<東京怪談ノベル(シングル)>


ユーチャリス

 銀色の車両の扉が開いて、その中からどっと人が吐き出されてくる。帰宅のラッシュの流れに逆らわず、ティルス・カンスはそのまま改札のほうへ足を向けた。人化している今の彼は、表面上は周囲を歩く人間たちと何ら変わる所は見られなかった。日本がパトモスと名を変え共存を謳ったことによって、海外から移住してきた者もここ最近は少なくない。三年前まではどこへ行くにも結構目立ったティルスの金髪は、今ではさほど珍しいものでもなくなっている。
 雑踏にまぎれて改札を通る。
 コアヴィークルは速度こそ出るがとにかく目立つし、召喚するには人化を解かなくてはならない。急ぎのときはそれも仕方ないが、移動手段としては不便なところもある。特別人目を気にする性質ではないが、さりとて殊更目立ちたいとも思わない。避けられる面倒は避けたほうが賢明だ。あまり雄弁なほうではないのではっきり言葉にして言ったことはあまりないものの、彼が公共交通機関を利用するのはそういうわけだった。
 駅前に立ち並ぶビル郡は、ティルスの記憶にあるせせこましい地方都市――群馬県前橋市の姿とは違っていた。真新しい建物がいくつもそびえ立ち、その隙間から黄昏の光が細く長く金色に伸びて人々の上に差し掛かっている。そういえば先ほど通ってきた構内も、あちこち新しくなっていたようだと、ティルスは今さらのように駅を省みる。
 かつての建物はおそらく、戦災によって崩壊し建て直しを余儀なくされたのだろう。
「さて、まだ残っているものか……」
 小さく呟いて肩をすくめ、人いきれの合間を縫って歩き出した。
 会社の仕事仲間らしい、スーツ姿の一団がティルスの背を追い越していく。これからどこかに飲み会にでも出かけるのか、やけに楽しそうだ。ひとりで行動することなど珍しくもないはずなのだが、常ならばパートナーが占めているはずの隣が奇妙に涼しく感じられた。駅前のロータリーを彩る植え込みはティルスの知らない赤い花をつけていて、彼女なら名を知っているだろうかと柄にもない考えが頭をよぎる。
(……花か)
 気を変えて、ティルスは少し寄り道をしてみることにする。

「これは?」
 尋ねると、エプロン姿の若い店員が慌てて持っていた鉢植えを下ろしてやってきた。ティルスが指さしている白い花を覗き込んで、ああ、と頷く。
「これね! 可愛いでしょう。日本だと……じゃないや、パトモスだと温室で育てることが多いんですよ。ぱっと見、水仙みたいでしょ?」
 愛想よく言いながら花の前にかがみこむ店員を見下ろして、ティルスはわずかに戸惑った。花の知識はほとんどないので店員の喩えはよくわからなかったが、その白い色合いが花屋の店先でとりわけ目を引いたのは本当だ。
「こんなに……」
 口に出しかけて、言葉を選ぶのに一瞬逡巡した。
 他の花の鮮やかで雑多な色彩に囲まれ、純白の花がうつむいている様子は、ひどく静かに、どこか痛々しくティルスの目に映る。眺めていると心の裡で得体の知れぬ感情が喚起され、彼の記憶のどこかをちくりと刺激した。何かに似ている。では、何に?
「……こんなに白い花は、初めて見る気がする」
「ですよねえ。白い花はたくさんありますけど、たいがい黄色がかってたりピンクっぽかったり、何か別の色が混じってるんですよね。混じりっけなく白いのって、意外とないんです」
 豪奢とも華麗とも、到底呼べはしない花だった。その辺の道端で咲いていたとしたら、ティルスは多分目にも留めなかっただろう。だが真っ白い花のつくりはよく見れば繊細で、触れるとたやすく壊れてばらばらになってしまいそうに思える。
「こういうあざやかな白は、高山植物に多いんですよ」
 あまり客の入りがなくて退屈だったのだろう、ティルスの口数が少ないにも関わらず、店員は説明を続けている。
「これもそうなのか?」
「原産はね。高山植物って独特の綺麗さがあるのが多いから、結構ファンもいるんです。ほらこう、繊細というか、いたいけというか」
「わかる気もする」
「でしょー? これ、結婚式のブーケなんかに使うことが多いんですよ」
 確かにこのまぶしいほど白い色合いは、ウェディングドレスによく合うことだろう。
「でもやっぱり栽培が難しいんですよね。暑すぎても寒すぎてもだめだから手間がかかるんです。だからあんまり数が出なくって……あれですかねえ」
 気に入っている花なのか、残念そうに店員はため息をついた。
「やっぱり純粋すぎると、地上では生きにくいんでしょうねえ」
 ――ああ、そうか、とティルスはあらためて白い花を見下ろす。花は相変わらずうつむいて沈黙を守り、そのせいかひどく気高く触れがたいもののようにも見えた。
「どうします? 気に入ったなら、お安くしますけど……」
 言いながら立ち上がって振り返った店員は、あれえ? と首をかしげた。
 つい先ほどまで確かにそこにいたはずの金髪の男は、跡形もなく店先から姿を消していた。



