<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


花より他に


 ――何故、彼女に渡したいと思ったのだろう。
 緩んだ指先から危うくシャープペンが落ちそうになって、羽月はようやく自分が意識を飛ばしていた事に気が付いた。この所いつもそうだ。
黒板に目をやれば、書いてある内容は先程からたいして進んではいない。ほっとしてノートにペンを走らせる。教壇では古典の教師が和歌の解説をしている。
「――である。次、サファト」
「はい」
 かたん
 小さな音を立てて銀色の髪の少女が立ち上がった。
「もろともに あはれと思へ 山桜 花より他に 知る人もなし」
 読み上げるとリラは静かに席につく。銀色の髪が彼女の動きにつられて揺れた。
彼女の声は歌っている時は勿論だけれど、こういう時も聞き心地が良い。そんな事を思いながらふと気付く。
 花より他に知る人もなし
 勿論この場合の花は山桜なのだが、羽月にはそれが鈴蘭を思わせた――あの花はまだ咲いているのだろうか。
 ――ああ、まただ。
ミュゲの日からまだ然程時間が経っている訳ではないが、気が付けば考え続けている気がする。
 何故、私はリラに花束を渡したのだろう?
 勿論それはミュゲの日であったからだし、幸せになって欲しいと思ったからでもある。
しかし、何故彼女だけに?
友人にも家族にも渡していない――リラよりずっと親しい人達に渡そうと思わず、何故彼女にだけ?
 答えの出ない疑問に少年は戸惑い、そして繰り返し考え続けていた。後一歩で手が届く筈の答えにまだ行きつけていない。それがもどかしい。
 今日は道場でじっくりと素振りとして精神を鍛錬せねばなるまい。
 おのれの未熟さ故にそうなのだと感じた羽月は放課後に思いを馳せた。


 今日は部活の練習日ではない。そして友人との約束もない。
 だからリラはまっすぐに家に帰ろうと廊下を歩いていた。気持ちが浮き立つのは部屋で待っている小さな可憐な花のせいだ。
 ミュゲの日に羽月からの突然の贈物。
 窓際に置いた小さな硝子の花瓶に生けられた鈴蘭を思い出すたびにリラは笑顔になる。
 早く帰ってお水を換えてあげなくちゃ。
 そう思いながら足を速めると、ポケットにしまった鈴蘭香が揺れて香りを届けた。それもまたリラを幸せな気分にしてくれる。
 羽月は別に大した事ではなかったのかもしれない、けれどリラには二つともとても嬉しい贈物だった。
 幸せな気持ちで歩いていたので、つい目の前を見る事をおろそかにしてしまっていたかもしれない。いつも通りの予定で曲がったその角から、ちょうど誰かが出て来る所でリラは危うくぶつかってしまいそうになった。
「危ない。……リラさんか」
「あ……藤野くん」
 頭上から降ってきた驚きの声にリラは真っ赤になる。まさか考えている相手に、うっかりぶつかりそうになるなんて。
「失敬。どうやらぼんやりしていたようだ」
「いいえ、私こそ。……あの、ごめんなさい」
 頭を下げたリラに羽月は小さく頭を振った。そして何かに気が付いた様子で口を開く。「……この香り」
「はい。……その、ご迷惑でしたか?」
 鈴蘭香の香りがどうやら羽月にまで届いていたようだ。気が付いてくれた嬉しさに頬を染めながら、リラはそれでも申し訳なくなって尋ねる。
 ずっと持ち歩いているなんて変に思われたかしら。
「とんでもない。持っていてくれるなら嬉しい」
「よかった……。あの、今日も道場にいらっしゃいますか?」
「ああ。一度荷物を置いてから行こうと思っているんだ」
「そうですか、あの、気を付けて……」
どう言えばいいのか判らずしどろもどろになった言葉に、羽月は頷いた。
「リラさんも、事故には気を付けて」
 そういえば出会い頭に危うくぶつかる所だったのだ、と思い起こして、リラはしっかりと頷いた。


