コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


再会の序幕
 贄。
 私の魔を練り上げるがため、その命を贄と捧げよ。
 街の裏側に根を張る暗黒教団。その巣窟へとなだれ込み、場に満ちていた異教の徒の魂を喰らった形なき魔は、自らがまき散らした血肉をこねあげ、ひとつの形を成した。
「……これで彼女を迎えるための形は得られた」
 青白き肌に白髪、妖しい光を湛える黒眼。
 先頃には老人であったはずの体が、今や青年とも少年ともつかぬまでに若返り、細く引き締まった体には、いくつもの魔法陣が浮き上がっている。
 魔は掌の魔法陣を見下ろし、ため息をついた。
「この程度の魂の数と濃さではまだまだ足りないね。もっともっと書き込まないと」
 魔は眼をすがめ、死臭の向こうにひとりの女を幻(み)る。
 スリットを刻んだ修道衣をまとい、聖杭のヒールを鳴らして自らへ迫る修道女の姿を。
 世界の影にはびこる魔と対する人の子の組織“教会”。その刃たる武装審問官最強と謳われる女、白鳥・瑞科の笑みを。


「これは上からの指令であり、私からの個人的な頼みでもある」
 最低限のものしか置かれていない執務室の中、この区域を統括する“司教”が苦い顔を瑞科へ向けた。
「なんでしょう?」
 戦闘用ではない、通常用の修道衣をまとった瑞科は、ブーツのつま先をすべらせるように司教へと歩み寄る。――足音はない。いかなるとき、いかなることにも対応できるよう、彼女の踵は床から浮かされていた。
「……この教会は幾重にも防御陣が張られている。そこまで身構える必要もないだろう」
 司教も元は武装審問官だ。逆に言えば、武装審問官でなければ武装審問官を取りまとめる司教位に就くことはない。
「ようは楽にしたまえということなのだが」
 対して瑞科は優美にかぶりを振った。
「この世界に絶対などないとは申しません。ただわたくしは戦場に生きる身ですわ。この体も心も常在戦場。ただそれだけの……そう、身勝手ですわね」
 戦国時代の日本で、足軽は足半(あしなか)と呼ばれる足裏の前側だけを守る草鞋をつけていた。常につま先立ちでいることで、動作性とグリップを確保するためのものだ。瑞科もまた同じ思想をもって、この日常に在る。
 司教は瑞科の修道衣の袖から垣間見えたラバースーツから目線を外し、言葉を継いだ。部下の気構えと身構えに感じ入る――あるいは戦場より離れてなお戦闘衣をまとい続ける意志にとまどうのは、職務を離れた後でいい。
「まずは指令からだな。先日、君の手から逃れた魔が再び動き出した。勢力を回復すると同時に、こちらで討滅の機を探っていた組織のいくらかが潰されている。食い合ってくれるのはかまわんが、君の報告からあの魔は命を糧として魔法陣を強化するとのこと。間に合わなくなる前に、君自身の手で仕末をつけろとのことだ」
 瑞科はうなずき。
「承りましたわ」
 笑んだ。
 ほつれ目のない、限りなくすべらかな面に刻まれた、孤月。
 神自らの手に造作されたかのごとき美貌は、それだけならばかえって人の目を弾き、心をすくませることだろうが。
 その体が描く魔性が、眼に宿る熱が、瑞科を人形にさせてなどおかない。
 ――もっとも、その心を見てしまえば欲望など抱けはすまいが。
 神性と魔性とを併せ持つその身に宿るは鋼の心。
 司教は小さくため息をつき、襟元を正した。理解できぬまでも、せめて応えよう。瑞科の心に。
「そしてこれは私の頼みだが……この教区には“教会”とは意を異にする討魔組織が存在する。その組織に属する神官騎士が、件の魔に敗れ、連れ去られたとのことだ」
 瑞科は応えず、次の言葉を待った。
 神官騎士といえば、“教会”と同じ主の名の下に魔と対する“庁”の戦闘職だ。その思想は“教会”よりも苛烈にして原理的。構成員はすべてが白人種であり、出自も南欧の一角に限るという徹底ぶりから、“教会”との接点は皆無のはずなのだが。
「できうることならば救いたい。目的を同じくする以上、魔のみならず“庁”と対立する現状を打開したいのでな」
“教会”に遅れてこの地区へ踏み入ってきた“庁”。互いに不可侵を暗黙の了解とはしているが、同じ場に立てば手柄の奪い合いになる。そのせいでいらぬ失態を演じることも少なくはないのだ。教区の管理者としては、確かにどうにかしたいところではあろう。
「そちらも承りましたわ」
 聞き返すことも、質問を重ねることもなく、瑞科は受けた。そして。
「ただしその方が魂の芯までも魔に喰らわれていたなら、斬ります」
 言い切った瑞科の目はかすかな感情され揺らがせることなく、穏やかに澄んでいる。
 瑞科は決めたのだ。たとえどれほどの困難が待ち受けようとも、その場に至ればただ確実に斬り捨てるのだと。
 圧倒的な自信と、揺らがぬ意志。
 司教はあらためて嘆息した。