 三年前におとずれたきりの建物を探し出すには、意外と骨が折れた。
 駅から離れるにつれ、大きな建物が急速に少なくなっていくのにティルスは気づいた。復興が完全に済んだのはどうやら人の集まる駅周辺が中心で、住宅街や商店街は未だ戦災の跡から完全に立ち直ってはいないようだった。そう考えてみると駅前に居並ぶあのビル群が、急に薄っぺらな芝居の書き割りのように感じられてくるから不思議だ。
 途中でパトモス軍の制服を着た者と何度かすれ違った。旧群馬県には現在パトモス軍の基地が存在しており、関東復興の拠点となっているのだとどこかで耳にしたことがある。一度は二人連れの軍人を見かけたが、彼らがパートナー同士なのかそれとも単に任務で同行しているだけなのかは、ティルスにも判断がつかなかった。
 人気のない道をひとりで歩いているのを不審に思ったのか、鋭い一瞥をくれた軍人の視線を何度もやり過ごし、目的の建物を見つけ出した頃にはすっかり暗くなっていた。
 手持ちの魔皇殻では朧明蛍を呼び出せないので、ペンライトを取り出して中に足を踏み入れた。
 三年前もここは廃ビルだった。三年間ずっとそうだったのだろう。ペンライトのかすかな光に照らされたビル内部は、ティルスの記憶とほとんど変わらない。もっとも戦禍の余波は免れなかったのか、ところどころの壁にひびが入っており、それが唯一年月の経過を感じさせるものだった。
 ――ティルスは神帝軍に捕らえられ、このビルに閉じ込められたことがあった。
 扉を破って逃亡を図ったティルスらをサーバントを使って追いかけ追いつめたのは、ひとりのグレゴールの女性……いや、厳密にはグレゴールとは呼べない。彼女はパートナーのファンタズマの力を吸い上げて己の能力をさらに高める、いわば歪んだかたちのグレゴールだったのだから。
(柘榴石……グラナトゥム)
 そう。それが名称。彼女たちは、前橋テンプルム指揮官アタナエルが新たなグレゴールを生み出すための、いわば試作品であったのだ。

