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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
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『 a dear friend 』
朝、すずめの朝を詠う唄。
だけどどこかいつもとは違う唄。どうして?
―――なんだかまるで私の感覚にフィルターがかかっているように、すずめの歌声の聞こえ方が違う。
何でだろう?
私は起きようとする。
体に力を込めて、布団の中で丸めていた手足を伸ばして、くぅ〜っと体を寝転がったまま反らした。
う〜ぅ。でもなんだか本当に体の感覚が違う。っていうか、何、この感触?
あれ?
なんだかまるで成長期の時に朝起きて成長した体の感覚にまだ意識が慣れていなくって、転びそうになるような感じ。
まだ成長期?
いいなー。
どうせなら璃生を追い越しちゃいたい。
そしたら璃生を守ってあげる時にも都合がいいもの♪
仰向けからうつ伏せにごろんと転がって、それから枕元に置いた目覚まし時計を見る。
「うぅ〜、起きなくっちゃ」
自分で自分の声を聞いて、ちょっとびっくり。
いつも聞いている私の声とは違う響き。
風邪を引いちゃったのかな?
そしたら璃生が心配するねー。
それはダメ。
………でも私が病気の時の璃生はいつも以上に優しいし、オーナーさんよりも私の事を優先してくれる。それが嬉しい。
それに璃生が作ってくれる卵入りのおかゆ、すごぉ〜〜〜く美味しい♪
璃生にふぅーふぅーしてもらいながら食べさせてもらうのも大好き♪
ごめんね、璃生。
私はふふと笑う。
お腹の虫がぐぅ〜。
食欲はばっちし。どうも風邪じゃないみたい。
………風邪の時でもばっちしお腹が空くけど。
璃生を心配させなくてもいい事にほっと一息、璃生お手製の卵入りおかゆが食べられない事にがっかり。
でも本当になんだか体の感触が違う感じ。うぅ〜〜。
両手を布団について、腕立て伏せするみたいに力をこめる。
ぐぅん。いつもよりも違う感じの力の入り方。ふわりと体が浮く感じは私の体が軽いという訳じゃなくって、なんだか力強い感じ。うん、そう。私が感じてる違和感。いつも朝起きたては気だるい感じなのに、今朝はなんだかばっちし美味しいご飯をたくさん食べた後のような力強さの感じ♪
どうした、私?
「水鈴は起きたらスーパーマンになってた?」
そのままお布団の上に座り込んで、私は寝癖のついた髪を指で梳く。自慢のさらさらな銀色の髪。
毎朝、璃生にブラッシングしてもらうのが大の楽しみ。大切なスキンシップ♪
まずは顔を洗って、歯磨きして、それからお洋服にお着替えして、璃生に髪を弄ってもらう。
それは今日も一緒。
だからお布団から立ち上がる。
だけど、あれ?
私は小首を傾げた。
いつもとは違う風景。
確かにここはいつも私が寝起きする同じ部屋なのに、だけど私が見ている風景はいつもと違う感じ。
同じ部屋なのに、同じじゃない部屋の風景。
どうして?
私は腕を組んで小首を傾げる。
それから視線をふと足下に向けて、そしたらびっくり! だって床がいつもよりも下にあるんだもの!!!
それで天井を振り仰いだら、今度は逆にいつもとは違って、どこか低く感じる天井。
それでようやく気付いたの。
「背が伸びている?」
私はスキップを踏むようにいつもは手が一番上の段までは届かない本棚の前に行った。
背比べ。
にんまり。
いつもとは違う場所に見える本の背表紙。
いつもは見えない本の背表紙が私の目の前、いつも見ている背表紙が私の目線よりも下。
嬉しい。
そう言えば、『うう。本当に私はチビ』って言っていたら、
璃生が、『水鈴、知っている? 身長って21歳ぐらいまでは伸びるんだよ』って言ってくれた。
伸びた。伸びた。身長が。うふふふ。嬉しい。
私の密かな望み。そのうちの一個が叶った。
本当はもう一個ある。叶って欲しい願い。望む願い。
だけどそれは無理。だってこればっかりはもう絶対に変わらないもの。どんなに一生懸命お祈りしても。
橙が零れるような夕暮れ時の空の下。
黄金色の池に向かって平べったい石を投げた。
だけどどうがんばっても石が水面で跳ねるのは3回だけ。
オーナーさんはもっとたくさん跳ねさせられていたのに………。
夕暮れ時の空の下。
流した涙の意味は何だったのだろう?
