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悦楽の真珠貝
世界を創る。
魔法に携わる者にとっては、究極の目的であると言ってよい。
以前シリューナ・リュクテイアが行った、絵本の中の世界の複製再現など、その究極目的の初歩的な技術である。
「まあ、あれは失敗だったのよね。だから私に、偉そうな事を言う資格はないのだけど」
広い魔法実験室。その主である少女を、シリューナはちらりと見やった。
「……貴女らしくない失敗ね? 世界の創造にうっかり手を出して、こんな出来損ないを作り出してしまうなんて」
「私が失敗などするはずがない、と自惚れておりましたわ」
魔法使いの少女が、そう言って笑う。
外見は15、6歳の美少女である。が、魔法使いの年齢を外見で判断する事は出来ない。
シリューナ自身、200年以上を生きているが、知らぬ者には20代の美女にしか見られない。
「だって私、魔法に関しては……お姉様の次に、天才ですもの」
「魔法だけなら貴女、私より上かも知れないわよ。で、そんな貴女が大失敗をやらかした結果」
実験室の中央に鎮座するものを、シリューナはじっと見据えた。
巨大な二枚貝、に見える。
貝殻は開いていた。
中にあるのは貝肉ではなく、何やら渦を巻いている得体の知れぬ空間だ。
小規模な異世界が、貝殻の内部に生じているのだ。
生物の棲めぬ、生まれ得ぬ、死の世界である事は、シリューナが見ればわかる。
「私とした事が、あまり良くない品物を掴まされてしまいましたわ」
魔法使いの少女が言った。
「世界を1つ、創り出す事の出来る魔法書……という触れ込みの書物を買ったのですけれど。開いて呪文を唱えてみた結果、こんな出来損ないの世界が出現してしまいましたの」
「その魔法書は?」
「爆発四散しましたわ」
このままでは、生き物の棲めない死の世界が、貝殻の中から溢れ出し広がってしまう。
「ですから、ね……私がこの世で唯一、頼れる相手すなわちシリューナお姉様に、出来損ないの世界をお片付けしていただこうと」
「イエローカード! イエローカード!」
この場にいる、もう1人の少女が、やかましくホイッスルを鳴らしながら、つかつか踏み込んで来た。
「あと1回お姉様って言ったら、あなた退場です! この方をお姉様って呼んでいいの私だけなんですからっ」
「いい子だから、お話が終わるまで大人しくしていなさいティレ」
ファルス・ティレイラ。
シリューナにとっては、魔法の弟子であり、自店の従業員であり、玩具あるいは愛玩動物であったりもする少女だ。
「あら、可愛いお嬢さん」
魔法使いの少女が、にこりと微笑んだ。
「貴女が……そう。シリューナお姉様の、今のお弟子さんなのね」
「退場! 退場!」
「ほら行くわよティレ。何でも屋さんとして、きっちりお仕事なさいな」
レッドカードを振りかざして喚くティレの首根っこを掴んだまま、シリューナは貝殻の中へと向かった。
人間ならば1分も生きてはいられないだろう、とファルス・ティレイラは思った。
大気成分が、地球上のそれとは全く違う。
まさしく死の世界だ。この空気を吸って生きていられるのは、魔族か竜族くらいのものであろう。
だから、あの魔法使いの少女はシリューナに依頼をしたのだ。この死の世界を、内部から消去してくれるようにと。
強固な貝殻を、外側から破壊する事は出来ないらしい。
もっとも、あの少女の言う事が本当であるかどうかはわからない。彼女が人間であるのかどうかも不明だ。
「……一体何なんですかぁ、あの人」
柔らかな頬をぷーっと膨らませながら、ティレは訊いた。
「私の事、今のお弟子さんとか言ってました。あの人はじゃあ、お姉様の昔のお弟子さんか何か? どうゆう関係だったんですかぁ一体」
「女の過去はね、色々あって謎めいているもの。詮索してはいけないもの。貴女にもいずれわかるわ、ティレ」
