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淫魔の王女
黒鉄でその身を鎧った男は、剣を汚す脂をその主――狂気に溺れて民と国とを見失った女王のまとう絹でぬぐい、顔を上げた。
青い眼が向けられた先には3メートル四方のレリーフがあり。中央部に、ひとりの女の姿が浮き彫られていた。
それにしてもすさまじい臭いだ。タールなど、煉瓦を貼りつける役にしか立たぬものと思っていたが……そればかりではなかったらしい。
男はえずく騎士どもを押し退け、先頭に立つ。
「ようは“鍵”なのだ。開けるにふさわしき者にのみ、その鍵穴は示される」
陶然を映す声音が唄うように紡がれた。
追従する者はない。賛同も、それどころか否定すらも。しかし、男がそれを気にすることはなかった。魅せられていたからだ。タールのただ中に浮き上がる、素足の女の美しさに。
「単純に王の鼻が潰れてるだけかもですよ? タールだけじゃなくて、さんざん得体の知れないものぶっかけられてきた代物なんですからねぇ」
聞こえてきたのはぞんざいな女の声。
嘔吐しながらも、騎士どもはその不敬に対して剣を抜こうとしたが。
「構わん」
男――王に止められた。
王は騎士を制した手でそのままレリーフを指し、自らへ歩み寄る黒衣の占師に問うた。
「占師よ。俺はおまえが告げるままに戦い、この国を手にした。そして充分に資格を示しもしただろう。さあ渡せ。“素足の王女”を解く鍵を」
「わかっておりますよ、王。そのためにあたしがこうして出張ってきたわけでして」
モノクルをふたつ繋げて造った丸眼鏡を鼻先から押し上げ、占師は口の端を吊り上げた。
「――はっ! あ、ぶ……ううっ――うぇぇっ」
女子高生兼オカルト系アイドルであるところのSHIZUKUは、ソファから跳ね起きると同時にトイレへダッシュ。
「トイレどごぇぇえええ」
こらえきれず、喉元まで迫り上がっていた胃液と胆汁を床へ吐き散らした。
「酸っぱ苦ぃぅええ、げ、えっ」
激烈な鈍痛が頭を苛み、空の胃が引きつって吐き気を量産する。
原因は夢で見た、いや、嗅いだあのにおい。
SHIZUKU自身、数ヶ月間閉じ込められたことのある――それを遙かに超えた絶望的なタールの臭いだ。
SHIZUKUは吐き気の隙間を突き、痛む頭を両手で押さえつけながら走ってポシェットの中に放り込んである鎮痛薬を探す。
「って! あたしまっぱなんですけどぅぐうおぇ」
吐き気に胃を絞り上げられながら、SHIZUKUはせめてもの気づかいで部屋の隅へかがみこみ、吐く。
逆にトイレではなくて助かったかもしれない。今、あのフローラルな匂いを嗅いでしまったら絶対まずい。それだけで4回吐ける自信があった。
「あーもーあーもー、なんであたしがあんな夢見なきゃなわけ!?」
えずきながら、SHIZUKUはふと思い出した。
あのタールの内に浮かぶ、“素足の王女”の顔を。
彼女のもっとも新しい友人であり、幾度となく窮地を救ってくれた恩人である女剣士、イアル・ミラールそのものの顔を。
「――あーねー、そーゆーことねー。はいはい。オッケーわかった。飲み込めた」
水を汲んできてくれたイアルの説明を受け、ようやく自分がどこにいるのか、どうやらイアルによって助かったらしいこと、ふたつを理解したSHIZUKU。
イアルのコートを体にまきつけ、ソファの上で体を丸めて何度もうなずいた。
「ああ! そう1 そういうことよ! うんうん、了解わかってくれたみたいね! 飲み込んでくれてよかった!」
不自然なセリフを返しながら、イアルはソファの裏でビキニアーマーのズレをなおす。
『不自然すぎない? というか、今さら動揺することもないでしょうに』
イアルの内に宿る守護者、鏡幻龍がやれやれとかぶりを振った。
龍であるよりも話しやすい。それだけの理由でイアルの姿を現し身としている龍。イアルとしては迷惑この上ないわけだが……もうひとりの自分ならぬ、自分を客観視する冷静な自分という役どころを担われているため、文句が言いにくい。
(一応はわたしにだって恥じらいだとか、倫理だとかあるのよ!)