そんな事を想いながら寝たら、そしたら身長が伸びていた。
神様からのプレゼント?
せめて叶えられるだけの願いを私に与えてくれた???
ちょっぴり残念という気持ちも抱かない訳じゃないけど、でも叶った願いは嬉しい。叶う願いの中では最上級の願い。璃生を守りたい、と願う気持ち。それを守れる体。背が高ければ、それだけもしもの時に璃生の盾になってあげられるから。
私は瞼を閉じて、
小さく深呼吸して、
そして閉じていた瞼を開いて、うんと頷く。
「見てみよう、背の高くなった私」
ちょっぴり大人っぽくなったかな? 璃生よりもお姉さんぽっかたりして♪
すらりと背が高くって、おろした長い髪が似合うスレンダーな美人さん♪ 胸なんかも大きかったりしたら嬉しいな♪
鏡に映るのは私じゃない私。
長身の美人のお姉さんになった私?
だけど鏡に映る私は私じゃない私。
想像していた私じゃない私。
私というあなたは誰?
鏡に映る予想外の私に私は問いかける。
私は鏡の中で笑う。私は笑っていないのに、鏡の中の私は笑う。
にんまり、と。とても楽しそうに悪戯っぽく。
―――ねえ、あなたは誰?
私は鏡の中の私に向かって手を伸ばす。
びたりと鏡という境界線を挟んで手の平を合わせる私たち。
『おはよう、水鈴。俺の事にびっくりした?』
「うん」
私が頷くと、またもうひとりの私、私の事を俺と呼ぶもうひとりの私がにこりと悪戯っぽく笑う。
「あなたはもうひとりの私?」
『そうだよ、水鈴。俺は水樹。男の子になった水鈴』
もうひとりの私、彼は頷く。
私よりも背が高くって、顔もちょっぴりときりっとした子。
私じゃない、私。
男の子になった水鈴の名前は水樹。水鈴のもう一個の名前。
「どうして、水樹? もうひとりの私」
何でこうなったの?
『願ったのは水鈴だろう?』
「私が願ったから?」
絶対に叶う事の無い願いだと想っていたのに。
『ここはそういう場所だから』
「ここ?」
『そう、ここ』
ここ、っていつもと同じ場所でしょう?
違うの?
だけど彼はただ微笑んでいるだけ。
『さあ、男になりたかったんだろう? 今日は花喫茶【せんか】も休みなんだし、璃生とデートしようぜ』
彼はにぃっと笑う。
デート。なんだかいつもとは違う響き。
嬉しい。
「うん…じゃない、おう♪」
そして私………俺は鏡の中に映る女の子の自分ににぃっと微笑んで、部屋を飛び出した。
+++
階段を段抜かしで飛び降りて、それから廊下を走り抜ける。
ばん、とドアを開けて、それからびっくりしたように俺を振り返った璃生に抱きついた。いつもの朝のように。
ふわりと香った香水の匂い。柔らかな璃生の感触。
水鈴の時の俺は璃生よりも背が低いから本当に抱きつく、という感じだけど、でも今は璃生よりも高いから抱きしめる、という感じ。でもやっぱり俺としては抱きつくという感じ。璃生に抱きついて、甘えている♪
いつもはあっ、璃生の香水の香り、いい匂い♪
そんな風に無邪気に嬉しく感じるのに、何故か今は彼女の華奢な体から香る香水の香りに胸が熱くなる。
いつもとは違う感情。とても良い香りがする璃生に対して必要以上に恥かしくなる。反面、もっと強く抱きしめて、璃生の心地良い柔らかみをもっと感じたい。それは昨日までの女の子だった俺が知らない感情。
愛おしさにとてもよく似ているけど、決してその感情はそれとは違う。わかる。断言できる。
璃生を抱きしめる両腕に感じる華奢なのに柔らかな体の感触。本当に胸が熱くなる。心臓の脈打つスピードが速い。口から飛び出しそう。