「君はとても貴い子だ」
 とある高校の屋上。錆びたフェンスを乗り越え、跳び降りようとしていた男子生徒へ、男はやさしく語りかけた。
 俺が貴い!? 貴いってなんだよ!! 俺が死ぬからか!? あいつらになんにもできないから死ぬしかない――なにもしないから、貴いってのかよ!?
 心の絶叫は彼の喉の奥で詰まり、音になりはしない。「あ、あっ、あ」、意味のない音が、果てしない絶望の存在を示すばかり。
 それなのに、男はなにかを訊き遂げたかのごとくゆっくりとうなずき、両手を拡げて。
「吠えることもすがることもなく孤高を選び、それを貫いて逝く……その選択が、心の有り様が、貴い」
 男は静かに歩を進め、彼へと近づいた。
「理解できるなどとは言わない。ただ私には感じられるのだ。下賤に穢されることを是と受け入れることなく飛ぶ……その背にある翼が」
 男が言うことの半分はわからない。そんな言葉を使うような人間はまわりにいなかったし、自分もまたそのひとりだ。
 しかし。男が紡いだ「翼」というワードが、やけに彼の心を揺さぶって、離さない。
「翼なんて、ないだろ」
「ある。君が君にたったひとつを与えるだけで、その翼は君をアスファルトではなく、あの空へと連れていくのだよ」
 たったひとつを、与える?
「そう、たったひとつ。それは決意だよ」
 決意って、なんのだよ?
 彼の心の声に男が応えていることにも気づかぬまま、彼は問いを重ねた。
 男はしばし沈黙し、彼の目をのぞき込む。
 深淵がごとき黒眼の奥へと意識が飲まれていく。それすらももう、彼には感じられなかった。果たして。
「人を超える決意だ」
 人を超える――俺が、俺を、超えて――翼を、与える――俺は――俺を――俺が――
「――決意する」
「ならば私は君の決意に翼を与えよう、新たなる我が子よ」
 フェンスの上にあった彼の体に、男の指が触れた。
 男の体に刻まれた数多の魔法陣が起動し、彼の内へ圧縮された魔力を吹き込んでいく。
 代償は彼自身の魂。しかし彼に不快も恐怖もなかった。人を超えるということは、人ではなくなるということだ。人であるために必要なものなど、惜しむことはない。
「飛ぶ」
 フェンスを蹴って飛び立った彼は、自らの背に顕現した白翼をはためかせ、空へ。
 これからの行き先は決まっていた。まずは彼を飛ばせてくれた人間どもを喰らいに行く。別にこうなってしまえば憎悪もないが、力を増すためにはより多くの血肉が必要だから。
「存分に満たしたなら、私の元へ戻っておいで。君の兄弟に会わせよう。彼らと喰らい合って生き残れたなら……きっと彼女も喜んでくれるだろう」
 男の声を耳ではなく眷属としての繋がりによって聞きながら、彼は硬質化した唇を撓めて歓喜の声をあげた。
 今度こそ、音が詰まることはなかった。

 屋上を後にした男は、校内に響く悲鳴へ心地よさげな笑みを返す。
 眷属の数は少数でいい。それよりも強さが問題だ。白鳥・瑞科をもてなすためには、過ぎるほどの準備が必要となる。
「私自身もあと数百は喰らっておかなければね。眷属を喰らえれば効率も上がるのだが……それは最後のお楽しみとしておこう」
 目をつけている組織はあといくつかある。規模も魔力も申し分のない異教徒どもの巣だ。これだけ派手に動いているのだから、当然対魔組織にも感知されてはいようが、かまわない。
「いや、少し手控えたほうがいいのかな。いけないね、魔力が増すと慎重さが損なわれる。彼女には万全の私を見せなければ申し訳ないからね」


“教会”の内に与えられた自室で、瑞科は修道衣を脱ぎ落とした。
 ラバースーツに包まれた肢体はしなやかでありながら強い。豊かな胸とやわらかく張り出した腰、なめらかな肌の下では、鍛え抜かれた筋肉がその存在を主張する。
 肉感と鋭利とが共存する体。それこそは瑞科が己に課した有り様である。
「地獄へ逝く者に、せめてもの手向けを」
 彼女はうそぶき、純白のニーソックスとロンググローブへ四肢を通した。
 胴を鎧うと共にその胸を固定するコルセットをつけ、腰までスリットを切れ込ませた修道衣をまとう。皺ひとつなく彼女のボディラインを隅々まで露わすこの衣は、さながら第二の肌であるかのように彼女の動きを妨げず、同時に守る。
 次いで、なめらかな茶髪を純白のケープで覆い、面をヴェールで隠した彼女は、掌と拳を守る革グローブをつけ、最後に、聖杭のピンヒールをつけた編み上げブーツを装着した。
 ブーツの紐を締め、床を踏む感触を確かめる。つま先に重心を置いているため、ヒールはかろやかな音をたてた。踏み込む際にはこの硬いつま先が、踏み止める際にはこの鋭いヒールが、彼女の体を支えてくれるだろう。
「着替えを手伝ってもらうより、ひとつひとつを自分で確かめるほうが楽ですわね」
 すべての装具は開発担当の“博士”によって調整が成されており、それがゆえに装着の際は常に立ち会おうとしてくるのだが、使う側からすれば理論上の最適を成すよりも自身の感覚的な最適を成したいものだ。つけ心地というものは、戦場での生死を左右するものだから。
「短いお付き合いになりましたけれど、お別れをしに参りますわ」
 瑞科は夜闇へと踏み出していく。
 その足取りは、いつものとおりに迷いなく、ただひたすらにまっすぐであった。