小声で言い返してくるイアルに、イアルの顔をした鏡幻龍は肩をすくめ。
『人助けだったんだからSHIZUKUも気にしないわよ。女同士なんだし、あちこち触ら』
(不可抗力! 不可抗力だから!)
だったらそれこそ堂々としていればいいものを。鏡幻龍はそれ以上イアルを追い込まないよう胸の内でつぶやいて、代わりに。
『SHIZUKUは悪夢酔いしてるみたいだから、もう少し眠らせたほうがいいわよ。多分、最後まで見ることにはなるんだけど……わたしがそばにいればケアできるしね』
(わたしに関わったせい――よね?)
鏡幻龍はうなずき。
『内容は本人に訊かなきゃわからないけど、それはまちがいなく。でも、それだけイアルと縁が深いからでもあるわ。だからこそ見せておくべきなのよ』
鏡幻龍の言葉に、今度はイアルがうなずいた。
(見た後にどう思うか、どうするかは、SHIZUKUに任せるってことね)
『ええ、それしかない。幻(み)るほどの縁がある以上、無関係には戻れないでしょうけど』
それは喜ばしいことなのかもしれないが、気が重い話でもある。SHIZUKUを巻き込みたくないと思う。そう思うだけの情が、今のイアルにはあるから。
しかし、自分と彼女が宿縁で結ばれているのだとすれば、結局巻き込まずにはいられないのだろう。
「だったらせめて、守らないとね」
『ええ』
イアルに寝かしつけられたSHIZUKUは眠りの内へ――夢の内へと還る。
「――石を血に。石を肉に。石を肌に。石を命に」
大浴場の一角に運び込まれた“素足の王女”のレリーフ。そのただ中に浮き上がる王女の額に指先を突きつけ、眼鏡の占師が歌うように唱えた。
「なんと」
思わず声をあげる王の眼前で。
呪いが解ける。
タールが溶ける。
固く封じられていた地が、肉が、肌が、命が、穢れたタールをその内に吸い込みながら、鮮やかな彩を取り戻す。
弱々しく咳き込み、膝をつく“王女”を見やり、王は声をあげた。
「――湯浴みを」
王に続き、占師が遠く後方に控えていたメイドたちを呼びつける。
「あたしの魔力じゃ戻しとけるのは夜の間だけですからねぇ。王様が爆発しちゃわないうちに急いで急いで」
おそるおそる、それでもあわてて駆け寄ってきたメイドたちが、空気に残るタール臭にむせ、涙を流しながら、王女を浴槽へ連れて行く。
「王女の頭が弱ってるうちに、基本的なとこは仕込んどきますからね。王様は先に寝床で待っててください。おっと、暴発はナシで頼みますよぉ」
一刻(約2時間)ほどの後。
白絹一枚を巻きつけられた王女が王の寝所へ運び込まれた。
「我が身をお救いくださったお方……この身をもって、ご恩をお返しさせてくださいまし」
夢見るような口ぶりで紡いだ後、王女は自らの絹を解く。
「おお」
夜闇の黒に浮き上がる、白き肢体。
これがかの国の王を溺れさせ、王妃を狂わせたあげく、国を潰した、女。
「そうだ。余は、そなたを呪いの軛より放った。いや、今はまだ一時に過ぎぬが……」
震える指で、白き首筋へ触れる。
「ん、はぁ」
ただそれだけで。
蕩けた。
肉の奥より湧き出す潤みがまとう、花のごとき芳香。
王はたまらず王女を抱きすくめ、汗を吸う。
まだ芯に触れてなどいないはずなのに、王女は甘く昂ぶり、その肉をすり寄せてきた。より深い狭間へ、王を引きずり込もうとでもいうように。
ああ、まだだ。まだ、そこへは行かぬ。
王は一度王女の体をもぎ離し、羽を詰めたベッドへ倒れ込んだ。
冷静にならなければ。余は王女に選ばれた男だ。菓子を与えられた餓鬼のようにむしゃぶりつき、喰らい尽くすのではなく、すべてを――
「をおおおおお」
仰向けに倒れ込んだことで上を向いた“男”を、王女の手が包んでいた。さらには焦らすように唇が近づき、そして。
渡さぬ! 渡すものか! これは、俺のものだ!!