何だろう? 違う。違う、感情。昨日までの女の子だった俺とは違う感情。感覚。恥かしさ。
昨日まではただ璃生に抱きつくのは愛情表現。甘えたい。一緒にいたい。スキンシップ。伝えたい。私はこんなにも璃生が大好きなんだよ♪ って。たぶんきっとそれは璃生の愛犬のなずなと一緒。本当にただただ璃生に甘えたくって、抱きついている。ぎゅーっと璃生を力いっぱい抱きしめて、全身で璃生を感じて、甘えたい。
それから璃生にもぎゅっと抱きしめてもらって、頭を撫でてもらって、指で髪を梳いてもらって、優しく微笑みかけてもらいたい。
甘い砂糖の結晶で出来上がっているような砂糖菓子のような甘い甘い純粋無垢な感情。
そう。なずなが大好きな飼い主に甘えるのにも似ていると想うけど、大好きなお母さんやお姉ちゃんに甘えるのにも似ていると想う。
璃生は大切な人。温かな、優しい人。本当に本当に本当に大好きな人。
俺にとって神様にも等しい人。
絶対に嫌われたくなくって、大好きで守りたい人。
そういう基本的な心の根底にある感情は変わらない。
嫌われたくない。守りたい。
だけどそれと同じくらいに想ってしまう。力いっぱいに璃生をぎゅっと抱きしめて、誰にも渡さないように、見せないように独占してしまいたいって。
璃生を抱きしめる事は、犬のなずながじゃれつくようにただ目一杯の愛情表現なのに、でもどこか何故か、璃生を抱きしめる俺のこの胸にある感情は、砂糖菓子のような純粋で清らかなだけの甘い感触なんじゃなくって、身を焦がすような熱い感情が…そこにあるんだ。
璃生、好きだよ………。
女の子の俺も、
男の子の私も、
抱く想い。
だけどそれは本当に同じ?
砂糖菓子のような想いと、
熱くどこかほろ苦い想い………
――――ほろ苦いと感じるのはどうして?
知っているから。
何を?
いつも見ていた、私は。璃生の視線の先にいつも居る人を。
璃生と同じ女の子だから気付いた想い。
同じ女の子だからこそ安心した。
男の子だったら、俺は璃生を………
――――ってしまうよ?
「璃生、好きだよ」
ふと脳裏をよぎった誰かの言葉に反抗するようにぎゅっと璃生を抱きしめながら璃生の耳にそう囁いた。
その瞬間にかぁーっと顔が熱くなった。
お店の壁にかけられた小さなオブジェの鏡。その鏡に映る璃生の横顔はどこか困っているような顔に見えた。
―――ぎゅっと胸が痛い。
ねぇ、璃生。その表情の意味は何?
鏡の中に映る俺も哀しそうな顔。どこか散歩をおねだりして抱きついたのに、それをやんわりと璃生に断れた時のなずなの表情に似ている。
「こら、水樹。朝からお悪戯(おいた)しないの。私も忙しいんだから」
澄ましたお姉さんのような笑みで璃生はそう言って、俺の手を解いて、傾げた顔に苦笑を浮かべた。一歩、後ろに下がって………。
その距離が心に痛いよ、璃生。
「水樹は男の子の癖に甘えん坊さんなんだから」
そう言ってぴん、と俺の額を人差し指で突っつく。
「さあ、朝ごはんにしようか? 今日はお店の物を色々と買いに行かないといけないから、忙しいのよ、水樹」
璃生は穏やかにそう笑いながら言って、それから朝ごはんの用意をするべく、行ってしまう。俺の横を通り過ぎて………
―――いつものように抱きしめ返してくれない。
いつものように笑いながら頭を撫でてくれない。
髪を梳いてくれない………。
鏡の中の女の子の私は、璃生にぎゅっと抱きしめてもらって、優しい温かな笑みを向けられて、幸福に満ち足りた笑みを浮かべているのに。
立ち竦む俺。
どうして、璃生!!!
