<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


貴方に


 違和感があるものは一際目をひいてその存在を主張する。
科学系の硬派な雑誌の中にぽつねんと佇んだ少女向け占い雑誌に目を落として羽月はしばし足を止めた。
――どうしてまたこんな本がこんな所に。
天文関係の雑誌と仲良く並んだそれは一冊だけで多分誰かが置き忘れたのだろうと言う事は想像に硬くないのだが、違和感がある事には何ら変わりはない。
羽月は目当ての本を既に手にしていてレジへ向かう途中だったので、おそらくはレジの近くにあるであろうこの手合いの雑誌のコーナーに紛れさせておく事も可能だ。しかし少女漫画じみたきらきらした表紙を手にするには些かの抵抗があった。
戻すかそのままにしておくか。決断が付くまでなんとなく見つめそうになったその時、羽月はその表紙に躍る文字に気が付いた。
 ――5月1日はミュゲの日! 幸せを贈っちゃおう!
 5月1日と幸せの関係がまるで判らない。そもそもミュゲの日とは何か知らないのだから当然なのだが、幸せを贈ると言うフレーズはなんだか気になった。
かと言って雑誌を確認する気にはなれず、羽月はしばしの躊躇いの後書店を後にした。


 雲一つ無い空が青々とした木の葉に縁取られている。
窓の桟に肘を置いてリラは空をぼんやりと眺めていた。静かだ。聞こえるのは鳥の鳴き声と風のそよぐ音――それから多分表の通りを走り去る車の音。
「人がいないだけでこんなに静かになるのね……」
 今日は道場は休みで、だから休日だというのにこの家には自分と祖父母しかいない。普段の休日と比べるとあまりにも静かだ――むしろ静か過ぎて。
「淋しい、な」
 ぽつりと唇から言葉が漏れた。ああそうか私は淋しかったんだ、とリラは改めて納得する。だって今日は。
 ――だって今日は?
 明日には会える筈の人の顔が思い浮かんでリラは頭を振る。
「おや、どうしたんだい?」
「ううん、何でも……鈴蘭?」
 背中からかけられた声にリラは振り向いて目を丸くした。祖母が手にしているのは鈴蘭だった。
「綺麗……。でも、どうして?」
「おや、リラは知らなかったのかね。五月の第一日曜日はね、フランスではミュゲの日と呼ぶのよ」
「ミュゲの日?」
「そう。今日、鈴蘭の花を贈られた人は幸せになれるそうだよ」
 まあ、とリラは口元に手をあてた。
「素敵な日があるのね。……それはおじいちゃんに?」
 祖母は目を細めて頷くといそいそと祖父の下へと歩き去った。


 家人に変に思われたかもしれない。だが、気になっていたミュゲの日について家人に聞いた羽月はその足でまた繁華街へと向かっているのだった。辛うじて本だけは置いてきたのだが、何しに帰ってきたのやらと思われている事だろう。
「らしくもない……」
 誰に言う訳でもなく一人ごちる。実の所一人で花屋に入る事など普段はしない。だから花屋の場所もろくに知らなくて、羽月は繁華街へと取って返す羽目になった。いくつもの花篭を店頭に並べている店は実の所彼女にぴったりの物だった。
 ――彼女。そう、羽月はどういう訳だかミュゲの日の話を聞いてからとある女性の事が頭から離れなくなっていた。道場主の娘、或いはクラスメイト、幼馴染。そのどれもが正解で、でも本当にそれだけかと問われると戸惑いそうになるその人。
 何故彼女にあげたいのかと問う者がいれば羽月は返答に窮した事だろう。
 例えば顔見知りだとか――他にも一杯いるし、もっと親しい人間だっている。
 例えばあの歌声が好きだからとか――歌声をよく聞いています等如何して言えようか。
 例えばいつもお世話になっている道場の娘だからとか――世話になってるのは師範の方にだろう。
いくつもの答えをその度に却下して、羽月はため息を付く。結局どれも答えになっていないのだ。はっきりしているのは贈りたいと言う事だけだ。
 つらつらと考え続けている間も歩みは止まる事なく、羽月は件の花屋に辿り着いた。
 花屋、というよりはフラワーショップと言いたくなるような店構えだ。くるくると働く店員に声をかけると手際よく鈴蘭を束ねていく。
「こんな感じでいかがですか?」
こんもりとしたブーケ型にまとめられた鈴蘭を見せられて羽月は一つ頷く。店員は奥のカウンターを示した。
「ラッピングはどうなさいますか?」
「え?」
 ペーパーで包み込んでリボンはこういう形でと次々に言い募られても羽月には良く判らない。しばらく考えてからリボンの一つに目を留めた。薄い紫に銀の縁取りがしてあるリボンは幅が様々に揃っている。
「あの色でお願いします。他はよく判らないのでお任せ致します」
少々お待ちくださいと言い置いてカウンターへと向かった店員を見送り、羽月は同じ色の薄いペーパーが出されるのを見て安堵した。あの言い方でよかったらしい。
「彼女のお好きな色なんですか?」
「……は?」
「違うんですか?」
 何故渡す相手が女性だとわかったのだろう。
羽月の沈黙をどう受け取ったのか出来上がった花束を渡す時に店員はにっこりと微笑んだ。
「受け取ってもらえると良いですね、応援してます」
 意味不明な言葉に羽月はそれでも真面目に頷いた。