王女の金の髪を両手で握りしめ、女の唇の蠢動を味わいながら、王は食いしばった歯の裏で猛く唸った。
朝、王はひとり目を覚ます。
傍らでうねっていたはずの王女の姿はどこにもない。王は血走った目を巡らせ――笑んだ。
「そこにいたか」
壁際に立てかけられるように安置されたタールのレリーフ。
凄まじいまでの悪臭を放つその内に浮かび上がる王女は……先ほどまでの痴態をそのままに映し、あられもない姿を晒していた。
以降、王の寝所にレリーフが安置されることとなる。
清掃を担当するメイドは、体調不良を理由に次々と辞めていった。
代わりを務めるようになったのは町での募集に応じた庶民の娘たちであり、それが尽きた後は出所も知れぬ貧民たちとなり、それすらもやがてひとり、またひとり姿を消した。
荒廃していく王城に閉じこもった王は、ただひたすらに夜を待つ。
政治を失くした国は城同様に荒廃し、民の失意はやがて英雄の登場を促した。
「お覚悟!」
王の心臓を貫いた剣の血を、王のまとう薄汚れたマントでぬぐい、王子は息をついた。
「まさか隣国の民より救いを求められるとは思いませんでしたな」
騎士長へうなずきを返し、王子は肩をぞくりと震わせた。
今、自分が斬った王は武名高き男だった。それが剣に振り回され、まともに打ち合うことすらもできぬままにあっさりと命を落としたのだ。
「彼の王は高き技と強き体を持ってはいました。でも、心がね、溺れちゃったんですよ」
王子の後ろからぞんざいな女の声が投げかけられた。
最近、父王が召し抱えたという魔導師だ。
「溺れた?」
魔導師はもっともらしくうなずき。
「呪いのレリーフに封じられた“素足の王女”にね」
魔術師に誘われ、王子は薄汚れた城の内を行く。
「――!」
廊下に充満する激臭。引き連れてきた騎士はたまらず顔を反らし、鍛え抜いているはずの騎士長ですら、鼻を覆っている。
「ああ、王子は無事なんですね」
モノクルをふたつ繋げて造った丸眼鏡を大げさにずり落としてみせ、魔術師が言った。
「いや、無事ではないが、なんとかな。それよりもこの臭いの元はなんだ? まさかこれが呪いか?」
「ま、そうです。で、この臭いに耐えられる御仁だけが、王女にまみえる資格を持つってわけです」
かくして王子は対面する。
タールのレリーフに浮かぶ、しどけない“素足の王女”と。
「これは――これではまるで、今まさに情を交わしているかのような――彼女が王女、と、訊くまでもない。私にはわかる。彼女こそが王女なのだと」
「ええ。王女はいつだって救いを待ってます。そして救ってくれた誰かに尽くしたくてたまらないんですよ。さて」
魔術師が口の端を吊り上げた。
「王子はどうします?」
この後、王子は持ち帰った“素足の王女”の呪いを半ば解くことに成功し。それをきっかけに、兄王と国を割る戦いを繰り広げることとなる。
“素足の王女”は兄王の手へ収まり、次いで異国の君主の手へ渡り……国の滅亡と共に主を変えつつ、世界を流されていった。
それがいつしか“淫魔の王女”と称されるようになる、王女の運命であった。
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