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<東京怪談ノベル(シングル)>


装うは綺麗
 雨が降っていた。
 季節は梅雨。雨が降るだけなら不思議はないのだが――
「――ここまで来ると不思議だろう」
 松本・太一は厚いレンズ越しに辺りを見渡し、ため息をついた。
 一寸先は闇とはよく言うが、彼の一寸先は雨。ショットガンでばらまいたような雨粒の散弾が視界を塞ぎ、1メートル先すらも見せてはくれないのだから。
 太一は胸の前に抱え込んだB4版の封筒を背中へ隠し、雨から遠ざける。中身は彼が務める会社の取引先から受け取った資料だ。
 もちろんデータは会社へ送信してもらったのだが、こちらの紙資料には向こうの担当者が注意書きを多数書き込んでくれている。業務的にも誠意的にも、ぞんざいには扱えない。
「困ったな」
 雨の兆しを感じ、張り出した屋根の下へ逃込むまではよかった。しかし、この後どうすればいいものか。会社には連絡を入れてあるが、とにかく資料だけは持ち帰らなければ。
 などと考え込んでいる間にも、雨はさらに激しさを増し、太一を濡らしにかかる。たった1分で彼の前面はびしょびしょに濡れそぼり、ワイシャツが肌に貼りついて大変なことになり始めている。こんなことならクールビズじゃなく、せめてジャケットを羽織ってくるべきだった……
「あら、いらっしゃいませ――と言ったら失礼ですわね」
 と。
 わずかに押し開けられた木枠のシックなドアの隙間から投げられたアルトボイスと、奥からのぞく目尻の切れ上がった二重の黒瞳。
 こういうの、鳳眼っていうんだっけ? 太一はあいまいに会釈を返した。
「どうも。あ、屋根、勝手にお借りしてます。すみません……」
 何度も頭を下げる。実年齢48歳、しかし見た目はずいぶんと若く見える。ときには「若造」呼ばわりされるほどに。ただ、そのおかげで情けない姿を晒しても見逃してもらえるのはありがたい。代わりに実年齢と立場にそぐう威厳やら物腰、信頼感をまるで失ってしまってはいるのだが。
 それもこれも、彼の内に在る“悪魔”のせいだ。いつもは頭の中でかしましいくせに、今日に限ってはやけに静かで、それもまた不思議ではあった。
 ともあれ。どれほど情けなく見えたものか、喉の奥で笑う「くつくつ」が鳳眼を揺らし、ドアがあと30センチ、押し開けられた。
「いえ。もしよろしければ中へどうぞ。お風邪を召されてはいけませんもの」
 あー、いや。私、不老不死ですし、多分病気とかも縁がないんじゃないかと。はみ出してきそうになる言葉を飲み下し、太一は「はは」、気弱げに笑ってみせた。
「ああ、では、お邪魔します。私はとにかく、濡らしたくない荷物がありますので」

 店内は薄暗い。ところどころに仕込まれた関節照明の橙がなければ、あちらこちらに足をぶつけてしまいそうだ。
「うちはゴシック系の衣装を製作販売しているブティックですので。雰囲気づくりが大事なのですわ」
 ほのかに浮き彫られた姿は、声のとおり女性だ。
 スレンダーなボディラインをそのままに描くタートルネックのセーターにタイトなロングスカートという、シンプルでいてシックな衣装がよく似合っている。
 女性にしては背の高いほうだと思うが、長身の太一からすればずいぶんと小柄だ。
「ご期待に沿えませんでしたかしら? お客様と同じ衣装をまとう齢ではありませんので」
 くつくつ。喉の奥で笑みを鳴らす女から、太一はあわてて視線を引き剥がした。いけない。いつの間にか凝視してしまっていた。
「とりあえずそちらのお服をお脱ぎくださいまし。濡れたまま召していらっしゃってはいけませんわ」
 女は太一の右手をとり、店の奥へと導いた。
「え、あ、いや、その……ああ」
 左手であたふたと封筒を振り回しながら引かれていく太一。
 女性の手を力尽くでもぎ離すわけにはいかないし、なによりやけに力強くて――
「フィッティングを希望されるお客様用のシャワーがございますので、そちらでお体をおあたためくださいまし。お着替えはご用意しておきますわ」
 え? だってこの店、女性専用じゃ……あ、女装の方もいらっしゃる? 声にできないまま、太一は封筒を取り上げられ、マホガニーの扉の奥へ押し込まれてしまった。
「脱衣所、だ」
 やたらと猫足な、年代物らしい金属籠を見下ろし、太一はそれが脱衣籠であることを悟る。ここまで来たらまあ、しかたないか。雨は止まないし、女の好意を振り捨てるのは気持ち的に辛いし、なにより人間らしさを演出して、少しでも“魔女”であることを隠しておく必要もあるし。
 観念した太一は濡れたワイシャツを脱ぎ、細い体を露わした。

