と道ならぬ道を指差して歩き出す隈田の後を追いながら、伊武木は溜息が漏れそうになるのをぐっと堪える。
(ここは本当に奥多摩か……?)
 伊武木の知る奥多摩の風景とは少し違っている。これも隈田の能力が引き寄せた異界なのだろうか。だとすれば、もう諦めて巻き込まれるより他ない。
 そんな事を考えながら、酒が入っているとは思えない足取りの隈田と共に獣道を進んだ。




 獣道を歩くこと十数分、予想より早く目的の場所にたどり着いた。
(廃屋だ)
 口をつきそうになった言葉をすんでのところで飲み込む。随分と、雰囲気のある民宿だ。ひっそりとしているが、本当に営業しているのだろうか。
「おや」
 隈田が戸を叩くより先に、内側から引き戸が開かれ声が聞こえてくる。内側から漏れてくる光に誘われ歩み寄ると、戸口には和服姿の男が立っていた。
「お早い御付きで」
 思わず怪訝な顔をしてしまった伊武木をよそに、隈田は見知った顔が見えた安堵からかまた朗らかに笑顔を浮かべた。
「どうも、ご無沙汰してます!」
 戸口の男は隈田と二言三言言葉を交わすと、連れ合いである伊武木に向き直り、糸のように細い目を更に細めて微笑んだ。
「お連れ様ですね。こんな遠いところまでようこそおいでくださいました。さ、どうぞ中へ」
「伊武木さん、お邪魔しましょう」
 ここの川魚は本当に絶品なんですから、と言いつつ、隈田はさっさと中に入ってしまう。男に招き入れられるまま敷居を跨いだ伊武木の耳元で、ごゆっくり、と含みのある囁き声が聞こえた。


「隈田様、お久しぶりですね」
「こんな遅くにいらっしゃるなんて」
「台所がてんやわんやですよぉ」
 湯を使い部屋に通されると、すぐにお料理をお持ちしますので、と声がかかった。
 隈田はこの民宿の得意客のようで、従業員らしき者たちが、皆口々に彼に言葉をかけていく。その口振りからは親しみが溢れ、心から歓迎されているのが見て取れた。
 だが、上機嫌の隈田とは打って変わって、伊武木は宿に入った時からどうにも落ち着かない。湯を使う際には何度も湯の様子を確かめ、湯上がりに用意されていた浴衣も表から裏から入念にチェックした。そんな伊武木を見た隈田には、伊武木さん、酔いが回ったんですか、と言われる始末だ。
 あまりに隈田が自然なので、伊武木自身ももしかすると自分が酔っているのかもしれないと考えた。が、部屋に通されてから、いや、これは、と、また思い直した。
「良い宿でしょう。従業員の方も気さくな方が多くてね」
 そうだね、と返しながら、伊武木は正に今部屋から下がろうとしている従業員と目が合った。相手はにこりと笑みを浮かべ、ひとつ頭を下げて部屋を出て行く。

(……うん。狸だな)

 二足歩行の狸だ。その前に来たのは狐だった。隈田は全く気付いていない様子だが、伊武木の目には従業員の姿が二足歩行の狐狸に見えていた。
 一見すると人の姿形をしているが、怪異に慣れているおかげなのか、目を凝らすと狐狸なのだ。化かす類の者たちが甲斐甲斐しく世話をしてくれるので、どうしてもその手の昔話を思い出してしまう。
 朝起きたら、料理は泥団子に、今身につけている浴衣は襤褸に変わってしまうのではないか――。
 つい、そんな疑念が頭を過る。
「じゃあ、早速いただきましょうか」
「ああ。そうだね」
 互いに猪口に酒を注ぎ、今日何度目かわからない乾杯を交わす。隈田は早速小さな小鉢に箸をつけ、一口食べて満悦の表情を浮かべた。
「うまい!」
 疑いを知らない隈田の姿に誘われ、伊武木も小鉢を手に取った。おひたしに見えるが、一体これは何だろう。
「これは……」
「『山にんじんのおひたし』でございます」
「っ……」
 いつの間に現れたのか、二人を招き入れた和服の男が伊武木の傍らに坐していた。隈田が若旦那と呼ぶその男は、正面に座る隈田には聞こえぬ声で、
 ――泥団子ではございませんよ。
と、揶揄するような調子で言った。
 やはりバレていた。こちらが気付いている事に、相手もまた気付いていたのだ。
 他の従業員は少し注意すれば狐狸の姿が見えるのに、この男だけはどう目を凝らしても元の姿が見えなかった。見えるのは、狐色の立派な尻尾だけだ。余裕のある佇まいからも察するに、この若旦那がここの『親』なのだろう。
 弧を描く若旦那の目に気圧され、ええいままよ、と半ば勢いでおひたしを口にした伊武木は、思わず感嘆の声を上げた。
「おいしい……」
「でしょう?」
「はっはっ。ありがとうございます」
 お世辞抜きに美味かった。香りが強くややクセがあるものの、エグみはなく食べやすい。若葉の時期には少し早いように思うが、瑞々しい青が舌をうつ。これは美味い。
「それではどうぞ冷めないうちに。たんと召し上がってください」
 伊武木の反応に気を良くしたらしい若旦那は、そう言い置いて部屋を出て行った。