そんな事を言いながらシリューナが、空中を漂う何かを拾い集めている。
死の空気の中を、ひらひらと舞いながら漂流する、それらはどうやら紙片であった。
「爆発四散した魔法書……の、断片ね。これは」
ティレでは読めない文字で何かが書かれたそれらを、シリューナが流し読みしている。
「この空間に関する……何かが、書かれているみたい。繋げて解読しておきなさい」
「わかりましたわ、お姉様」
貝殻の外から、あの少女の声が聞こえた。
死の空間を内包する二枚貝の中に今、シリューナとティレはいる。身体は小さくなっており、貝殻の外からの声は、まるで神が喋っているかの如く威圧的に響いて来る。
シリューナの手から、紙片の束がキラキラと光をまといながら消えてゆく。魔力転送で、外にいる少女の手元に送られたのだ。
その間ティレは、貝殻の中の世界をきょろきょろと見回していた。
本当に、何もない。地面は貝殻で、空は、草木を育む事のない死の空気の揺蕩いだ。遥か上空には、地面と同じ貝殻の蓋が存在しているはずであった。
そんな天空へと向かって、巨木が伸びている。いや、木ではなく柱か。
「お姉様、この木だか柱だか凄いですよ。てっぺんが見えません、お空へ向かってどこまでも伸びてます。世界樹みたい! ちょっと登ってみちゃおっかなー」
「その辺にあるもの無闇に触っては駄目よ、ティレ。何が起こるかわからないわ」
漂う紙片を空中から拾い集めつつ、シリューナが言う。
その時にはしかしティレは、世界樹のような柱に抱き付いていた。
途端、世界は震動し、暗黒に包まれた。
地震と日没が同時に訪れた、とティレは感じた。
「あらあら……貝殻が閉じてしまいましたわ」
魔法使いの少女の声が、神のお告げのように響き渡る。闇の中に。
「……外へ出られなくなってしまったわねえ」
シリューナが苦笑しながら、ティレの柔らかな頬をつまんで引っ張った。
「まったく貴女という子は。その好奇心のせいで何度もひどい目にあってきたでしょうに、もう忘れちゃったのかしら?」
「お、お許ひをぉ、お姉ひゃまぁ」
闇の中で、ティレが悲鳴を上げる。
とにかく、まずはこの暗闇をどうにかしなければならない。
シリューナが人差し指を立てた。その綺麗な指先に火が灯り、周囲を照らす。
見えるのは、巨大な柱だけだ。
「その柱を、切り倒すなり打ち砕くなりしていただくしか、なさそうですわね。それは貝柱ですから、失くなれば貝殻は開きますわ」
魔法使いの少女が、二枚貝の外から解決策をくれた。
「お姉様に回収していただいた魔法書の頁に、そう書いてありますの。ティレさん、お任せしても大丈夫ですかしら?」
「任されました、大丈夫です。教えてくれてありがとう、だけどお姉様をお姉様って呼ばないで下さい!」
ティレは、怒りと気合いと魔力を燃やした。
少女の愛らしい両掌の間で、炎が生じ、球形に燃え盛る。
巨大な火の玉が、貝柱に激突した。
柱の一部が、焦げて砕けた。ほんの一部である。この世界樹のように巨大な貝柱を、粉砕するには程遠い。
シリューナから教わった、この火炎魔法を、続けざまに撃ち込むだけだ。
ティレがそう思い定め、再び魔力を燃やそうとした、その時。
周囲の暗闇が、ぼんやりと薄らいでいった。炎、以外の光源が、どこかに生じたようだ。
霧、であろうか。
発光する霧、としか表現し得ぬものが立ち込め、ティレの全身を包んでゆく。
「貝が……自己防衛を、始めたわね」
真珠色に薄ら輝く霧を見回しながらシリューナが、優美な眉をひそめる。
「これは、魔法封じの霧……ティレ、炎は?」
「だ、出せません……」
両掌の間で、弱々しい炎が一瞬だけ生じ、消えた。
真珠色の霧が、魔力を奪ってゆく。だが、気合いまで奪う事は出来ない。
「……それなら力で行きます、物理で殴ります! ああもう、これ可愛くなくて好きじゃないんですけどぉ!」