 プラスチックならぬ真鍮のシャワーヘッドから噴き出す湯はあたたかく、やたらと肌にまとわりつくように感じられた。
 象みたいにでかい犬になめ回されたらこんな感じになるのかな。
 思わずにおいを嗅いでみるが、嫌な臭いはしない。当然だ。これはただの湯なのだから。
「怪しいのにも妖しいのにもそれなりに慣れたつもりだったけど……なんだろうな、この、つかみどころのない違和感って」
 熱帯雨林でもあるまいし、日本でこんなスコールさながらの雨が降ることが怪しい。
 たまたま軒先を借りた店の主(?)、あらためて姿を思い描いてみると、今ひとつはっきりとした像を結べない。どこかぼやけているというか、なにか薄いというか――この腕をつかんだ力強さだけは確かなものだったが。その儚さと強さは実に妖しい。
「化かされてるんじゃないか、私?」
 内の悪魔は応えない。それどころか、存在すらもにおわせはしない。あいつがいれば、このモヤモヤから抜け出せるだろうに。いや、だからといって呼び出したいわけではけっしてないのだけれども。
 太一が考え込みながらシャワーを浴び終え、脱衣所へ出ると、籠には真っ白なバスタオルが収まっていた。
「服はっていうか、下着もないんですけど!?」
 あわてて水気をぬぐい、タオルを腰に巻いて簡単に落ちないことを確認。太一はシャワールームから頭だけを突き出して。
「あの、すみません。私のその、したぎ」
「ご用意してありますわ。大丈夫。店の扉には鍵をかけておきましたもの。誰も入ってきはしませんわ。さあ、こちらへ」
 ドアは女の手で引き開けられ、太一はまた腕をつかまれていた。先ほどとはちがい、今はほぼ裸体の状態。彼は反射的に抗うが、その力はあえなく抑え込まれ、店内へと引きずり出されてしまう。
「あ、あなたは」
「わたくしが誰かなんてどうでもよろしいことですわ。あなたが誰かもわかりませんのに――いえ、誰かもわからなくなりますのに、ですわね」
 薄闇の内より、幾本もの手が伸び出してきた。手は太一を連れ、次の手へ渡していく。
 その中でタオルを奪われた。
 踏み出した足にドロワーズを通された。
 剥き出しの胴をコルセットで締め上げられ、ガーターを巻かれた。
「靴下はシルクを。この方にはサイドタックのワンピースが映えるでしょうか。バニエをお持ちして」
 女は鳳眼をすがめ、薄赤い唇を笑みの形に撓めて手に指示を出していく。
「あの、私、男で」
 胴を締め上げられ、大きく息を吸い込むことのできない太一は、それでも必死でかすれた声を紡ぐ。冗談じゃない。いい歳のおっさんが、こんなコスプレをさせられたいわけがない!
 が。女は笑みを大げさに傾げ。
「殿方?」
 細かな装飾のある銀の枠にはめこまれた姿見を指して。
「わたくしには、そうは見えませんけれど、あなたはどうですの?」
 太一は混乱する頭を思考でさらにかき回す。
 男に見えない? 私が? いや、悪魔のせいで「童顔」を装うはめにはなっているが、女顔だと言われたことなどない。でも。
 ひとつ不可思議なことがあるのだ。先ほどまで、太一の胸の高さにあったはずの女の鳳眼が、なぜか今は見上げる高さにあって。
 女の背がいきなり伸びた? そうだ。そうにちがいない。なぜなら店内にあるものすべてが、先ほどまでより大きくなっているじゃないか。
 怪異に巻き込まれた――早くこの女装を解いて逃げなければ!
 太一はいつの間にか着せられていた黒のワンピースを脱ごうとあちらこちらを探った。なんだこの服!? ボタンも留め具も紐もない!
「あら、思ったよりも細身でいらっしゃいますのね? コルセットをもう少し締めて差し上げて」
 どこから潜り込んできたものか、服の内に現われた手が、太一の胴を固めているコルセットの紐をさらにきつく引き絞った。
 横隔膜が押し上げられる。
 息が、詰まる。
 そのはずなのに、どれほど絞り上げられても太一の内臓は押し破れることなく、肋骨がへし折れることもなかった。まるでそう、最初から大きくくびれてでもいたかのようにだ。
「装うことは化けることに等しいものですわ」
 長身を折り曲げ、女が太一の耳元でささやいた。
「そして肉体は、魂魄の有り様によってその形を変えたがるもの。殿方の魂魄が婦女に装えば当然、肉もまたそれに準じようとするものですわ」
 そして太一の顎を指先で捕らえ、ボンネットをかぶせた上で、鏡へ向かせた。
「え?」

 そこに映ったものは太一ならず。

 ゴシックドレスをまとったひとりの少女の姿。

 小振りな胸はジャボのひだでふくよかに飾られ、コルセットで矯正されて大きくくびれた胴は、大きくふくらんだスカートと対比を描いて未成熟の艶やかさをいや増す。
「申し上げましたわね? 魂魄の装いは肉を準じさせると」
 応えることのできない太一を前に、女は笑みを深めた。
「わたくしは衣装屋ですもの。みなさまを綺麗に装わせさせていただくことが仕事ですわ」
 太一は呆然と鏡へ見入る。
 悪魔は未だなにも言わず、彼――いや彼女はただただ独り途方に暮れるよりないのだった。