ふいに怖くなって、だからバネ仕掛けの玩具みたいに半回転して、歩いていく璃生の背中を見て、だけど置いていかれるのが怖いのに、でも本当はそのまま璃生に後ろから抱きつきたいのに、だけどだけどだけど………
だから怖い。
そうやって璃生の体に後ろから回した手を、また解かれるのが。
空けられる距離が………
だっていつもはそのままその回した手を、璃生は握ってくれるのに。
――――私たちはいつも一緒…………
繋がっている。
だけど男の俺はどこか繋がっていられない。
距離を置かれている。
璃生と俺。
その間に誰かが居る。
「どうしたの、水樹?」
璃生が振り返って、俺を見ている。小首を傾げる。
俺は顔を横に振って、それから璃生の横に並んで、璃生の手を自分から繋いだ。繋がっていたいから、だから怖かったけど、自分から繋いだ。
びくりと震えた璃生の手。
だけどその手はぎゅっと俺の手を握り返してくれて、その手の温もりがじわりと胸にあった怖さを拭ってくれた。
それでもまだ茫洋な痛みが宙ぶらりんの感情となって、俺の胸にあるのだけど………。
―――その痛みは何なんだろう?
俺はその痛みの名前を知らない。
+++
何だか想っていたのと違う男の子の感覚。
璃生と過ごす時間。
それでも男の子で良かったと想えるのは買い物で璃生が買った荷物を持ってあげられている時間があるから。
いつもは………
『大丈夫、水鈴? そっちは水鈴には重いんじゃないかしら? こっちの紙袋なら大丈夫かな。ほら、水鈴はこっちの荷物の担当ね。ありがとう、水鈴』
いつも重い荷物は持たせてくれない。
璃生の方だって女の子なのに、璃生は笑顔でいくつも重い物が入った袋を持って、女の子の俺には一番軽い荷物を持たせる。それがものすごく歯がゆくって、それで自分が持つって主張しても璃生は笑顔でそれを受け流して、結局は俺はいつも与えられた荷物ですら両手で一生懸命運んで、空回り。
「だけど今日は違うし」
そう。今日は違うし。
だって今日の俺は男の子。
えへん。力持ち。
「ほら、璃生。そっちの荷物も渡して」
「いいよ、水樹。もうたくさん持ってもらってるし。これぐらいは自分で持つから」
「だーめ。却下。俺は男の子で、璃生は女の子。俺は力持ち。荷物持ちは男の子の役目でしょう?」
いつだって憧れていた。
仲良く腕を組んで歩く恋人たち。
二人で買い物をして、恋人が買った荷物を持って歩く彼氏の優しくって穏やかな顔。
憧れていた風景。
いつだって見ていた。そんな風景を自分たちで描く夢の中の光景を。
俺が道の外側を歩いて、璃生は内側。
たくさんの荷物を俺は両手で持って、空手の璃生は心配げに俺の顔を横から上目遣いにならないように顔を上げて見て、それでその度に俺はそんな璃生ににぃっと笑う。
ほんとは実はちょっと両手が痛い。これは璃生には内緒。硬い紙袋の紐が手の平の皮を破って、そこがじんじんと痛むけど、でも本当に内緒。
だって今の俺は男の子だから。ようやくやっと璃生の荷物を全部持ってあげられるようになったんだから、だからそれがすごく嬉しいんだ。
璃生、私だって居るんだよ♪
ずっと探していた。
妖精さんやたくさんの人に見守られながらずっと璃生の事を俺は昔から探していた。
運命の人。守りたくって、逢いたくって、だけどいつも運命にもう少し先。今はダメ、って逢わせてもらえなくって、いつまで待てばいいのかわからなくって、しょんぼりして。
ようやく逢えて、世界はだけど大変な事になって。
それでも俺は大好きな璃生を守りたくって、璃生の力になりたくって、助けたくって。
だけど璃生は優しいから、だから自分だって女の子なのに、本当は怖かったり、苦しかったり、助けてもらいたがっているのに、なのに女の子の俺にはそういう表情はちっとも見せてくれなくって、大丈夫だよ、って笑って………
―――守ってもらっていたんだ、女の子の俺は。俺が守りたい人なのに、なのにその俺の方がその守りたい璃生に守ってもらっていたんだ。
だからそれが苦しくって。
でも俺は今は男の子だから、だから今は俺がただそれだけで無条件に璃生の前に立ていられる。男の子だから女の子の璃生を守れる。
大好きな璃生を。
大好きだから、璃生を。
だから俺は璃生を守るから。
璃生だって、璃生は女の子で、俺は男の子だから、だから俺に守られてくれるでしょう?
