<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ミュゲの惑い


 リラはと深いため息をそっとついた。
 補習が少しだけ心の支えになるなんて思いもしなかった。
 家にいれば、彼がくるかもしれない。姿を見るかもしれない。――それが怖い。
 期待してしまう自分が怖い。
 それを悟られてしまうのが怖い。
 ――何故期待するのかを考えてしまうのが怖い。
 考えてはダメ。それはダメなことよ。
 リラはそう自分に言い聞かせる。そう考える理由には目を瞑って言い聞かせる。
 ため息がまた一つ。
 ため息を一つついたら、幸せが一つ逃げる。
 そう言ったのは誰なのか、忘れてしまったけれど、リラはそれでもいいと思っていた。
 幸せになる資格が自分にはないから。
 そんな風に考えてはいけない事をリラは知っていたけれど、そう考えるリラ自身を否定する事は出来なかった。
 誰かがリラの背中をつついた。
「……ファト、サファト! 寝ているのか」
「あ、はい」
 教師に呼ばれている事にようやく気が付いて、リラは後の席の友人に感謝の視線を送りながら立ち上がった。
「寝てたのか?」
「いえ」
「そうか。y=x+2の定義域が-3<x<5の時、値域は?」
 突然言われてリラはきょとんとする。一年の問題だ。黒板に書いてある内容とは違う。リラにもちゃんと答えが判るレベルだ
「……-1<y<7です」
「よろしい。ぼーっとしていたな。悩み事か?」
「そういう訳じゃ」
「大いに悩め。だが、授業時間中は数学で悩めよ?」
 方程式は簡単に答えが出るがな。そう言って笑う教師にリラは曖昧に笑顔を浮かべるしかない。簡単に答えがでないのは数学だってそうだ、とリラは思うのだけど、数学教師にとっては違うらしい。
 数学が好きだから、そんな風に言えるのかしら?
 首を傾げながら席につくと、リラは途中で止まっていたノートの続きを書き込み始めた。確かに今は授業に集中しなくてはいけない。
 しかし、書かれた場所まで書き進めるとリラは視線を巡らして、校庭を眺めた。
 あの人は今頃道場にいるのだろうか。
 そうやって気になる心の名前をなんというのか、リラは知らない。知ってはいけない。


 リラが補習を受けている事を聞いたのは昨日の事だ。
 姿が見えない事を気にしているのを悟られた訳でもないだろう。ただ、高校時代、数学が得意だったという師範が、そんなに苦手なら教えたのに、と苦笑しながら話していた時、羽月がたまたまそこにいた、というだけの話だ。
 別段、道場に午前中から行く必要もない。
 そう理由をつけて、今高校に向かう自分を羽月自身、変わったなと思わない訳ではなかった。ただ、リラは終業式の前から少し悩んでいる様子だった事が気にかかるのだ。
 悩みを分かち合いたいとまでは言わない。ただ、少しは気が晴れたのだろうか、それが気になる。
 幸せでいて欲しい。スズランに託した願いが、いつのまにかエゴに変わる。
 幸せにしたい。自分の側で笑っていて欲しい。
 自分勝手だと思わなくもなかったが、それが偽らざる羽月自身の気持ちだった。そんな存在であるリラの悩んでいる様子が気にならない訳がない。
 勿論、道場にいれば、会う事も出来るだろう。いつになるかは判らないけれど、同じ場所にいるのだし、機会がない訳ではない。
 しかし、学校にいるのなら、会いに行った方が確実に会える。勿論、会いに来たなんて言う訳にはいかない。嬉しそうにしてくれるならまだしも、困惑させてしまうのは嫌だ。
 いつのまにか近付いていた筈の距離がまた遠くなり始めている事に羽月は気付いていた。
 勿論それ程親しかったとは言えないけれど、確かなものがあった気がするのに。
 偶然をかさねる度に、躊躇いがちに微笑んでいた彼女は、今切なげに目を伏せる。
 偶然以上を望み始めた彼を嗜めるようにリラは沈んでいる。そう思えた。
 だから、それを確かめたかったからかもしれない。
 図書館で借りた本を片手に羽月は密かなため息を付く。借りた本を返しに、なんて実に言い訳がましいが、それしか思いつかなかった。
 補習が終る頃合を見計らって階段を昇る。
 ざわついた様子が階下からでも感じられて、羽月はそっと微笑んだ。――会えると良いのだが。
 階段を昇りきると、ちょうどリラが教室から出て来る所だった。
 少女の姿に気付いて立ち止まった羽月に気付くと、リラのおもてに幾つかの感情が表れては消えた。
 嬉しそうな表情を見せたのは一瞬だ。それから戸惑うように目を伏せて、もう一度あげた時には躊躇いがちな笑顔が浮んでいる。どこか辛そうにも見えるのは果たして気のせいだろうか。
「……羽月さん、珍しいですね」
「ああ。本を返しに来たんだ」
「そう……、どんな本なんですか?」
 ハードカバーの背表紙に書かれた著者名はアガサ・クリスティ。海外の推理小説家である事はリラも知っていた。
「なんだか珍しい本を読んでるのね」
「そうかもしれないな。友人に薦められたんだ」
 短編集から読んでみて、面白かったら次はこの話で。などと事細かに指示した友人を思い出して少年は苦笑する。
「面白かった?」
「ああ。また別の話を読みたいと思って早めに返しに来たんだ」
「じゃあ、またこうして会うかもしれませんね」
 その表情はどこか硬くて、羽月は戸惑いを覚えた。いつもなら少しだけ笑ってくれていた気がするのに。
「ああ、また会えるかもしれないな。……学校で会えるかもしれないっていうのも少し不思議な気がするな」
「夏休みじゃなければ、毎日顔を会わせますよね。だからそうじゃないと、学校で会うのって少し不思議」
 リラはかすかに笑う。確かに長期休暇になった途端、学校で会うという表現がしっくり来るのは不思議な気がする。同じクラスだ。普段なら会うのが当然なのだ。
「……あ、そろそろ行かなくちゃ。それじゃあ、また」
「ああ。リラさんはこれから帰るのかい?」
「ええ。午後はどこかに行くかもしれないけれど。羽月さんは道場に?」
 頷くとリラはにこりと笑った。躊躇いがちな、それでも優しい、羽月の好きな笑い方だ。
「頑張ってくださいね。……それじゃ、また」
「ああ、また」
 去って行く小さな背中を見送ってから、羽月は図書館へと歩き始める。
 やはり、距離を置かれている。
 どこか硬いリラの表情が目蓋から離れない。
 以前ならあんな表情をしなかった筈なのに、今は何故。そんな思いが拭いきれない。
 最後に見せたあの笑顔はいつも通りで、だから羽月は戸惑う。
 嫌われたのだろうか? まさか! まさか、だと思いたい。
 嫌いな相手にあんな笑顔を向ける人ではないから、嫌われてはいない筈だ。
 いや、と羽月はまた思いなおす。
 自分がそう思っているだけで、違ったのだろうか。或いは。羽月は考える。
 ――まさか、気持ちを気付かれたから?
 変わり始めた気持ちをリラは彼が何も言わなくても悟っていて、だからあんな表情になるのだろうか。
 判らない。
 今はまだ何も判らない。
 判るのは自分の気持ちだけで、相手の気持ちとなると僅かな手掛かりを捜し求めても、応えを出せなくなるばかりだった。
 急速に変わり始めた二人の関係に、羽月もまた戸惑い、答えを見失おうとしていた――。


