<東京怪談ノベル(シングル)>


平和を守る剣



 ふわり、と開いた窓から風が中へと入り込みカーテンを揺らす。
 その近くのソファでうたた寝をしていた女性の光り輝く髪をさらりと撫で、その長い髪が肘掛けから滑り落ちた。
 柔らかな日差しが眠気を誘ったのだろうか。
 そのソファで眠るのは剣皇寺・獅子吼。
 都心に近い場所にある瀟洒なマンションの見晴らしの良い部屋に住んでいた。
 獅子吼もその場所を気に入っており、窓から見る景色も申し分ないと思っている。
 そんな場所でのんびりと暮らしてはいたが、獅子吼はたまに5年前の事を思い出す。
 それは夢の中でも、現実でも忘れられるものではない。
 安らかな寝息を立てている獅子吼だったが、今日の夢も簡単には獅子吼を離してはくれない様だった。
 過去の幻影が夢の中で実体化し、獅子吼を襲う。
 長い物語が夢の中で紡がれていた。



 突如として現れた異様なもののせいで世界が本来あるべき姿を変え、そして人々を変えていった。
 無気力に陥る人間を眺めるのは正直辛い。
 獅子吼はそれを悲しく思い、それをどうにか打破できないものかと一晩中そのことについて考えた事もあった。
 しかし一人きりでどうにかなるものではない。
 あーぁ、と呟き獅子吼はソファに身を投げた。
 沈み込む感触。
 こうしてる間にもまた一人、また一人と無気力になり、あっという間に過ぎ去る時を何かを情熱をもってやり遂げる事もなく過ごしていくのだろう。なんて勿体ないのだろう、と獅子吼は思う。何か目標になる事もなく、一生懸命に、そして必死になる事もなく過ごしていく事はつまらない。ただ時間が過ぎ去るのを待つだけということは獅子吼には耐えられなかった。
 足掻いて足掻き続けて、どんな小さな事でも自分の目標を達する事が出来たなら、それは素晴らしい事だ。
 だから今この時も、獅子吼は一人きりになっても足掻き続けてやろうと思っていた。
 それが自分の生きている証でもあるからと。

 そこまで考えた獅子吼は、よしっ、と気合い新たに立ち上がる。
 その時、獅子吼の元へ兄がやってきた。
 なんの疑いもなく獅子吼が兄に笑みを向けた瞬間、銀色の煌めきが獅子吼を襲った。
 次の瞬間、左腕に走る壮絶なる痛み。

「ぐっ‥‥ぁ‥‥‥!!!」

 迸る血潮は左腕を押さえる獅子吼の手を濡らしていく。痛みの為に力が抜け、獅子吼は片膝をついた。
 止まる事のない鮮血は斬り落とされた左腕から流れ続けている。
 ゆっくりと床が血に染まっていく。自分の流した血溜まりの中に座り込む獅子吼。
 そして、その血が流れて目の前に転がっている自分の腕を更に血に染めていく。
 それを見つめ、獅子吼は目の前に佇む兄を見上げた。

「‥‥何故‥‥っ!?」

 血臭の中、兄に向けられる問いかけ。しかし、兄の答えを聞く前に獅子吼は、兄の纏う雰囲気が何時もと違う事に気付いた。以前は感じられなかった、兄が身に纏う神々しい雰囲気が全てを物語っている。

「もしかして、今流行りの聖鍵戦士とやらになっちゃった、のかな?」

 獅子吼がそう尋ねてみても兄に反応はない。
 何も答えず、実の妹の腕を斬り落とし、ただそれを眺めている兄の瞳からは感情を読み取る事が出来ない。
 しかしそれを気にした様子もなく、獅子吼は淡々と続けた。
 もしかしたら、という思いが何処かに初めからあったからかもしれない。
 人々が無気力になっていく中、自分には全くその傾向が訪れなかった。それを打破してやりたいと思う気持ちがあった。
 兄が気付いた様に、獅子吼もまた気付いていたのかもしれなかった。

