|
|
|
|
<東京怪談ノベル(シングル)>
|
静寂の雨
つめたい雨が降る。
さらさらと、さらさらと、遙か遠くの空までを濡れた灰色に染め上げてゆく。
そこに生きていたものが総て死に絶えたような静寂のなか、鈴科有為は雨空を眺めていた。新東京以外の空を見るのは久しぶりだったが、眺めても、空など何処も変わらぬことを思い知っただけであった。死体を積み上げたような暗灰色。隠れてしまった太陽の所為で有為の居る部屋はうす暗く、ただ部屋の隅に有る、音の出ないテレビの砂嵐だけが厭に明るい。無機質なその光を受けて、有為の頬に落ちた血が紅玉のように煌いた。彼自身の血では無い。見れば部屋のなかには累々と屍のように、数人の男たちが横たわっている。死んではいないようだったが、どれもすぐには動ける状態で無いだろうと思えるほどの怪我を負っていた。皆一様に気絶しており、部屋に動くものは無い。
短い戦闘であった。ものの数分で片付いてしまうようなもの。依頼人も何も云わず、ただ潰して欲しいという意思を伝えてきただけだった。どの道説明を聞く理由も無いし、必要も無い。有為にとっては只々如何でも良いことだ。切った張ったの三文芝居など、理由を聞いても莫迦らしいことこの上無い。どうせ集団同士の潰しあいに、有為が始末屋として送り込まれただけなのだろうから。
有為は煙草を取り出してジッポで火を点けた。
部屋がその瞬間だけ明るくなり、床にだらしなく伸びた男たちの顔が見える。何故かそれを見て、大昔に絶滅した爬虫類のアクリルのような目玉を思い出した。意思の感じられない虚ろな球体。
彼らは戦いの間、何かを必死に訴えながら拳を振るっていた。何を言っていたろう、と、紫煙を喉の奥へ吸い込みながら、ぼんやり思い出してみた。正義の為に。未来の為に。この昏い世界に救いを。国の行く末を憂える勇士達、であったか。時間こそ短く終わったが、男たちは弱くは無かった。多少なり鍛えているのか、それとも喧嘩慣れしているのか。恐らくは後者であろう。拳の筋に、表世界から隔絶した戦いの手法を有為は見たのだ。
下らない、と有為は煙と共に吐き捨てた。何かを正すための暴力など、詭弁に過ぎぬ。だが、やりたいようにやるのだと云って本能のままに他人を嬲るような者も下劣だ。そうして自分と相容れぬものを消し、殺し尽くして、最後に何が残ると言うのだろう?何も残る筈が無い、世界の総ては本来自分とは違うものなのだから。
暴力に理由を付け、さぞ大義名分のように振り回す者と、他人など暴力の対象としてしか見ていない者。結局はその二元論に行き着くのだとしても、それを享受する気はさらさら無かった。……我は我は、と主張する人種は、得てして独善的で卑怯だ。
下らぬ。
有為にはそんなものは無い。ただ在るのは、彼にとっての戦いの哲学だけ。面倒な主義も思想も持ち合わせては居ない。その哲学だけを胸において、有為は戦うのだ。
「……。」
何ものも動かぬ暗闇で、有為は煙を吐き出す。空気の流れの無い部屋のなかでは煙はまっすぐに流れ、次第に霧消してゆく。けれど煙草の匂いは消えず、ここにとどまり続ける。まるで人間のようだと、思った。脆く儚くふと無くなってしまうような存在なのに、その思念だけは何時までも消えることが無い。現世に残ったものは久遠に渡り重い鎖になり、生きているものたちを縛り続ける。
有為は自らを縛る重く錆びた鎖を思った。一体これまで自分は、幾つの業を負ってきたのだろう。戦いのなかにだけ生きてきた自分にとって、それは今目の前に落ちゆく雨粒と同じように数えられぬものだ。もがこうとも振り払おうとも、けして解けることの無い鎖。もうその重さにも、有為は何も感じなくなってしまった。幾つ負おうとも変わらぬ、と―――――そう思うまでに。
「だからこそ、だ。」
だからこそ―――――何も出来ぬ、何も救えぬと、自分は無力だ、と。そう思う者が居るのなら、俺は自らの力を、自らの業を、その者に売ろう。何も生まない俺のこの力を必要とするなら。己の暴力に理由は付けないが、自らの業を売る覚悟を持つとすれば、それも哲学となり得る。
そこまで考えて、有為はふと気付く。―――――何だ、そう云うことか。
結局は自分も、戦えればそれで良いと思っているのだ。
有為は自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みを、口元に浮かべた。漆黒の瞳がシニカルに歪められる。
何と、単純なことなのだろう。
窓を開けた。今まで何の音もしなかった部屋に、さらさらと静かな、鎮魂歌にも似た雨の音が響く。有為は手を伸ばして雨に触れてみた。血に汚れていた手がゆっくりと、だが確実に洗われてゆく。血赤から覗く肌色を見てすこし驚いた。―――――自分にもまだ、人間の色が残っているのか。
「……ふ、」
笑って、有為は暗い部屋を出た。長い廊下を歩き、軋む階段を下りると、荒廃した街が眼前にひろがる。
……この街からひとが居なくなったのは何時からなのだろう。最早鴉すらこの街を見捨てたのか、荒れた街に付き物の、死神の使いのような黒い鳥たちの姿も見えぬ。いちまいの絵画のように、打ち捨てられた建物だけがこの街の住人のようだった。
けれど、雨は振る。建物を濡らし、地に染み込み、すべてを洗い流すように降る。この雨は新東京にも降っているだろうか。昏い雨だったが、有為はこの雨を好ましく思った。
手をかざし、雨に向かって開いてみる。細かな雨が絹のように手のひらを包み、こびり付いた血の汚れを洗っていった。心地好い、と感じる。指の間から見える空は変わらぬ暗灰色だったが、有為はそれが一番、自分に似合いの色だと思った。はっきりしない、黒と灰の間の色。自らを昏い闇に閉ざし続けてきた有為の、その世界の色である。灯りの燈らぬ暗闇に、ときに盲目のように聾唖のようにひかりと福音を求めても、陽光は聖句は、ただ有為のこころを灼く。海底に沈みゆく死者のように、水面には届かぬと思い知らされる。
―――――だから有為は、殺めた。ひかりを恋うこころを、救いを求める意識を、ひとに焦がれる弱さを。鈴科有為という名に、光明などと云う愚かしさは要らぬと切り捨てた。有為の心にあるのは暗闇だけ。なにものも救わぬ無明だけ。……今更この身に平穏など、必要ではないのだ。
有為は考えることを已め、目を閉じ、髪を濡らしゆく雨の細さを感じた。
……折りしも雨脚は強くなる。
空から注ぐ昏い雨に、有為は何時までも打たれ続けていた。
|
|
|
|
|
|
|
|