<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


やさしいしずく

 雨は嫌いだ。雨が続くこの時期も、だ。
 何度直しても湿気で髪型は決まらないし、どんなに気を付けてもどこかに泥が跳ねてスーツの裾が汚れるし。で、気分が憂鬱になる。
 トラブルが持ち上がるのは、決まって雨の日ばかりだ。
 ジンクスなんて信じちゃいないが、雨の日に限って厄介事に巻き込まれるのも事実。
 それでますます雨が嫌いになるという悪循環だ。
 今日の厄介事は座り込んだ男――鋼の膝の上、まだ濡れた茶色の毛並みを震わせている。
 柴の混じった雑種らしいが、犬の種類なんて俺にはよくわからない。
 興味のないものに割く時間は、一秒だってない……はずだ。
 なのに俺はデスクで資料をまとめる手を止め、甲斐甲斐しくそいつの世話をする鋼を見ている。
 大きく息を吐くと、俺――高嶺眞人は鋼に質問した。
 ごくごく簡単な質問だ。
「……鋼、それは何だ?」
「犬でござるよ」
 俺の逢魔は筋肉でできた脳みそでも、どうやらそれが犬だとは理解してるようだ。
 言葉に込めた皮肉には全く気が付かず、鋼はのほほんと笑いながら答える。
「マンションの前で、濡れてたのでござる。首輪もないから、野良でござろう」
 鋼は大柄なその身体を丸めて、小さな犬の身体を一生懸命タオルで拭いている。
 そして鼻先が触れそうな程顔を寄せ、犬の瞳を覗き込んでは目尻を下げて微笑みを浮かべている。
 そんなに犬が珍しいか?
 しかも雑種だぞ。
「頼むから、ここで飼うなんて言い出すなよ?」
「ど、どうしてでござるか!?」
 鋼は犬を放り出さん勢いで立ち上がって声を上げた。
 聞くなよ。
「当たり前だろ! ここはペット禁止だ」
 そもそも俺はこの犬を飼うつもりなんて全くない。
「この子はこのまま放っておけばすぐに死んでしまうでござる!」
 ひく、と口元が嫌な感じに歪むのが自分でもわかった。
 この子、ときたか。
 鋼は俺の表情を見て控えめに切り出した。
「せめて、元気になるまで置いて下され。飼い主は拙者が見つけるゆえ」
 その大きな身体を折りたたむようにして、椅子に座って腕を組んだ俺に懇願する。
 鋼の太く筆で刷いたような眉は情けなく下がっている。
 犬一匹にどうしてそこまで真剣になれるんだ。
 そのまま数秒鋼を睨んだが、途中で馬鹿らしくなって俺は組んだ腕を解いた。
「……仕方ないな」
「ここに置いてもいいのでござるか!?」
「元気になるまでだぞ」
「かたじけない!」
 嬉しそうに犬を抱き上げて、鋼は満面の笑みを見せている。
 表情を消せば完璧なボディーガードが似合う強面だが、笑うと細められた目元が柔らかな雰囲気に変わる。
 そういう所は、可愛くない……事もない。
 自分で考えておきながら目眩がする。
 可愛いだって? このゴツイ男が? 
 鋼は額を押さえた俺を不思議そうに見つめた。
 丸く見開いた深い黒の瞳などは、余程こいつの方が犬に見える。
「眞人殿?」
「何でもない」
 俺はさっきより大きなため息をついて、机の上の資料整理に戻った。

 
 今日も窓の外は雨が降ったり止んだり。
 毎年水不足がニュースになる国だというのに、降る時は一度に降るから始末におえない。
 こんな時は外に出ないで、エアコンの効いた事務所でデスクワークをこなしているのが一番だと思う。
「鋼、珈琲」
 空になったカップを上げて催促したが、いつもならすぐに返ってくる返事がない。
「ちょっと待って下され! 今手が離せな……っ!」
 開け放されたドアの奥から鋼の声が響き、ついで泡だらけの犬が床を濡らしながら駆け出してきた。
「ま、待つござる!」
 両の足と腕をまくり、タオルを持った鋼が犬を追いかけて続く。
 なかなか鋼は犬に追いつけず、それに比例してフローリングの床はどんどん濡れていった。
「眞人殿! 捕まえて下され!」
「何で俺が……」
 犬は軽く机の上に飛び上がると、積み上げられたファイルの匂いをかいでいる。
 そうしているうちにも、資料は濡れて使い物にならなくなっていく。
 これ以上好き勝手されてたまるか。
 俺は泡まみれの犬に手を伸ばす。
 と、犬はぶるっと身体を震わせ、盛大に泡と水滴を撒き散らし、俺の顔もシャツも泡だらけになった。
「仕方ないでござるな〜。今、眞人殿のタオルも持ってくるゆえ」
 ようやく犬を捕まえた鋼ののんきな言葉に、俺の何かがこめかみ辺りで切れた。
「仕方ないで済むか、大事な資料を! ちゃんと捕まえておけ!」
 犬の鼻先に指を突きつけて声を荒げると、鋼は身体をすくませる。
「申し訳ないでござ……あっ! 」
「こ、こいつ……っ!!」
 指先にぶらさがるように犬が噛り付いている。
 怒りで真っ白になった俺の思考をよそに、『ただのあいさつだよ』とでも言うのか犬は小さな歯を立てた。
「眞人殿、指を見せて下され!」
 おろおろと鋼は俺の指を覗き込んだ。
 ああ、苛々する。もう限界だ。仕事にならない。
 だいたい何だ。主を放っておく逢魔がいていいのか。
「なあ鋼。今夜の料理をオーダーしてもいいか?」
「何でござるか?」
 唐突な俺の言葉に、鋼は意味がつかめず眉を寄せている。
「エアコンで俺、最近身体冷え気味なんだよな……狗鍋は身体があたたまるらしいぞ」
「そんな、可哀相でござる!」
 抱きかかえた犬をかばいながら鋼が反論する。
 本気で犬なんか食う訳ないだろ!
 鋼のこういう素直な所がまた苛つく。
「犬一匹も面倒見切れない逢魔の主の、俺の方がよっぽど可哀相だよ!
『元気になるまで』って約束だったよな? それだけ元気なんだ、今すぐ出て行けっ」
 慌ててももう遅い。いい加減うんざりだ。 
「眞人殿!」
「鋼、お前もだっ」
 ぐいぐいと襟を掴んでエントランスに向かい、俺は犬一匹と鋼を有無も言わせず放り出した。