 それからは、伊武木も隈田と同様、始めの疑心が嘘のように心から酒と料理を楽しんだ。
 隈田のおすすめであるイワナとヤマメの塩焼きは、焼き上がると串に刺さったまま運ばれてきた。熱々のふっくらした身に齧り付くとなるほど確かに絶品だ。そうこうしていると今度はふきのとうやたらの芽の天ぷら、カジカの唐揚げ、わらびと山うどの酢味噌和え、と次々に料理が運ばれてくる。
 既に軽く摘んできた身としてはさして腹も空いていないはずなのに、出された料理はするすると口の中に入ってしまう。それほどに美味い。また、一つ一つの量が小振りのため丁度良い。そんなところにも、彼らの心遣いを感じた。
 四季折々の山の幸、川の幸が、旬の頃合の豊かさで以ってもてなしてくれる。不思議な気分だった。まだ寒い日が続いているとはいえ暦の上では既に春、つい数日前には都内でもソメイヨシノが開花したと聞く。しかしテーブルに並ぶ料理の数々には、春も夏も秋も冬も同時に存在していた。
「おいしいねぇ」
「おいしいですね」
 先ほどから、二人の口からはそれしか出てこない。美味しい料理に舌鼓をうち、ふわふわと心がほどけていく。料理が提供される間にも従業員たちが代わる代わる顔を出しては、二人の様子を見てはころころと笑って去って行った。怪しげな雰囲気のあった若旦那も時折顔を見せ、すっかり上機嫌の客に苦笑にも似た笑みを見せた。
 最後に山菜ご飯の小さなおにぎりと香の物、椀が運ばれた。持ってきたのは不慣れそうな青年で、ぎこちない手つきで料理を二人の前に出した。
 青年が料理を並べ終えるのを待ってから、伊武木は声を潜めて彼に顔を寄せた。
「差し出がましいようだけれど、見えてるよ」不思議そうな表情を浮かべた青年の後ろを、伊武木が指差す。「尻尾」
 わっ、と慌てた様子で青年が背後を手で払と尻尾が消えた。運良く、隈田はおにぎりを頬張らんとしているところで気付いていない。もっとも、随分酒が進んでいたから何れにせよ気付かなかったろう。
 すみません、と恐縮しきりの青年は、眉尻を下げて伊武木を伺う。
「あの、このことは頭領にはご内密に……」
「頭領……若旦那さんのことかな?」
 こくりと青年が頷く傍で、隈田の口から溜息のような「美味しい」という言葉がこぼれる。すると、不安げだった青年の表情がぱっとほころんだ。
「こちらは君が?」
「はい! 炊き込みと香の物はオレが……あっ、私が」
 隈田に続いて、伊武木も山菜ご飯を頬張る。
「うん。おいしい」
 花でも咲くのではないかと思えるほど、青年の顔には喜びが満ちていた。青年の初々しさに、つい頬が緩んでしまう。
 お茶お持ちしますね、と出て行った青年の小さな悲鳴が聞こえたのち、若旦那が部屋を訪れた。ご内密に、は手遅れだったかもしれない。
「お愉しみいただけましたでしょうか」
「そりゃもう!」
「美味しかったです。本当に」
 ありがとうございます、ともてなしへの感謝を口にすると、若旦那は幾分優しげな顔になり、勿体無い御言葉です、と静かに頭を下げた。
 茶を運んでくれた狐が隣室に布団の用意をしてすぐに引き上げていく。すぐ寝たらぶたになっちゃいますかね、どうかな、今寝たらしあわせだな、などと軽口を叩きながら、熱いお茶でほっと一息ついた。ほどほどに食休みをし隣室の布団に潜り込んだ時には、身も心もすっかり満たされた二人は既に睡魔に囚われていた。




 翌朝、まだ明けきらぬ早い時分に隈田は伊武木を置いて宿を出て行った。曰く、これから山に登るのだという。
 山登りには付き合えないと布団にしがみついた伊武木が起き出した頃には、宿はひっそりと静まり返りいささか古ぼけた様相になっていた。きっと、皆引き上げてしまったのだろう。
 のろのろと身支度を整えていると、廊下で物音がした。ついと部屋から顔を出すと、戸のすぐ横におにぎりが二つ。ふっと微笑んだ伊武木はありがたくそのおにぎりを頂戴して、ごちそうさまでした、と呟いて廃屋を辞した。
 来る時は何も考えず隈田に着いてきたが、さて帰り道はどちらだろう、と辺りを見回すと、地面に小さな足跡を見つける。その気配りに感謝し、点々と続く足跡を辿った。本当に至れり尽くせりだ。恐らく、隈田は彼らにとってたまの現金収入になる良いお客さんなのだ。裏表なく酒や料理を楽しむ隈田の人柄も、彼らに好かれる所以かもしれない。
 そんな事を考えながら歩いていると、ふと足跡が途切れた。ここからはサービス範囲外なのか、と首を傾げつつ顔を上げる。
「うわあ……」
 伊武木の目に、満開のヤマザクラが飛び込んできた。記憶にある桜よりも色濃く、小振りで慎ましい花弁が若葉と共に咲き誇っている。
 どこか、非日常に迷い込んだような、そんな心持ちだった。たまに化かされてみるのも悪くない。知らず、はは、と笑い声を上げた伊武木の背後で、カサカサ、と草木を揺らす音がした。