<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


また明日


 ――例えば、気が付けばいつも視線の先にいるような、そんな人

 春になったとは言え、早朝は冷える。さすがに吐く息は白くないな、そう思いながら彼は道場への道を急いでいた。
――陽射しを受けてきらりと光るのは。ああ、彼女だ、と羽月は目を細めた。緩やかなウェーブの髪を揺らしながらゆっくりと歩いている。立ち止まって嬉しげに見上げた先に白い花があった。微笑みながら手を伸ばす少女を羽月はただ、見つめる。
「今年も綺麗に咲きましたね、よかった。咲くのが遅くて心配していたの」
花に話し掛けるような口調に微笑ましさを感じて、羽月は頬を緩めた。
 ふとリラが視線をずらした――視線に気付かれたのだろうか。
「おはようございます。藤野君」
「おはよう、リラさん」
 軽く頭を下げ羽月は何事もなかったようにリラの横を通り過ぎる――もしかして聞かれてしまったのだろうか、と思ったのだが、気のせいだったようだ。
気が付かれなくて良かったわ、とリラは思う。花に話し掛けるなんて子供っぽいと思われそうだ。歩調を変えないまま遠ざかる背中を道場へ消えるまで見送ってから、リラもまた母屋へと向かった。そろそろ朝食の時間だった。


 二人の関係は? そう問われると言葉に迷う。幼友達というのには多分少し違う。多分クラスメイトとか道場主の娘と門下生と言う辺りだろうか。子供の頃から知ってはいても二人は親しいとは言い難い。幼馴染が幼い頃から知る人、とすればその辺りだろうか。友達とは言えない。でも知り合い程遠くもない。そんな関係。ただそれだけの筈なのに。
 なのに、何故だろう。ふと気付くと視線の先にあの人がいる。


 SHR間近になっても彼は現れない。遅刻なんて珍しいな、とリラは窓から校庭を眺めながら思った。いつもだったらとうに校庭を横切っている頃なのに。
「……あ」
いつもよりやや早足なのはきっと時間が迫っているせいだろう。この分なら予鈴に間に合いそうだ、よかった、とリラは微笑んだ。
「今日の調理実習、和菓子なんだって」
「えー、なんで? 同じお菓子ならクッキーの方が絶対良いよねえ」
 前の席のクラスメイト達がそんな事を不満げに話している。そうかな、とリラは思う。リラはその外見とは裏腹に中身は祖父母に育てられた純粋な日本人同然だ。むしろ、核家族の日本人よりずっと日本文化に馴染んでいる。だから振り返って同意を求められて首を横に振った。
「和菓子って結構ヘルシーですし、たまには悪くないんじゃないかしら」
「そうかなあ、あ、でも和菓子ってなんだか手がかかってそうだよね。プレゼントしたら家庭的な子って思われちゃうかも!」
「あ、それいいなあ。誰にあげる?」
 誰に、と言われて少年の顔が思い浮かんだ。リラはその考えを慌てて否定する。いきなり渡されたって、彼だって驚くに違いない。そもそも何故一番最初に思い浮かぶのが彼なんだろう。
「おはよう」
 律儀に教室に入る前に挨拶をした少年の声にリラはぴくりと肩を震わせた。想像していた相手の声が突然聞こえたら誰だって驚く筈だ。勿論その声は彼女に向けられたものじゃないけれど、それでもタイミングが良すぎた。反応したのに無視するのも変な気がしてリラはそっと羽月に向かって頭を下げた。おはようという言葉は出さなかったけれど、羽月もまた視線を合わせてそっと礼をする。
何事もなかったように視線が離れて。リラはそっと息をつく。
 リラの席は羽月の席からは少し離れていて、少しだけ後ろにある。背筋を伸ばして席についた少年が鞄の中身を机の引出しに移していくのをリラは眺めていた。
 あ、寝癖……じゃなくて、防具のせいしら?
後ろ髪の一房のはねに気が付いてリラは目を細めた。彼の事だ、きっと気付かなかったのだろう。そう思うと発見できた自分が何故だか嬉しい。
「遅かったな、どうしたんだ?」
「ああ。通学路で今朝から工事が始まっていてね。遠回りをする事になった」
 ああ、それでなのね。近寄ってきたクラスメイトに真面目に答える声に納得しながら視線をずらす。――担任がちょうど教室に入って来る所だった。