 窓辺で白い小さな花が風に揺れている。花影がゆらゆら揺れるのをリラは頬杖をつきながら眺めていた。
 眺めながらリラは、時折花瓶の方向を変えてみる。どこか一方向ばかり日に当てていると奥の方の花には日差しが当たらないままなので、リラは花瓶をぐるぐる回す事になった。
 仄かに香るのは鈴蘭の花か、鈴蘭香か。
 リラには判断がつかなかったけれど、それは目を閉じていても、香りだけでリラを幸せにしてくれる。ミュゲの日に鈴蘭を貰った人が幸せになれるというのは本当の事なのだとリラは思った。
 掌に鈴蘭香を握り締めながら、今日学校であった事を思い出す。
 放課後、昇降口近くで行き会った羽月をリラは思い出す。無愛想にも見えかねないのに、羽月はとても優しい。その優しさに気付けるのが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
 だって。
 リラは思う。
 だって、ただの親切で花束をくれたのではと思ってしまいそうで怖い。
 もっと怖いのはその想像が真実だった時だ。
 そうじゃないと信じたいのに――。
 どんな気持ちで彼は渡してくれたんだろう。
 リラは目を閉じてあの時の事を思い出す。こういう時の作法は良く判らない。そう言って差し出してくれた鈴蘭が嬉しくて、あまり彼の顔を見る事が出来なかったから、あの時どんな表情だったのか判らない。だから、リラは思い悩むばかりだ。
 少しは期待してもいいのかな?
淡い期待がリラの胸に芽生える。
 少しでいい。ほんの少しで良いから――あの人の特別な好意を向けてもらえているの? 期待してしまってもいい?
答える人のない問いが胸の中でぐるぐる回る。
 でももしも。
 もしも期待して駄目だったらどうしよう。
 もしも勘違いだったらどうしよう。
 浮き立った心を冷やすような不安が湧き上がる。そして心のどこかはそれが正解だと囁くのだ。期待するなんてそもそも間違っているとリラを諭そうとするのだ。
 ふわり
 風がリラの物思いを妨げるように揺れて、鈴蘭の香りがリラを包む。リラは手にした鈴蘭香を改めて見なおした。
 鈴蘭の花のモチーフのそれは、リラの心を暖かにしてくれた。
気まぐれなんて、簡単におこす人じゃないのに。
確かめもせずにすぐ疑うリラを諌めて、慰めてくれているようにも思えた。
「……胸の中で思っているだけなら自由よね」
 今はこれで精一杯。リラはそう思いながら、席を立つ。そろそろ5時を回ろうとしていた。
「藤野君、道場に居るかなあ」
 そっと見るぐらいならきっと邪魔にならない筈。そう思い、リラは部屋を後にした。


 羽月は防具をつけないまま、深く頭を下げた。袴を払うようにして立ち上がると、道場の端に向かう。
 そこには鏡があった。おのれの姿を写すそれに目礼すると羽月は竹刀を正眼に構えた。
 ゆっくりと振り上げて、素早く振り下ろす。
 しばらくはその単調な動きを繰り返す。鏡の向こうの少年もまた、同じ動作を繰り返していた。
「はっ」
 深く軸足を踏み込んで、鋭く振り下ろす。
 すぐさま足を下げて元の位置へ。
 鏡の向こうの自分の動きを確認しながら、羽月は素振りを繰り返す。
 ――ご迷惑でしたか?
 鈴蘭香を持ち歩いていた少女は不安げにそう言った。そんな顔をさせたい訳ではなかったのに。
 リラにはいつも笑っていて欲しいのだ。彼女の顔が曇る所なんてみたくもない。
 そう、私はリラにはいつも幸せで居て欲しいのだ。だから鈴蘭を贈った。
 ふと、嬉しげな表情が脳裏をよぎる。そう、あんな表情でいつもいて欲しい――出来れば自分の側で。
 ふと湧き上がった言葉に羽月は動きを止めた。
 今なんと?
 幸せでいて欲しい相手ならいくらでもいる。けれども、自分の側で幸せでいて欲しい相手は限られている――そして、リラに関してはそれだけでは足りない。
 例えば友人の誰が、家族の誰が、どんな相手の隣で笑っていても構わない。勿論その相手がどんな人間なのか、気になりはしても、笑ってくれているのならそれでいい。
 しかし、リラに関してだけは違う。
 彼女を笑わせるのは自分の役目だ。
 彼女の悲しみを和らげるのは自分の役目だ。
 ――自分の役目であって欲しい。
 自分以外の誰かの隣で笑うリラなんて想像したくもない。具体的に誰を並べる訳でもなかったから、その事に今の今まで気が付かなかった。
 リラが笑っていて欲しい場所は他のどこでもなく、羽月の隣なのだ。
 時折見せる心細そうな表情を羽月はその腕で守りたいのだ。そして笑顔になって欲しい。
 その気持ちを何と言うのか、我儘な独占欲を何と言うのか。
 羽月は知っていた。恋だ。こんなはっきりした思いをどうして今まで気付かずにいられたものか。
 鏡の向こうの少年は顔を赤らめていた。道理で頬が熱い筈だ。
 何度か深呼吸をして、頬を叩くと、羽月は竹刀を構えなおした。
 私はリラさんに想いを寄せている。
 だから鈴蘭を贈りたかったんだ。
 ここしばらくの迷いは晴れて、残ったのは今し方気が付いた淡い想い。
 まっすぐに何度も竹刀を振り下ろす度に迷いは消えていく。
 気付いた以上、この想いをなかった事にするのではなく、育てていきたい。
 そしていつかリラに伝える事が出来たなら、振り向いてもらえる事が出来たなら。どんなに良いだろう。
 どうすればいいのかは判らない。今はただこの想いに気付けた事が嬉しい。
 ――それからどの位経ったのだろうか。羽月は視線に気付いて手を止めた。
 視線を巡らせば、銀の髪の少女がこちらを見ている。淡い頬笑みが、躊躇いがちな不安そうな表情に変わる。
 どう言えばいいのだろう。見られている事が決して不快ではないと、どう伝えればよいのだろう。
 生来口が達者な方ではない。うまい言い方を見つけられずに羽月はただ微笑んだ。それ以外、どうしていいのか判らなかったのだ。
 しかし。
 リラは嬉しげに微笑んだ。
 ああ、これでよかったんだ。そう思いつつ、リラの頬笑みがとても誇らしい。
 ――花より他に知る人もなし
 そう、今はあの鈴蘭以外彼の気持ちを知る者はない――けれどもいつか。
 届けたい気持ちを胸に、少年は想い人と言葉を交さないまま見つめあった――。


fin.