背負いたいんだ、俺は璃生を。
だから背負わせて、璃生。
俺を頼って。
守るから、俺が璃生を。
大好きな………璃生を……………。
あれ、何だろう?
大好き、っていう感情、やっぱりなんだかいつもと違う。
何でだろう、この璃生の事が好き、って意識する時の胸の高鳴りは………。
女の子の俺の好きはただ本当に嬉しくって、温かくって、甘い甘い砂糖菓子のようなのに、
男の子の俺の好きは苦しい。
何でこんなにも璃生を好きだと想うと、胸が痛くって、息苦しいんだろう?
何で………。
「どうしたの、水樹? やっぱり重い? 疲れた?」
心配そうに俺の顔を覗き込む璃生に俺は笑った顔を横に振る。
「ううん、何でもないよ。それよりも璃生、今日の買い物はもう終わったんでしょう?」
璃生はまだ心配そうな目をしながらも優しく微笑んで頷いた。
「だったらこっちに来て。行きたい所があるんだ」
「行きたい所?」
「うん」
俺は荷物を全部片手で持って、空いた手で璃生の手を握って、それで璃生を連れて行くんだ。
近くの公園にある池に。
「ここに来たかったの、水樹?」
「うん」
不思議そうな顔をする璃生に俺は頷く。
ここに来たかった。
正確的にはここに来て、そしてこれを見せたかった。
俺は下に落ちている平べったい石を選んで、それを横投げで池に向かって投げた。
空の橙色を映す水面にぶつかって石は、とん、と跳ねて、また水面にぶつかって跳ねる。とん、とん、とん、とん。心地良いリズムで楽しそうに跳ねていく。
「やった。見て、璃生」
俺はガッツポーズを取って璃生に笑いかける。
女の子の俺の肩ではどうしても届かなかった距離に石は届いた。それが嬉しい。だってそれは俺が男の子で、だから無条件に璃生を守れる立場に立てる、っていう事で………
それからきっとオーナーさんにしていたようにすごいすごいって両手を叩いて、はしゃいで欲しかった。男の子の俺の力に。
「あ、水樹。手、怪我しているじゃない」
なのに、璃生は――――
―――俺の前に居る。
「やっぱり無理して。きつかったらきついって言ってくれて良いのだよ。水樹がすべてを背負う事は無いんだからね」
公園の水飲み場の水で手の傷を洗われて、丁寧に璃生のハンカチで傷が拭かれる。
「痛い?」
「痛くない。それよりも璃生のハンカチが…」
汚れてしまった。
なのに璃生は優しく微笑む。
「いいのよ、水樹」
そっと大きなバンドエイドを傷に貼って、璃生は両手で荷物を持った。重いものばかり。
「そんな璃生、いいよ。俺が持つ。全部」
「ううん、いいよ、水樹。無理しなくっても。私が持つから。ね。だから水樹はそっちの荷物を持って」
璃生はそう言って優しく微笑むけど、その優しい微笑みが胸に痛かった。
+++
空は先ほどまであんなにも綺麗な夕焼け空をしていたのに、今は激しい雨を降らしていた。
荷物を持った璃生と俺は小さなアーケードの下に避難した。
道を挟んだフラワーショップのウインドウには綺麗な写真入りのポスターが貼ってあった。
5月1日はミュゲの日。大切な人へ鈴蘭の花束を、ってコピーが書かれたポスター。
写真の鈴蘭の花はとても綺麗でかわいかった。
ミュゲの日。きっと璃生なら知っている。
その日に渡された鈴蘭の花が持つ意味も。
じゃぁ、璃生は俺が鈴蘭の花を渡したら、喜んでくれるだろうか?