 屋上に出た。
 見上げれば月が冷たく光っていた。ペンライトをしまいこみ、記憶にある場所を見つけてそこに膝をつく。指先でなぞったコンクリートにはおそらく血の染みが残っていたはずだが、三年余りの風雨にさらされてほとんど判別できなくなっていた。
 目を眇めて、呟くような声をそこに落とす。
「久しぶりだな。……そちらはどうだ?」
 彼女がいるのが天国なのか地獄なのか、ティルスにはわからない。
「今日ここに来る途中、お前に似た花を見た」
 グラナトゥムと呼ばれたグレゴールたちは皆、いかなる作用によるものか、体に持つ色素を失っていた。彼女も例外ではなく、この国で再会したとき、日本人であったはずの肌や髪の色は真っ白に染まっていた。まるであの、目がくらむような純白の花びらのように。
 だがティルスは、そういったうわべの外見だけでなく、あの花が彼女に似ていると思ったのだ。
「買ってここに供えてやろうと一度は思ったんだが」
 そういえばあの花の名を店員に聞かなかったと、ティルスは思い出す。
「やめた。たぶん……お前は喜ばないだろうと思ったから」
 彼女にはわかっていたのかもしれない。
 グラナトゥムを強力なグレゴールたらしめたのは願いの強さ、渇望の強さだった。たとえ導天使を犠牲にしてでも、望む強さを求め、幸福を追う心。
 だがそれゆえに、グラナトゥムになった者たちは皆孤独だった。
 願いの強さは、同時に弱さでもあったのだ。グラナトゥムたちはパートナーの不在、あるいは強すぎる己の望みに足をとられて、皆敗れていったのだから。
 空を見上げると、かすかな風が雲を押し流し星を隠していく。
「お前は、そこから俺たちを見ているのか? 今のこの日本――いや、パトモスをどう思う? それだけじゃない、もはや人のものではなくなったこの星を、お前は今どんな思いで眺めている?」
 答えを期待していたわけではない。そもそも死後の世界を心の底から信じるには、彼は若くしてあまりに多くの戦いや死を見すぎていた。それでも語りかけずにいられなかったのは、自分の中の彼女を通して、己の心の裡と対峙したかったからにほかならない。
 かつての同胞と道を違え、相容れることができなかった、その辛い記憶と。
「俺は現状を歓迎はできない。けれど無理に壊そうとも思わない」
 お前ならばよりよい道を見出せたかもしれないとは、だから決して口にはしない。
「俺は……このまま新東京に深くは関わらず、神と魔と人がどんな行く末をたどるのか見届けようと思う。彼らの共存が、本当に成るものなのか」
 それとも、互いに滅ぼしあうだけなのか……今後の世界が移ろうさまを、ただ見守る。多少の干渉はするかもしれないが、それはおそらく彼個人の力の及ぶ範囲だけということになるだろう。大局を覆すような真似は、今後一切するつもりはない。
「俺はすべてを見届ける」
 誰に非難されようと、意気地がないとなじられようと、それがティルスの選択だった。

 天は暗く、ティルスの言葉を吸い込んでなお沈黙していた。
 月光は冴え冴えとした光を地上に降り注がせている。春にしては冷えた夜風が屋上を渡ってきて顔を撫で、知らず頬を火照らせていたのに気づかされた。何を自分はむきになっているんだと、ティルスは己に苦笑する。
「誰が聞いているわけでもなかろうに……」
 だが多分、ここに来ることが自分には必要だったのだ。
 何かの区切りをつけるためにも……自分の決意を固めるためにも。
「また来るとは言わないからな」
 そうしてティルスは屋上の手すりに手をかけ、身を乗り出す。
 背に召喚した真テラーウィングを軽く動かして、冷えた夜気をかき乱すようにはばたかせた。夜明けにはまだ長い。このまま一気に飛んで帰れば、今夜じゅうには帰りつけるだろう。
 黒翼を広げ一気に舞い上がる。夜風をとらえて上空へ、そして目の前に迫った別のビルの屋根を蹴ってさらに高みへ。まるで自分の持つ異名と同じように、猛禽のごとくティルスは空を馳せた。
 夜空を飛びながら、自分の帰りを待っているパートナーのことが頭に浮かぶ。
(花の名を、あいつならば知っているだろうか)
 優美な舟の形をした月が、うつむくように地上のすべての者を見下ろしていた。今もまだ瞼の裏にまざまざと思い浮かべられる、あの白い花のような色をして。