 階段を下りると、リラは胸元でそっと手を握った。昇降口を通り過ぎて、階段の影に身を潜めるとようやく安心できて、深く息を吸う。
 変だと思われなかったかしら?
 この愚かな胸のうちを悟られたり、しなかったかしら?
 羽月の姿を見つけた時に、リラは期待してしまった。彼がリラに会う為に来てくれたのではないかと期待してしまった。
 それは好きだから。
 好きな気持ちが彼の行動の理由を勝手に想像してしまった。
「ダメじゃない」
 切なく呟く。『好き』なんて許されない気持ちだ。
 ――リラ一人残して行ったりはしないわ。ずっと一緒よ。
 耳元で母が囁いた気がした。
 残されてしまった筈の自分は、それでも半分以上連れて行かれてしまった。
 心はあの日から囚われたままだ。
 死を望んだ母も、その望みを結局は受け入れてしまった父も、リラは愛している。愛しているから離れられない。
 自慢の両親だった。リラはいつも幸せだった。
 その幸せを壊してしまったのは、何? ――心が壊してしまったの。
 想い合う心がすれ違い、素敵なものの筈の心がリラの幸せを壊してしまった。
 ――リラ一人になるのは辛いだろう。ほら、ずっと手を握っていれば怖くない。
 そう言って握ってくれたのは暖かな父。けれど、あの時ばかりはその手は冷たかった。
 リラは両手を握り合わせて、温めるように息を吹きかけた。
 一人で残ってしまったのは私。
 離さないと言ってくれた両親を裏切ってしまったのは私。
 その私が、どうして幸せになれるの?
 『好き』は怖い事だと身を持って教えてくれた両親を、どうして裏切る事が出来るのだろう。
 見つめていれば幸せだった。
 たまに言葉を交わせば天にも昇るよう。
 それは変わらない幸せ――それ以上を望まなければずっと幸せ。
 けれど、私は望んでしまった。あの人が私を見ていてくれるかもしれないと期待してしまった。
「そんな事ある訳ないのに」
 自分に言い聞かせるようにリラは呟く。見つめていれば幸せだったのに、いつのまにかそれ以上を望んでいる自分を戒めるように。
「好きになって貰える訳がないのに」
 だからこれ以上期待してはダメ。リラは自分にそう言い聞かせる。見つめる、その幸せさえもこの気持ちは奪ってしまうから。
「好きになってはダメなの。これ以上はダメなのよ」
 胸元にしまった鈴蘭香をそっと取り出して握り締める。幸せを祈ってくれたのはリラが彼にとっての特別だからではない筈だ。それなのに、特別でいたいと期待してしまった。
 そんな願いが叶う筈もないのに。
「羽月さん……」
 呼ぶ声に応える人はなく。
「羽月さん」
 好きです。
 そう伝える事は許されないから。
 だからリラは心の中でだけそう告げる。


fin.