「すごい雨だね、水樹」
「うん」
横目でちらりと璃生を見る。雨で濡れた服は璃生の体にぴったりとくっついて、璃生の体のラインが一目でわかった。見た目以上に細い体。豊かな曲線を描く璃生の柔らかな胸。雨に濡れて薄っすらと透けた上着の下から見える下着。
毛先から雫を零す璃生の濡れた髪がなんだか………
(うわぁ、馬鹿ぁ。何を考えているんだよ、俺)
俺は顔を片手で覆った。顔が本当に熱い。
「どうしたの、水樹? 風邪を引いた?」
小首を傾げる璃生に俺は顔を横に振る。璃生の方は極力見ないで。だって今の璃生を見て抱く感情って、昨日の女の子の俺にはわからない感情なんだもの。
そんな感情に戸惑う俺はやっぱりそこで本当に彼女を守りたい男の子として何をすべきかわからなくって、空回るばかり。
そしたらそこに鳴り響く車のクラクション。
「璃生、水樹」
車が止まって、そしてその運転席から出てきたのはオーナーさんだった。黒い長髪を揺らしながら彼はこちらに歩いてくると、璃生に微笑む。
「買い物か?」
「はい。でも雨に突然降られてしまって」
「そうか」
オーナーさんはそう言って頷くと、スーツの上着を脱いで、それを薄っすらと服が透けている璃生の体にかけた。
璃生はわずかに頬を赤らめて、それから「ありがとうございます」、とお礼を口にする。
その光景に俺は頭を鈍器で殴られたようなショックを覚えた。
空回るばかりで何もできなかった自分。
心の中で綺麗に咲いている鈴蘭の花が萎れていく。
なりたかった自分、自分が立ちたかったポジション。だけどそこに居るのはオーナーさん………
立ちたかったポジション?
―――それを想った時、また胸が痛んだ。
「ほら、水樹。オーナーさんの車に乗るわよ。家まで送ってくれるって」
そして気付いたら、家で、熱いお風呂の中に両足を抱えて入っていた。
いつもは当たり前なように璃生と一緒にお風呂に入っているのに、今日は…今日からはひとりでお風呂。
何だろう?
何でこうなるんだろう?
男の子になりたかった。
そうすれば男の子というだけで自分は無条件で璃生を守れる立場になれると想った。
だけど違った。
男の子になっても、立ち居地は同じ。
守りたかった人に守られてしまう………
なりたかった自分、居たい場所にはオーナーさんが居て、璃生はそこばかりを見ていて。璃生の前に居るのはオーナーさんだけ。
あの雨の中、オーナーさんを見る頬を赤くした璃生を見た瞬間にそれに気付いた。
女の子だった時の自分は女の子だから、だからそこに居る事を許された。璃生とオーナーさんの間に居る事。
璃生は、男の子の俺がそこに居る事を許してくれない。困らせてしまう。
――――朝見たあの表情はそういう事。
きっと璃生は璃生が好き、っていう俺の感情が篭った鈴蘭の花を受け取ってくれない。
ぽちゃんとお湯に落ちた涙。
溢れ出す涙。
好きなのに。
大好きなのに、でも許してもらえない。
俺が璃生が好きな事を。
「水樹、着替えとバスタオル、ここに置いておくわね」
ドアの向こうから聞こえてきた璃生の声。
ばしゃりとお湯から飛び出て、それで言う。
「璃生、好きだよ。大好きだよ。オーナさんよりも好きだよ」
絶対に俺の方が璃生を幸せに出来る。
幸せにする。
今はまだ空回りばかりだけど、でも絶対に頼れる大人の男になるから。
だから――――
だから俺を選んで、璃生!
