<東京怪談ノベル(シングル)>


再びの始点

 その二つの出来事が同日の出来事となるべく決定されたのはなにも特別な力が働いたわけではなく、誰の意図も関与していない純粋な偶然というものがもたらした結果だった。大袈裟に騒ぎ立てるほどのことではない。ただそれだけの過ぎる一日として連続する時間のなかを流れていくなかに生じるほんの僅かな一つの出来事。そんな些細な出来事としてひっそりと人々の意識に触れるか触れないかの程度であってもなんらおかしくはない。それをあたかも特別な一日であるかのように騒ぎ立てたのは誰でもない、当事者である一人と一匹を取り巻く人々であり環境である。
 かつてプロレス界を賑わせた悪役覆面レスラー、ギルティカイザーこと神薙猛流の復帰戦とかつて競馬界を賑わせた彼の愛馬の復帰戦が同日になったことをマスメディアが騒ぎ立てずにいられるかといったらそうではなく、同時に彼らのファンもまたそうしたマスメディアに扇動されるようにして訪れるその日に向けてある種異常ともいえる熱を高めていった。そうした渦中でただ猛流とその愛馬の関係者である騎手や厩舎スタッフだけが冷静だった。大切なことは騒ぎ立てる周囲に便乗することではなく、自身らに与えられたその日を華やかなものにすることだけだとでもいうように、煽り立てるかのようなインタビューを繰り返す記者や過去を引きずり出して今はどうかと比較し書き連ねる各社のスポーツ新聞を黙殺し、流し続けた。
 しかしそうしたからといって周囲が生み出す熱が冷めるのかといったらそうではなく、当事者たちが適度な沈黙と冷静さを維持しようとすればするほどに熱は高まり続けていった。
 決戦のその日まで片手の指で数えることができるようになれば尚更に、プロレス界と競馬界という常ならなんら関係もないような二つの業界を巻き込んだ異常な加熱報道が続くようになる。連日紙面を飾る記事やニュースで伝えられる情報に猛流とその愛馬の話題が取り上げられないことはなくなり、当事者を取り囲む周囲へのインタビューも当然のように激しいものへとなっていった。
 ある記者は互いの復帰戦をどのように考えているのかと猛流に問うた。猛流はただ笑って、
「まあ、お互いにいい結果が出るといいね」
と軽く答えたのだったが、悪役レスラーらしい過激でどこか乱暴な答えを期待していたとでもいうのか記者はどこか期待外れだったとでもいうような表情をしたことを見逃すようなことはなかった。周囲だけがひどく高い熱を纏い、事実をそれ以上のものへと演出しているのが明らかだった。
 そうした現実に正直、猛流は辟易していた。ただ与えられたその日を自身が納得できる日にするまでなのだと思えども加熱しすぎる周囲のテンションに疲れている自分が確かに存在していることは否めない。それは周囲の人間も同じで、まるで騒ぎ立てること自体が楽しいのだとでもいうような周囲を他所に当事者たちはそっとしておいてもらえないものかと少しずつ疲労感を蓄積させていっていた。
 そんな当事者たちを他所に熱は高まり続け、決戦のその日が訪れ、当然のように過ぎるまでは冷めることはない気配ばかりを濃くしていった。猛流の対戦相手は声高にいきり立つようにして、
「長期ブランク明けには負けない。いや、復帰戦を引退試合にしてやる」
と記者のインタビューに答え、彼らを、そしてそうした報道を待ち望むファンたちを満足させた。競馬記者たちは揃いも揃って過去の名馬には出番はないのだといったような分析をしてみせる。そうしたマイナスの報道ばかりでは当事者たちが辟易するのも仕様がないことだ。しかしそれを表に出すことの出来ない苦痛がどこかで猛流のストレスになっていた。
 だから当事者たちとは全く関係のないところで加熱の一途を辿る周囲の騒ぎの合間を縫って、猛流は自身の愛馬の元へと足を運んだのだった。同じ日に決戦を控えた戦友に会うような心地で足を運んだその場所で、彼の愛馬はただ静かに彼の訪れを待っていた。耳をぴんと立てて、潤んだ大きな黒眸でまっすぐに猛流の姿を捉えるとすっと鼻先を摺り寄せる。それに答えるように猛流は手を伸ばし、そっと鼻先を撫ぜた。
「三年か……」
 呟くと不意にその長すぎる年月の重みが肩に圧し掛かってくるような気がした。三年、と言葉にすればそれだけの年月。しかしそのなかには確かにその長さ相応の大きな出来事が存在していた。忘れるには膨大すぎる時間。それを抱えて決戦のその日に臨む。怖くないのだといったら嘘になる。しかし逃げるわけにはいかないという気持ちがそれを勝る現実に、逃げるつもりであれば初めから復帰戦に臨もうなどとは思わなかったと猛流は改めて確認する。
「お互いに長期休養明けだけど…勝とうぜ」
 力強く云う猛流に答えるように愛馬は一声高く嘶いた。
 その声に、猛流はたとえ言葉が通じることはなくとも、何か一つ大きな約束を交わしたような気持ちになれた。



 そして約束は当然のように果たされる。
 勝とうが負けようがそれまでの熱を引きずるようにテンション高く報道されることは目に見えていた。負ければそれなりの嘲りを受けることも覚悟の上だった。しかし勝てばそれ以上の賞賛が紙面を飾るであろうことも猛流は十分にわかっていた。
 予想は裏切られることなく華やかに紙面を飾る結末をもたらす。
 猛流は試合の翌日、手にしたスポーツ紙の一面を眺めて満足そうに笑った。
 名レスラーと名馬はそれぞれに相応しい栄誉ある言葉とともに紙上を華やかに飾って、そこにあった。