「で、実の妹の腕を切り落としたのは、私が魔皇だからとでも?」

 今度の問いに兄は頷き反応を示す。

「魔に属する前に、人としての死を与える」
「なるほどね‥‥‥」

 自らの手で葬る事が兄としてのせめてもの優しさとでも言うのだろうか。
 兄妹で敵対しなければならないことは、悲劇という簡単な一言で区切られるものではない。
 同じ血を分けたもの同士が、神と魔に分かれたのはどういう訳だろう。
 このことにどんな意味があるのか、そして二人の未来は混沌に満ちている。

 その時、ぴたり、と獅子吼の左腕から床に滴っていた血が止まった。
 獅子吼を苛んでいた激痛も嘘の様に消える。
 身体に起きた変化に獅子吼は気付いた。
 体中に漲る力。
 自分がまるで生まれ変わったかの様にも思えた。

「でも、ちょっと遅かったみたいだよ」

 残念だったね、と言いたげな表情で獅子吼は告げる。
 服の下で見る事は出来なかったが、獅子吼の左肩口に紋章が浮き出ていた。魔皇としての覚醒で全ての身体能力が上がる。信じられない程の回復力を見せ、あれだけ失血したというのに目眩を起こす事もない。
 ゆっくりと獅子吼が立ち上がり兄と向かい合う。
 兄の目がすっと細められたのが合図だった。
 再び兄の刃が獅子吼を襲う。
 しかし無くなった左腕から漆黒の剣が現れ、兄の刃を弾いた。召還された魔皇殻である。
 利き腕に新たな武器を携えた獅子吼は、凄まじい攻防戦を繰り広げた。
 獅子吼も並はずれた剣術を持っていたが、兄もそうだった。
 獅子吼が間合いに入った所を崩され、兄が懐に入ってくるのをすんでの所で交わす。

 何度目だったろうか。
 振り下ろされた刃を受け止めた獅子吼はそのまま押し切られ、顔に傷を負う。眉間から左頬まで達した傷から血が流れるがそれは直ぐに止まり傷も塞がる。
 獅子吼が力任せにその刃を弾くと、兄の刃に亀裂が入った。しかし獅子吼の漆黒の剣には傷一つ無い。
 ちっ、と兄はその使い物にならなくなった刃を捨てた。

「もう終わり?」

 そう告げた獅子吼に兄は言う。

「魔皇と渡り合うには装備に不足がある。この借りは返す‥‥‥」

 そう言って部屋を出て行った兄はそのまま姿を消した。
 その時の事を獅子吼は今でも覚えている。
 一生忘れる事は無いだろう。




 さらり、と風が獅子吼の髪を擽った。
 それが誰かに頭を撫でられた記憶と重なる。
 ゆっくりと眠りから覚め、上半身を起こした獅子吼はソファに寄りかかると、くしゃり、と髪を掻き上げた。
 夢を見ていた。
 忘れもしない日の事を。
 始まりの日の事を。

「あれからもう5年、かな‥‥」

 左袖を揺らし、獅子吼は窓の外へと視線を動かす。
 明るく温かかった日差しは夕焼けへと姿を変えていたが、橙色の光が街を染め上げているのが美しく獅子吼は、ふっ、と表情を和らげた。
 この眺めを守りたいと思う。
 戦いは一応の終わりを見せたが、平和な世にはまだほど遠い。
 世の中には様々な課題が残されていた。

 立ち上がった獅子吼は開いた窓へと近づく。

「もうしばらく、この左腕は手放せないかな」

 呟いた獅子吼の左袖から見えるのは、漆黒の剣先。
 それは平和を守る剣となる。
 夕焼けに沈む町並みを眺め、獅子吼は微笑む。
 そして冷たくなった夜風が吹き込む窓をそっと閉じたのだった。