ティレは叫び、牙を剥き、翼を広げ、尻尾をうねらせた。
可憐な人型の美少女は姿を消し、代わりに凶猛な牝竜が出現していた。
シリューナが、呑気な事を言っている。
「あら、それはそれで可愛いわよ? ティレ。手綱とか付けたくなるくらいに」
「……ありがとうございます。危ないから離れて下さいお姉様!」
ティレは思いきり巨体を翻し、大蛇のような尻尾で柱を殴打した。
焦げ砕けた部分から、細かな亀裂が広がってゆく。
そこへティレは爪を叩きつけ、あるいは牙で噛みついた。
柱が削れ、その破片が大量に飛散する中で、ティレは息切れを起こしていた。
「つ、疲れた……身体が重い……運動不足、なのかなぁ。配達のお仕事で身体、動かしてるのに……」
「……この霧のせいよ、ティレ」
シリューナの言葉通り、真珠色の霧が、今や物理的な拘束力をもってティレを押し包みつつあった。
翼が、尻尾が、四肢が、鼻面が……牝竜の全身が、真珠色に輝き始めている。
真珠色の霧が、凍って付着しているかのようだ。
「えっ何、何ですかこれ……」
「ティレさん、どうかお急ぎになって」
魔法使いの少女が、神のお告げをくれた。
「その霧に長時間、包まれていると……貴女、とっても綺麗な真珠の塊になってしまいますわよ?」
「先に言ってー!」
悲鳴を上げながらティレは、柱に体当たりを食らわせた。
世界樹のようであった巨大な貝柱が、完全に砕け散った。
「柱、なくなりましたよ! 貝殻は開かないんですかぁっ!」
「ちょっと、お待ちになってね。貝柱が失われた以上、もう外から開くようになっているはずですから」
「早く出して〜!」
悲鳴を上げる牝竜の口が、そのまま閉じなくなった。翼も尻尾も四肢も、真珠色に輝きながら動かない。
真珠で出来た竜の像が、そこに出現していた。
「あら……あら、あらあらあら、まあまあまあまあ」
シリューナが、何やら感激している。感激しながら、撫で回す。その嫋やかな手で、真珠の竜の鼻面を、翼を、尻尾を、愛おしそうに。
「商売とは特に関係のない頼み事も、引き受けてみるものねえ。うふふ……こんなお宝が、手に入るなんて」
(あの、お姉様……そんな事、言ってる場合じゃないと……思いまぁす……)
ティレは心の中で言った。それが精一杯だった。牙を剥いて開きっぱなしの大口を、閉じる事が出来ない。舌も真珠細工と化して動かない。声が出ない。
身体を動かす事も、出来ない。そしてそれは、シリューナも同様である。
まとわりつく霧の中でシリューナも、真珠細工の女人像と化していた。
「お姉様の……ふふっ。滅多にない御姿を拝めるかも知れませんわね」
1人、微笑みながら、魔法使いの少女は貝殻を開けた。
開いた貝殻が、サラサラと砕け崩れてゆく。
その粉末を舞い上げながら出現したのは、豪奢な真珠細工であった。
苦しみ吼える牝竜と、その巨体を愛おしげに撫でる美女。
少女の目論見通り、両名とも真珠の像と化していた。
「まあ……とっても可愛くってよ、ティレさん」
艶やかな真珠の竜、その鼻面に繊手を触れながら少女は語りかけた。
物言わぬ真珠細工と化したティレは、何も応えない。そして、シリューナも。
「私が、最初からこうしてお姉様を巻き込むつもりであった事……見抜いておられる?」
優美な真珠の女人像に細腕を回し、頬を摺り寄せながら、少女は微かに吐息を乱した。
「ああ、真珠のお姉様……とっても綺麗……」
シリューナならば、この程度の真珠化は自力で解いてのけるだろう。あと1時間もかからない。
「そうなったら私お姉様から、どんなお仕置きをいただけるのかしら……あ、あの時のように私、身体の中身と外側をひっくり返されて……無様に蠢く、臓物の塊にされてしまうの?」
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