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<東京怪談ノベル(シングル)>


花実を咲かす死などなく(6)
 伸ばされた枝は殺意をまとい、少女の身体に狙いを定める。桜から放たれているおどろおどろしい瘴気が室内へと溢れかえり、周囲へと広がっている嫌な空気が彼女の美しき肌を無遠慮に撫でた。
 口のない桜に言葉はなく、琴美もまた人を魅了してやまないその柔らかな唇を先程から固く結んでいる。部屋の中は、嫌になる程静かだ。
 互いが互いの動きを警戒しながら、一歩を踏み出すタイミングを伺っている。桜の木といえど、相手は今は怪物。目の前に立つ極上の獲物である琴美をとらえるために、慎重に行動しているようだ。目などないはずなのに、不気味な視線が琴美の肌を……整った顔、着物から覗くしなやかな腕、スパッツに包まれた脚、少女の全てを無遠慮になめまわしているような気がし、彼女の胸を不快感が巣食う。資料でしか見た事のない今回の事件の黒幕である男が、げひた笑いを浮かべているような錯覚までしてきた。
 実際、男が生きていたとしたら間違いなく、琴美の女性らしい魅力に溢れた身体を見て舌なめずりをしていた事だろう。強いだけでなく美しい侵入者は、強さを求める男にとってさぞ美味しい餌に見えたに違いない。
 琴美は、対峙する魔の桜を改めて見やった。人の命を喰らったせいか桜は本来の美しさすら忘れ、今や不気味な怪物へと成り果てている。
(まるでその性質を現しているかのような、醜い姿ですわ)
 いっそ哀れにすら思えるその不気味な姿に琴美は思わずその整った眉を僅かに寄せるが、冷静さを失う事はなくまっすぐと相手の事を見つめ動きを探っていた。
(――今ですわ!)
 哀れみを携えていた黒の瞳は、瞬きを合図に決意の込もったものへと変わる。怪物が隙を見せたのはほんの一瞬だけだったが、たとえどんなに短い間の事だったとしても琴美は決してそれを見逃さない。瞬時に、くの一は駆け出した。慌てたように、彼女の姿を凶器と化した何本もの枝が狙うが、一度駆け出した琴美に追いつけるはずもない。
 一息で距離を詰めた彼女は、手に持っていたクナイで怪物の幹へと斬りかかる。一撃、次いで二撃。攻撃中の琴美に怪物も反撃しようとしたが、伸ばした枝にいつの間にか刺さっていたクナイが怪物の動きを鈍らせる。
 琴美は疾駆しながらも、自らを狙い撃つ枝に向かい隠し持っていたクナイを投げていたのだ。そちらに視線をやる事もなく、的確に狙った場所へとクナイを投擲出来たのは彼女の才能と数多もの経験、そして普段の努力の賜物だろう。
「……そう、強くなりたければ、努力すればいいだけの事ですわ。この私のように」
 琴美は、他の者の追随を許さぬ程の驚異的な戦闘能力を持っている。だが、彼女の生きてきた道にはいつだって戦いがあり、戦場があり、努力があった。彼女が今立っている場所は、日々修行を欠かさぬ琴美だからこそ辿り着けた高みなのだ。
「死して咲く花実などありませんわ。努力する事を放棄し、人の命を、そして自らの命を餌にした時点であなたに強さを手にする資格はなくなってしまったんですのよ」
 命を命と思わず、残忍な方法を繰り返し無理矢理に力を求め続けた結果が、これだ。強さにとらわれ、怪物の一部と化してしまった。この怪物の醜さは、男の曲がった性根に汚染されたせいだろう。
 攻撃の手を緩める事なく、琴美は相手からの攻撃を避けながらも戦場を舞う。琴美の速さには決して追いつけないともうすでに悟っているだろうに、それでもがむしゃらにこちらへ攻撃を仕掛けてくる怪物の姿は、まるで駄々をこねる子供のようにも見えた。怪物の動きを見ていると、声なき狂人の叫びと桜の悲鳴が聞こえるような気がしてくる。琴美は、悲痛げな面持ちでクナイを握る手に力を込めた。
「これで最後ですわ!」
 その一撃は、優しき少女の慈悲だ。せめて、少しでも早く楽にしてやろう、と琴美は全力で武器を振るう。
 彼女の優しさはクナイとなり、怪物の身体へと突き刺さった。鮮血のかわりに、どろりとした濁った液体が木の幹から溢れ出す。それはどす黒く濁った魔力であり、死した黒幕の魂でもあったのだろう。魔に汚染された桜の木は、それきりぴくりとも動かなくなった。

 こうして、とある組織が一つ、この世から消えた。
 これでもう、罪なき人々がさらわれ生け贄にされる事も、低級の悪魔が無闇矢鱈と召喚されて殺される事もないだろう。
 今しがた倒した桜の木は、まるでこの木の周囲だけ時の流れが違うかのように急速に枯れ果てて行く。ぶわり、とどこからともなく風がふき、一斉に桜の花びらが舞い上がった。 
 恐らく、琴美の攻撃を受け損傷した結果、桜に込められていた魔力が切れたのだ。魔力を失った桜はその姿を保っている事が出来ず、散るしかない。桜が舞い散る中、一人佇む少女はひどく美しく、ともすればそのまま桜の花びらにさらわれてしまいそうな程に幻想的であった。
 無論、本当にさらわれるわけもなく、少女は自身の足でしっかりと立ち、舞い散った桜を見下ろしている。
 花びらが散る様は、どこか見る者に寂しさを感じさせるものだ。だが、今宵散った桜は所詮まやかし。本物ではなく偽物の桜に過ぎない。
 季節はすっかり春だ。本当の、美しき桜の花もすぐに蕾を開く事だろう。
(次の休日は、桜を見ながらチェリーブロッサムの紅茶を嗜むのも良いかもしれませんわね)
 そんな予定を密かに立てて、琴美は穏やかな笑みを浮かべた。いつの間にか夜は明け、辺りは明るくなっている。
「さて、帰って上司に任務成功の報告しなくてはなりませんわね」
 笑みを浮かべたままそう呟き、温かな春の日差しに向かい琴美は歩き始めた。