<東京怪談ノベル(シングル)>


ひび割れた月が見下ろす静寂

 打ち寄せる波は荒く、その波濤は無人の防波堤に何度も叩きつけられていた。
 かつて幾艘も漁船がひしめき活気のあった漁港の面影はとうに無く、ここが新潟と呼ばれていた事すら過去になりつつある。
 新潟がテアテラと呼ばれるようになってから数年が経っていた。
 ここはひっそりとその日を暮らす人々が残るだけの街だが、マティア神帝軍が召喚したサーバントは今も無差別に破壊を繰り返している。
 この三年のうちに、神帝マティアの支配を撥ね退ける理想を追い求めた戦いは『ただその日を生き残る』切実でシンプルなものに変わっていた。


 瓦礫が散らばる市街地の中心、折れ曲がった信号が瞬きを止めたその下に魔皇と逢魔が三組立っている。
「ホントに来るんでしょうね?」
 煙草を口元に運んでいる魔皇に、逢魔のインプの女がいぶかしげに呟いた。
「毎年欠かさない墓参りだってさ、もしかしたら今年はやらないかもしれないじゃない」
 旧新潟市にいる密から、瀬戸口春香を目撃したという情報がもたらされたのは昨日だった。
 毎年、実弟の命日である6月10日に春香は現われる。
 もっとも、今までは誰一人その捕獲に成功していないのだが。
 瀬戸口春香は現在テロリストとして指名手配されている。
 しなだれかかるインプを押し戻し、リーダーである魔皇の女は煙草を無骨なブーツでもみ消した。
「瀬戸口春香は必ず現れる。あれが三年前と変わっていないなら、必ずだ」
 仲間の強い口調に、凶骨の男を従えた魔皇が疑問を投げかける。
「あんた、瀬戸口に会った事があるのか?」
 地図を確認していた魔皇の青年も立ち上がって魔皇の女の言葉を待っている。
 彼の逢魔は狼に姿を変え、市街地一帯の偵察に出ている。
「……ある。いや、遠目に見たと言った方が正しいのか」
 かすかに震える指を握りこみ、女はジャケットの中からもう一本煙草を取り出した。
 つかみ所のない苦い煙にすら助けを求めてしまう程、あの光景は血塗れていた。
「敵には容赦ないって聞いたけど」
 ごく最近魔皇として覚醒した青年は春香の噂しか知らないのだ。
 冷酷無比なテロリスト。
「確かに容赦ないが。敵……いや、身内に情が深いんだな、あれは」
 弟を守ろうとして戦っていた春香はまるで別人だった。
 新雪の光を宿す銀髪を血に染めながら、愛しい者の前に立ちふさがる者全てを屠る修羅の姿。
「弟は特別なんだろう」
 インプがそっと腕を絡めてくるのを今度はそのままにし、魔皇の女は呟いた。
 あの時春香は同じ志を求める仲間の一人だった。
 しかし今は、束の間とはいえ得られた安息を奪い取る敵だ。
「実際の所、瀬戸口は強いのですか?」 
 凶骨の男が尋ねた。
 魔皇に対する礼として口調は丁寧だが、その影には女に対する不審が見え隠れする。
 春香に手心を加え、逃がすのではないかと疑っているのだ。
 それはこの凶骨の男の主である魔皇の心情でもあった。
「今確認できる資料では、中堅程度か。
しかし資料は三年前のものだし、奴が身内に対する思い入れは計り知れない。
気を付けろ」
「ああ、戻ってきましたよ!」
 青年の視線の先に、こちらを目指して駆け寄ってくる狼がいる。
 狼はシャンブロウ本来の姿に戻り、荒い息を弾ませながら話し出した。
「墓地に向かう坂道を登っていくところまで見ました!
墓地までは一本道です」
「そうか。私たちも急ごう」
 歳月を経ても変わらないでいるという事は、その哀しみすら癒えずにいる事にならないだろうか。
 女はそう思いながらシャンブロウの後に続いた。
 瀬戸口春香は、あれから変わっているのだろうか。