 調理実習は昼休み前にする事が多い。食事を作った場合そのままそれを昼食として食べる事が出来るからだ。しかし、対象がデザートに近い扱いのおかきと羊羹となれば――。
「誰か食べる人いるー?」
「俺もいる!」
「あ、俺も俺も!」
 和菓子が嫌いだったりダイエットを志す女生徒から体育で余計に腹が減っている男子生徒への配付品になったりもする。
 羽月は現金なクラスメイト達のやりとりを眺めながら弁当を開いた。あれ位の運動量で情けない、というのが本音だ。朝早くから運動している彼からすればこれ位大した運動量ではなかった。
 ――だから食べる気なんてなかったんだ。
「あの……私の分も食べてくださいね」
 リラはおかきと羊羹の入った箱をそっと教団の上に置いた。
「あ、私お茶を買ってきますけど、他にいる方は?」
すぐに彼女と親しい――或いはあまり親しくない――面々から注文の声があがる。調子に乗った図々しいリクエストには他のクラスメイトからの却下が降りるが、それでもリラは片手に余る注文を数えながら購買部へと歩いていった。
 かたんと椅子が音を立てる。早速羊羹に手を伸ばした男子生徒の横に立って羽月はおかきを一つ摘み上げた。
口に放り込んだ途端に考えていたのと正反対の味が広がってむせる。とんとん胸を叩いて咳き込む羽月に自然とクラスメイトの注目が集まった。
「……甘い」
 注目のプレッシャーに負けた訳ではないが、小さく唸る。
「え? 塩味の筈……あ、ホント、甘い」
 つられて手を伸ばした女生徒が呟く。
「でもまあ元から甘いと思ってれば良い感じかも」
「そうだな。塩味を連想していたので驚いた」
 そう言いながら、もう一つ。やはり甘い。だが最初から甘いと思っていれば平気なものだ。おかき、と言えるかはさておく事になるかもしれないが。
そんな羽月をクラスメイトが面白そうに見遣った。
「珍しいな、お前がこう言うのに手を出すなんて」
「そうだろうか?」
 生真面目に問い返す羽月にクラスメイトはおう、と請合った。


「起立、礼」
 ちゃくせーきと最後だけ間延びした号令に従って席につく。教師は教壇で頷くとちらりと黒板を見遣った。
「今日は……」
この老教師は当てる法則が決まっていてまず日付の出席番号の生徒、それから下一桁が同じ生徒。最後にその左右の生徒が当てられる。
 ――だから、今日は。
「藤野。78ページ。最初から」
「はい」
 羽月はかたんと音を立てて立ち上がった。リラは慌てて同じページを開く。今日は新しい作品に移る日だった。
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて……」
読み始めた声は朗々としていて良く通る。それから心地いい低さ。リラは目を閉じる。こうすると静かだと思った教室が案外雑音に満ちている事が判る。その中で淀みなく羽月が文章を読み上げる。
(台詞があるような作品じゃなくて良かった。それにこの作品)
 彼が読み上げる作品は少し古い言葉で書かれていて、その古風さが羽月によく似合っていた。別に彼がいとなんて言う所を聞いた事がある訳もないけれど、他の生徒が読むよりは余程堂にいっているとリラは思う。
綺麗な声が綺麗な言葉を淡々と読み上げる。その声が好きだ。
だから今日国語があってよかった。そんな事をつらつら思いながらリラは彼の声が読み上げる言葉を追う――目を閉じたままで。
「そこまで。サファト、次」
 え、と思う。当たる日ではない筈なのに。
 目を閉じていたから居眠りを疑われたのだろうか。確かに昼下がりの窓際の席は居眠りしたくなるほど暖かいけれど――今日はそんなもったいない事出来る訳ない。
だから慌てる事もなく、リラははいと返事をしてから立ち上がった
「嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でてより、早や二十日あまりを経ぬ」
 彼の直後に読むのは少しプレッシャーだけど嬉しいかもしれない、と思う静かな声が教室に響き始めた。


 授業が終れば皆それぞれ足早に教室を後にする。目的地は様々だ、例えばリラの場合は合唱部に急ぐ事になる。
長引いた授業に焦りながら荷物をまとめて立ち上がると同じように羽月も立ち上がった所だった。ドアの手前でちょうど並ぶ。
「あ、あの」
 躊躇ってから小さく呼びかけてみる。気が付かなかったらそれで良いと思いながらの声に羽月は横に並んだ少女を見下ろす。自分ではないのではないかと思って振り向いた筈が二人の視線が交わった。
「さようなら、また明日、ね」
「……ああ。また明日」
それだけではそっけない気がして言葉を探す。
「合唱部か?」
「ええ」
「そうか。……頑張れ」
他に言い様がなくて選んだ言葉は変だっただろうか。そう思い様子を伺うと嬉しそうな笑顔が大きく頷いた。ありがとうと言う言葉に内心ほっとする。そのまま階段までさしたる会話もなく並んで歩く。
「それじゃ」
「ええ。藤野君は道場ですよね。頑張ってください」
「ありがとう」
「いえ。……また明日」
軽く頭を下げてからリラは足早に音楽室のある特別棟へと去って行った。羽月は昇降口で靴を履き替えると特別棟のある方へと足を向ける。校庭では気の早い連中が既に部活動を始めていたのでそれを避ける為だ。目的はもう一つ。
 ピアノの音がする。ブラスバンド部が音合わせで鳴らす楽器に比べるとささやかだが、開け放たれた窓からピアノの音がする。そして――。
「童は見たり 野中のばら」
あ、と思う。リラの声だ。一人で歌っている訳ではない筈なのに、その声は透き通っていて彼の耳に確かな存在感を示す。才能があると言う事だろうか、そんな事を思った。綺麗な声だからではなく、リラの声だから耳に優しいのだと気付く事なく、彼は声の降る校庭を歩調を変えずに歩く。
「また明日、か」
 リラと交わした会話を思い出しながら――。


fin.