「はいはい。私も好きだよ、水樹」
でも与えられたのは、女の子の俺への言葉と同じ響き、温もりの言葉。
俺の好きは違うのに。
女の子の私(水鈴)と、
男の子の俺(水樹)とは。
だけど璃生が抱く好きはどちらも同じ。
選んでもらえない………
―――そんなにもオーナーさんが好きなの、璃生?
感じた事の無い苦しみ、痛み。
人魚姫は王子様に選んでもらえなくって、泡となって消えた。
叶う事の無かった恋。届かなかった想い。だけどきっと人魚姫は王子様を守れた喜びと、王子様に貫いた恋心を誇りながら泡となって消えた。
そこに苦しさは無かった。
だけど同じ報われない恋心なのに俺は苦しい。痛い。そして想ってしまう。オーナーさんなんていなければいいのに、って………。
人魚姫のような清らかな恋心は抱けない。
眠り姫がラッキーだったのは、キスして起こしてくれた王子様に想い人がいなかったから………。
そんな想いの中で俺は………私は泡となって、消えていく。
―――受け取ってもらえない鈴蘭の花は俺の中でゆっくりと枯れていく。
【ラスト】
「水鈴? 水鈴。起きて、水鈴」
泡となって消えたはずの俺…私。
璃生が呼ぶのは男の子の俺、水樹じゃなくって、女の子の私、水鈴の名前。
だけど温かな温もりを手に感じて、瞼を開いた。
そこに璃生が居て、大好きな璃生の青い瞳の中に映る私は女の子の私で、それでわかったの、ああ、あれは夢だったんだ、って。
「璃生ぉ!」
私はぎゅーっと璃生に抱きついた。
璃生はいつもの通りに私をぎゅっと抱きしめてくれる。優しく指で髪を梳きながら。
「どうしたのよ、水鈴? 怖い夢でも見ていた?」
「うん、見ていた。だから今日はずっと一緒に居て、璃生。今日はずぅ〜〜〜っと私が独占。オーナーさんよりも」
「はいはい。水鈴は甘えん坊さんね」
にこりと微笑んだ璃生はとても優しかった。
その笑みを見て、私は想ったの。
私は私、女の子の水鈴だから、璃生の隣…この大切なポジションに居られて、大好きな璃生を守ってあげられる、一緒に居られるんだって。
そして璃生はね、
「はい、水鈴。私から水鈴へ、日ごろの感謝と、そしてあなたの幸せを願って」
私に鈴蘭の花のミニブーケをくれたの。
「鈴蘭の花…」
夢の中の私、男の子の水樹が渡したくっても渡せなかった花。
それを璃生は私にくれた。
「そうだよ、水鈴。今日はね、5月1日。ミュゲの日。愛する人、親しい人に鈴蘭の花をプレゼントする日なの。5月に贈られた鈴蘭の花は幸せを運んでくれるんだって。素適だね」
「うん♪」
嬉しい。嬉しいよぉー。すごくすごくすごく嬉しいよぉー。
怖くって、哀しくって、いっぱいいっぱいいっぱいぎゅーって胸が痛くなって、でもこの鈴蘭の花がそんな水樹だった時の悲しみや怖さ、痛みはいっぺんに吹き飛ばしてくれた。
水樹の中の鈴蘭の花は枯れてしまったけど、
でも水樹。もう哀しくないよね。だって私たちが大好きな璃生がこんなにも綺麗な鈴蘭の花のミニブーケをくれたんだから。
うん、こんなにも嬉しい事は無いよね。
「あら、さっきまで泣いていたカラスがもう笑ってる」
「だってすごく嬉しいんだもーん♪」
おでことおでこを合わせて私たちは笑いあう。
「ねえ、水鈴。鈴蘭の花は毒があるというけれど、手折ってくちにしなければいいだけなの。この花に毒があるのは良い物を持ちすぎた代償なのかもしれないね」
璃生はおでこを離すと、そっと前髪を指で掻きあげながら傾げた顔に優しい笑みを浮かべた。