 海を見下ろす墓地は荒れ果て、訪れる人もいないまま土に還ろうとしている。
 生い茂る草丈は人よりも高く、墓地に繋がる道筋は人が一人通れる程度の幅しかない。
 夕闇が迫り、視界が狭められる事に一抹の不安を覚えながら、魔皇と逢魔たちは道を進んでいた。
「散開して各個行動を取った方が良いのではないか?」
 凶骨の主である魔皇が口を開いた。
 やや年配の彼は口数こそ少ないが、確かな判断力を備えた男だった。
 そうでなければ神魔戦線を生き残ってはこれない。
「いや、このまま行こう。もう瀬戸口の墓まではすぐのはずだ」
 一旦止めた歩みを再び進ませようとした時、先頭を歩くシャンブロウの悲鳴が上がった。
「もう相手のテリトリーに入っていたか……ッ!」
 墓地全体に春香が張り巡らせた断罪の糸。
 それは相手の思惑など無視して、ただこの地の静寂を破ろうとする輩を排除する。
 たった一人シャンブロウの主を除いて、他の魔皇と逢魔はとっさに身体を伏せた。
 シャンブロウの身体を断罪の糸が幾筋も突き抜け、口元が今際の言葉を紡ごうとする。
 が、それが主の青年に届く前に、シャンブロウの身体は切り刻まれた肉片へと変えられてしまった。
「あ、ああ……」
 状況に思考が追いつかない逢魔の青年を、糸は一瞬で屠る。
 痛みを感じる間も無くその場に転がったのは、青年にとって幸か不幸か。
 ――捕獲どころではない!
 魔皇殻を召喚しなければ、こちらが生き残る事すらできるかどうか。
 魔皇の女がそう思う前に既にもう一組の魔皇と逢魔は魔皇殻を召喚、青く燐光をまとわせた刀を構えている。
 ヒュ、と空を切る音と共に、下方から跳ね上がった糸が刀を持った両腕ごと切り落とした。
 断末魔を上げる一瞬すら与えられず、二人は絶命する。
「全く……俺達はなんだってこう、身勝手な連中ばかりなんだろうな」
 柔らかな口調の声に振り返れば、背後の墓地に春香が立っている。
「何も本質は変わっていないのに、ほんのわずかな主張の違いで対立するんだからね」
 春香は自分を覚えているのだろうか。
 いや、それももうどちらでもかまわない。
 私がこの世界で思考を繋ぐのももうすぐ終るのだから。
 魔皇殻を召喚した所で、時間稼ぎにもならない。
 月に葉の無い枝の木々が重なり、中天にかかる巨大な月はひび割れているように見えた。
 春香の立つすぐ傍にあるのは弟の墓だろうか。
 墓碑の石にも欠けた所無く、それが返って不自然で怖かった。
 今、自分の命が消えるよりもそれが怖いなんて、なんておかしいのだろう。
 春香の姿は三年前と変わらなく冷徹で、残酷で、それでいて孤高の美しさを持っていた。
 彼の内面までもが変化したかは、女にはわからない。
 主を守ろうと胸に抱きつくインプの温かさを感じながら、女は魔皇である命を失った。


 墓地にふさわしい静寂がその場に戻る。
 それを見下ろすのは三年前と変わらない、ひび割れた月。
 春香はそっと弟の墓石に触れながら囁いた。
「悪いな、うるさかっただろう?だが、もうしばらくの間我慢してくれ。
この世界に蔓延る化け物と、その脅威を完全に排除させるには、まだ時間がかかるようだ……」
 それまではテロリストの汚名も、茨の道筋も甘んじて受け入れようと思う。
 次にこの場所に立つ時、自分は何かが変わっているだろうか?
 元々答えなど出ない問いを胸に秘め、春香は荒んだ墓地から紅い瞳を上げた。

 
(終)