「……ったく!」
 盛大にため息をついて見渡した床はびしょ濡れだ。
 自分でモップがけなんて死んでもやるものか。
 俺はかろうじて乾いた部分の残るソファに腰掛け、指先に残る噛み跡に目を落とした。
 噛まれた跡はそんなに強く歯型が付いているわけでもない。
 だいたい魔皇の俺が、犬に噛まれた位で怪我するかよ。
「犬一匹に入れ込みやがって……」
 元々濡れてしまったシャツだ、と思うと乾いた部分を探して座っているのも可笑しくなり、俺は身体をソファに伸ばして寝転がった。
 高い天井に揺れるモビールに届かない手を伸ばす、その指先からもう傷は消えている。
 魔皇として覚醒してから、俺の身体を傷つける存在は無くなってしまった。
 飢餓や傷の痛みに苛まれる事も無い。
 人化を解けば、逢魔も通常の人間以上の身体能力を発揮する。
 それに比べ、獣の命は短く儚い。
 犬なんてすぐ寿命が来て死ぬというのに。
 どうせその時がきたら鋼の事だ、ぐずぐず泣くに決まってる。
 どんなにちっぽけな命でも、それが失われれば心が折れる程悲しむ……俺の逢魔。
 俺が物事全てを計算して動くのに対して、鋼は馬鹿正直にその気持ちのまま行動する。
 俺には出来ない事だ。
 サァ、と雨だれが窓を打つ音が聞こえる。
 外はまた俺の嫌いな雨が降り始めていた。
 鋼を追い出してからもうかなり時間が経っている。
「あいつ、帰ってこないな」
 出て行けって言ったのは、俺の方か。
「……チッ!」
 今日の俺は毒づいてばかりだ。


 魔皇と逢魔の間には、魂を繋ぐような特殊な繋がりがあるらしい。
 スピリットリンクと呼ばれるそれを今まで意識した事は無かったが、かすかだが鋼の気配を感じられた。
 半信半疑の俺だったが、鋼はその気配の先に見つかった。
 その時確かに、自分と鋼はお互い唯一無二の存在なのだと思った。
 すぐに見つかると思った鋼は、マンションからもかなり離れた公園の木の下、懐に犬を入れて所在なさげに立っていた。
 どしゃ降りではないが、傘も差さずにここまで来たのなら服も中まで濡れているだろう。
 瞳を伏せ、普段は上げている前髪が濡れて額に降りている。
 こんな表情の子供を見た事がある、と俺は思った。
 資料集めで、夜間も営業する託児所に行った時だ。
 なかなか迎えが来なくて、寂しく一人遊んでいた子供。
 俺が声をかけるよりも早く、鋼の方がこちらに気付いた。
「眞人殿……」
 喜ぶかと思った鋼の表情は暗いままだった。
「こんな所にいたのか。帰るぞ」
 傘を差しかけて見上げた鋼は、頭を振って懐の犬を抱き締めた。
「拙者、戻れぬでござる。この子の飼い主を見つけないと……」
 意外と頑固で頑なな所が鋼にはある。
 俺は「あー」と頭をかきながら、半分自棄になって言った。
「床は濡れたままだし! 珈琲出す奴はいないし!」
 まばたきする音も聞こえそうな程、鋼の目が丸く見開かれている。
「いつもデカイ図体で部屋にいる奴が急に居なくなったら、落ち着かないんだよ! 俺が!」
 一息にそこまで言って、小さな声で付け加えた。
 鈍いこいつにはこの位はっきり言わないとわからないだろう。
「……お前がいないと困る」
 俺の最後の一言で、ようやく鋼の表情も微笑に変わった。
 ずいぶん手間をかけさせる奴だ。 
「戻るぞ! 犬はもう少しうちに置いてやる」
「本当でござるか!?」
 にこにこと大きな身体を屈めて傘に入る鋼が何だか癪にさわって、俺は鋼の手に傘の柄を押し付けた。
「お前が差せっ」
「は、はい!」
 耳の辺りが熱いのは気のせいだと思いたい。
 それでなければ、冷えた身体が再び温かくなるホメオスタシス。
 鋼の顔が少し赤いのは、多分風邪のひきはじめだ。
 そういう事にしておこう。


 付けっ放しにしたリビングのテレビが、ペット自慢の番組を流している。
 画面に出ている犬は、以前ここにいた奴と茶色の毛並みが少し似ているかもしれない。
 まあ、俺は犬の種類なんて相変わらずわからないが。
「あの子、元気にしてるでござろうか」
 あれから程なくして、犬は新しい飼い主の元にもらわれて行った。
 犬なんて二度とうちに入れるかよ。
 これ以上でかくて主人の周りをぐるぐる走り回る奴が増えてたまるか。
 テレビから梅雨明けのニュースが流れる。
 大嫌いな雨の季節も終るようだ。

(終)