「大地に根ざすその姿をそっと慈しんでいれば良いと想うのよ。そうすれば毒は関係無いもの。でもまあ、もちろん、鈴蘭の花束は女の子の憧れでもあるのだけどね」
「うん」
私は鈴蘭の花の香りをそっと楽しみながら頷く。
それはきっと水鈴が男の子だったら………水樹だったら当てはまる事だと想う。
水樹は、鈴蘭の花が切られたら毒を出すのと同じように、璃生にその想いを告げたら、璃生を苦しめる。
璃生が居て欲しいと望む男の人はオーナーさんだから。
鈴蘭の花が良い香りや可愛い姿という良い物を持った代償で毒を持つように、その毒が鈴蘭の花を孤独にするように、
水鈴がなった男の子の水樹は無条件に璃生を守る力を持つけど、その代償として璃生の隣にはずっといられない。もう好き、っていう言葉を璃生に言ってあげられない。
―――それは本当にものすごく悲しい。
美しいからこそ、孤高の花、鈴蘭の花。
男の子だからこそ、璃生の傍にずっとはいられない水樹。
「さあ、朝ごはんにしようか? 今日はお店の物を色々と買いに行かないといけないから、忙しいのよ、水鈴」
「うん♪」
立ち上がって、それから二人同時に手を握り合って、にこりと笑いあって、歩き出す。
「女の子で良かった、女の子だから私、璃生を笑顔にしてあげられるんだ。神様ありがとう…」
あらためてそう想い、感謝する。繋いだ手の温もりに。隣に璃生が居る安心感に。伝わる璃生の優しさに。
何時か絶対にオーナーさんの急所を蹴り上げてやるんだ、って同じようにあらためて想いながら♪
鈴蘭の花は確かに私に幸福を贈ってくれた。
― fin ―
++ライターより++
こんにちは、水鈴さま。
こんにちは、笹川・璃生さま。
いつもありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回のお話、いつもとはまた違った感じの切なくって不器用な少年の想い、お気に召していただけましたでしょうか?
今回は水鈴さんが男の子になってしまうというお話で、プロットを読んだ時に面白いなーと想いました。^^
そうですよねー。女の子が女の子に抱く好き、と、男の子が女の子に抱く好きは違いますものね。
そこら辺の感情の齟齬にものすごく傷ついてしまった水鈴さんですが、でもラストでは璃生さんから鈴蘭の花のミニブーケをもらって、いっぺんにそれも吹き飛んでしまったでしょうか?^^
でもいつもは本当にかわいい水鈴さんの視点でお話を書かせていただいているので、今回の水樹さんの思春期の男の子視点はPLさま的に大丈夫でしたでしょうか?
ちょっと雨宿りのシーンは水樹さんを苛めすぎちゃったかもしれませんね。^^;
水樹さんの璃生さんが好き、という感情表現は、水鈴さんの時の好き、という感情表現と一緒で、だからこそ璃生さん的にはやっぱりそういうかわいらしい感情表現をしてくる水樹さんは弟的立場になっちゃうんでしょうね。^^
んー、でも大人の好き、という感情表現でこられてしまったら璃生さんもやっぱり大変かな。でもそれでも璃生さんはそういう水樹さんの感情を物凄く嬉しいと感じ、守ってくれるんでしょうね。^^ 水樹さんが傷つかないように。自分にとってオーナーさんとはまた違うとても大切な子だからこそ。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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