<東京怪談ノベル(シングル)>


いま此処にいない貴方を想う

 魔と人と神の住まう都市、新東京・ビルシャス。
 エントランスも広く取られた高級マンションが、鋼とその主の住処だ。
 鋼は郵便受けから封筒を取り出し、差し出し人を確認しながらエレベーターに乗り込んだ。
 加速を意識させない上品さで、エレベーターは一気に上階まで上昇する。
 封筒の差出人は、いずれも主の上得意客から。
 通信手段の中心がメールなどの電子媒体になっても、こうして書面での文書を重んじる風潮がいまだにあると鋼は感じている。
 それは鋼の主が元・弁護士で、今は人・神・魔、異種族間の問題解決で糧を得る交渉人をしているせいなのかもしれないが。
 人というものは、目に見えるものを信じる傾向があるゆえ。
 エレベーターの外に浮かぶルチルが、時折青い結晶表面に光を反射する。
 それも今では見慣れた光景だ。
 ルチルによる魔皇・逢魔のゆるやかな魔力の抑制は、引き換えにビルシャスで暮らす者に安息をもたらした。
 だがそれを不自由だと鋼が感じる事はない。
 逢魔として、たった一人の魔皇・眞人殿の傍にいられる以上の望みがござろうか?


 事務所スペースの掃除を済ませ、奥にある主の部屋のドアを開けた鋼は細く息を吐いた。
「これは……」
 主の私室に繋がるバスルームまで、点々とシャツやジャケットが落ちている。
 主は順に服を脱ぎながらバスルームを目指したようだ。
 既にいつもの事ながら、鋼は主のこういった奔放さには呆れてしまう。
 常日頃、主はブランド物で身を包んだ大人の男性であるイメージが強いのだが、実際は案外だらしなく子供っぽいのだ。
『拙者が来るまで、その……身の回りの事はどうなさっておいででござった!?』
 魔皇と逢魔として出会ってから、生活感のない主の住居に驚いた鋼が言った。
『そんなの金でなんとかなる』
 さらりと嫌味な言葉を言い放ち、主はなめらかな革のソファに身を沈めた。
『食事は外で済ませれば良いし、服はクリーニングに出せば良い。
それに家政婦一人くらい雇えるさ』
 主は灰色の瞳で、立ち尽くす鋼を不敵に見上げながら笑う。
『でも、これからは鋼が俺の傍にいてくれるんだよな?』
『も、もちろんでござる!』
 思い返せばてい良く家事を押し付けられているのだが、その時鋼は主に望まれた喜びで一杯だった。
 あまり多く望みすぎると、ばちがあたるでござるな。
 苦笑して拾い上げたシャツから、ふと主の香りが立ち上るのに気付いた。
 主の愛用しているトワレは野生蘭のように攻撃的な甘さが初めに香り、次いでそれは熟れた果実の馥郁さに変わる。
 脱ぎ捨てられてから時間の経ったシャツからは、穏やかに漂う残り香と主の香りが混ざり合い、昨夜飲んでいたコニャックの華やかな香りがかすかにした。
 それを手にした鋼は、この場所にいないはずの主の存在を強く意識する。
 眞人殿は今どこに居られるのでござろう……。
 表向き、主の秘書として鋼は暮らしている。
 把握しているスケジュール通りならば今頃は、さるファンタズマと会食中のはずだ。
 神に属するファンタズマの外見は、美しい女性の姿をしている。
 和やかに笑いながら食事を楽しむ主とファンタズマは、仕事の合間にわずかな時間を作り、食事を共にしているカップルに見えなくもないだろう。
 主は非常に女性受けする外見の持ち主なのだ。
 人の集まる場所では自然に注目を集めてしまう。
 それを思うと、鋼の胸中に言いようのない感情がわきあがる。
 何でござるか、この、もやもやする感じは。
 眉間に皺が寄っていく自覚がある。
 ……眞人殿の一番近くにいるのは拙者のはずであろうに。
『何故一緒に付いて行ってはいけないのでござるか!』
 今朝、主が出かける前。
 ボディーガードとしての立場を主張した鋼の鼻先をつまんで、主は言った。
『お前みたいなゴツイ逢魔が横に立ってちゃ、進む話も進まないだろ。
鋼は留守番、だ』
『ゴツイ……』
 密かに気にしていた言葉だけに、ぐさりとそれは鋼の心を突き刺す。
 確かに、拙者には女性のようなたおやかさはござらん。が、しかし……!
『心配しなくてもいいから、鋼は事務所の整理しとけ』
 熱く自分への想いを語りだしそうな気配を感じたのか、主は鋼の髪をくしゃりと一度掴み、愛車ランボルギーニに乗ってしまった。
「眞人殿……」
 手の中のシャツは持ち主の体温も失せ、冷たい。
 魔皇にとして覚醒するまで、主は弁護士をしていた。
 言葉の力だけを纏ってこの世界で生きてきた主は、孤独を感じた事はなかったのだろうか。
 鋼は逆に主に出会ってから、一人でいる寂しさを感じるようになっていた。
 今まではこの世界に必ずいる魔皇の存在を信じていたから、どんな困難も乗り切ってこれた。
 けれど実際傍にいられるようになると、その先も望んでしまう。
 もっと自分を見て欲しい。
 もっと、自分に向き合って欲しい。
 ただ魔皇に仕える逢魔としてではなく、彼を誰より想っている存在として。
 鋼の表情が陰る。
「拙者は欲張りなのでござろうか……」
 何者にも屈しない、強さを秘めた主の瞳。力ある者ゆえの自信に満ちた態度。
 たとえばそれが適当に距離を置いて忘れられるような相手なら、鋼もこんなに悩みはしないのだろう。
 けれど、出会ってしまった魔皇は眞人だった。
 もうあの不敵な微笑みから、鋼は目をそらせない。
 それならば。
 丸めていた背を伸ばし、鋼は自分に向かって明るく言った。
「眞人殿の我侭に付き合えるのは、拙者以外ござらん」
 もしそれが可能なら、主の命が消えゆく最後の瞬間まで傍にいたい。
 たとえ主が想いに応える時が来なくても。
 あの灰色の瞳が自分に向けられる一瞬が続く限り、それだけで鋼は主の傍にいる理由ができるのだから。
 そう思いなおすと、ぼんやりしている時間はない。
 急いで床に散らばる服を拾い集めて、鋼は買い物リストを頭の中で作り始める。
 夕食の買い物も、バスルームの掃除もまだ終っていない。
 新しく覚えた料理で、主にまだ出してない物もある。
 拙者が眞人殿の傍でしていない事が、まだこんなに残っているではござらんか。
 鋼はまだやり終えていない雑事を思い、主の部屋のドアを閉めた。

(終)