 祖母の背中を見送るとリラは椅子の背もたれにもたれて、そっと天井を見上げた。
「ミュゲの日、か……」
 鈴蘭を贈るとその相手が幸せになれるなんて素敵な話だ。例えば自分があげるならどんな風にするだろう。
 鈴蘭を少なめにまとめて青いリボンで結ぶとか、可愛いパステルカラーのペーパーも可愛いかもしれない。
「あ。ライラックの色のリボンも素敵かもしれません」
 薄い紫でそうっと包んだ可憐な花のブーケを思い浮かべてリラは楽しげな笑みを浮かべる。どんな花束にするかあれこれ考えているとはたとその事に気が付いた。
「ああ、でもどんなに綺麗な花束でも貰う人がいないなら味気ないわ……」
 誰が良いだろう、そう思って一番最初に脳裏によぎったのは物静かな少年の姿だった。
「貰ってくれるかしら? ああでもミュゲの事なんて知らないかもしれないし……」
 幸せを贈るのだと伝えたら喜んでくれるだろうか。
 きっと静かな表情のまま僅かに笑って受け取ってくれるだろう。
 そこまで考えてリラははたと我に返った。あの人以外の人にあげるという選択肢が最初から存在していなかった。それがどう言う意味なのかも気付かず、リラはそっと恥じ入って目を伏せた。
「私ったら……。幸せの贈物なら一人だけになんていけませんよね」
 ならば何故リラの祖母はリラにも分けてくれなかったのか、そういう事には気付かずに、リラは頬に手をあてた。心なしか熱いような気がする。
「そうだ。こうしてはいられません。今日のうちに渡さなくちゃ!」
 早速リラは鈴蘭を買う為に立ち上がった。


 歩き慣れた筈の道が何故だか今日ばかりはどこか居心地が悪い。花束を持っているせいだろうか――否、持っているせいだけではない。
勢いで買ってしまったはいいが、なんと言って渡せばよいのやらさっぱり判らない。そして、花とリラはともかく、花と自分は似つかわしくない取り合わせだ。そう思うからこそ花束を持っている事に多少の気恥ずかしさを感じもする。
 浮き立つ気持ちに混乱を僅かに混ぜた気分のまま羽月は黙々と足を進める。角を曲がればその先に道場がある。
 緑の中に赤いツツジがこれでもかとばかりに咲いている。低い生垣のそこここには白い花も見える。後少しだと思うと緊張が高まった気がする。
 しかし、何故こうも緊張するのだろうか。
 花を渡すと言う事がこれほど気恥ずかしいなど思いもしなかった。そう思う羽月の視線の先できらりと何かが輝いた。あ、と思ってみれば、リラがゆっくりとこちらに歩いてきているのが見てとれた。足を速めると生垣が切れた所でリラがこちらに気付き目を丸くしている。
「藤野君……?」
「ああ」
リラの声に頷いてから羽月は言葉を探す。
「よかった。危うく行き違いになる所だった」
「……私に会いにいらしたんですか?」
 リラが首を傾げると羽月は頷いた。どうしてと思いつつも何故だか嬉しくて頬が緩む。リラは口元を隠すようにそっと手をあてた。
「……その。今日は何の日かご存知か?」
「え?」
 いきなり何だろうと思いかけてリラは羽月の手にある花束に気が付いた。真白い鈴蘭とライラック色のリボン。もしかして、と僅かな期待を胸に抱きながらリラは躊躇いがちに口を開く。
「ミュゲの日、ですよね……」
 違いますかとは問えなくてそっと目を伏せると、その視線の先に羽月の手が差し出された――その手には花束。腕を辿るように視線を上げたリラから今度は羽月が視線を反らす。
「……こういう事の勝手や作法はよく判らないのだが」
 よかったら貰ってくれ。
 それだけしか言えない。気の効いた言葉を見つけるのは存外難しいと思う羽月の掌に小さな白い手がそっと触れた。
「はい……」
 胸が一杯だと思う。他にもっと言いたい事がある筈なのに、リラにはそれが精一杯だった。頬を染めて抑えきれない喜びを笑顔にして。恥ずかしさに目を伏せたくなったがそれだけはしない――嬉しい気持ちをきちんと言葉で伝えられたらもっと素敵なのに。その言葉がすぐには出てこない。
 リラの応えに羽月は反らしていた視線をゆっくりと彼女に戻した。目があうと少女は笑みを深くする。漸く伝えられる言葉を見つけたのだ。
「ありがとう……藤野君」
 とても嬉しいです。
 幸せそうな笑顔で告げられた言葉は小さかったがそれでも羽月の耳に届いた。迷惑ではないのだと安堵が広がる――訪れたのは安堵ともう一つ。
ああ、と少年は思う。漸く判った。私は彼女のこの笑顔が見たかったのだ。
「こちらこそ受け取って貰えて」
 最後の言葉ばかりは幾許かの勇気が必要だった。
「嬉しい」
 ――リラの笑顔が一層輝いた。


 ミュゲの日には鈴蘭を贈ると幸せになれるという、しかし鈴蘭を贈られた側にも訪れるものはあるのかもしれない。


fin.