<東京怪談ノベル(シングル)>


THE FOOL
 線香の香りは暗い部屋の中に漂い、むっとした湿気と混ざって彼、狂闇 昴露の感覚を刺していく。
肌は先程まで降っていた雨によって過敏に研ぎ澄まされて、ぞわりと産毛が立っていた。嫌な何かを感じてしまうのだ。
肉眼では捉えきれない程に細かく砕かれた雨粒を抱く空気は、それとは別のまた何かを潜ませている。生理的に厭な何か。丁度、一人で立つ夜路で肌を振るわせる異質なそれが、今の大気には含まれているのだ。人に恐怖ではなくとも違和感を覚えさせる雰囲気を持っていたのだ。
 匂わせるその元凶は、彼の目前にある白い布だった。
 いや、その白くも薄い布に包まれたモノ。
「…………な……」
 ぽたりぽたりと、彼は黒き髪より水滴を、喉からは振り絞るように声を零す。勿論、彼は目の前にあるその事実を聞いていた。半ば意識を混濁させながら生温い雨を掻き分けて此処に来る時に、既にそうだとは知っていた筈だ。だが、理解まではできていなかったのだ。だからこそ、今こうしてソレを目の当たりにし、動揺しているのだ。
 ――悪い冗談であった欲しい。間違った嘘であってほしい。
 心の何処かでそう思っていた。だからこそ、その希望が溶けて漠然と―――絶望に塗り変わったのだ。
 

 ここは、警察署の霊安室だった。


 付き添いの警官の手によって、白い布が、そっと外される。下から現われたのは、血の気を失った黄色の肌と、閉じられた双眸。間違いなく、自分のよく知っていた人物の遺体だった。狂闇が忘れる筈の無い顔だったのだが、今は完全に違う物と化していた。皮膚とその下にある肉は血の巡りが止まり、ひどい土気色となっている。白い肌ならまだしも、アジア系人種の特徴である黄色のそれであるが故に、よりひどく生物的に奇質な色となっているのだ。
 頬や瞼の筋肉も完全に硬直して、一塊の石のような印象があまりにも強い。いや、それは人体ではなく死肉の塊なのだから、一塊という表現は適切なのだろう。
「…ぅ…ぁ……」
 少しずつ、狂闇の表情が歪んでいく。心で理解し切れなかった現実が、少しずつ理性を侵食しているのだ。口元を押さえる指も、今は真夏だというのに、悴むように震えていた。
 耐えるように、それでも膝がふらふらと揺れていた。がくがくと、蠕動するように揺れていた。
 それでもまだ、耐え切れていた。否。理解せず、半ば放心して思考を止めた事によって、理性が壊れるのを防いでいたのだろう。が、それも限界がある。その時の狂闇の理性は、昔に使われていた布を用いての堰のように弱く、脆い。
 そして、言葉がそれを崩す。
 
「……息子さんです」

 警官の喉から発せられた声によって狂闇の思考を閉ざしていたものは振り払われる。それは闇を払うのではなく彼を支える光を払った、もしくは暗闇の中の灯火を吹き消したのに等しい。涙と共に漏れる嗚咽はまるで喉を切り裂きながら現われるかのようにぼろぼろで、床へと零れる涙は、紅の瞳の色を吸い込み、まるで血を流しているかのよう。
 崩れるように狂闇はその場に倒れて、泣いた。 
 壊れた心の欠片を瞳から吐き出すように、啼いた。





 それは、七年前の事だ。
 その後の事を彼は余り良く覚えていない。ただ、後日になって伝えられた話によると、彼の息子は通り魔によって殺害されたという。
 けれど、狂闇はそれを信じたりはしなかった。




「例えば、じゃ」
 ぽつりと声を落とす。ベッドの上から上半身だけを立たせ、硝子の窓へとその指を這わせる。外にはあの日のように驟雨が降り注ぎ、大地を湿らせている。土を溶かして泥と化し、どろどろとぬめらせている。
 それが、窓から見える光景。雨粒だけならまだ綺麗なのだろう。だが、その下の大地を凝視するには余りにも、グロテクスだった。
「……通り魔なら、何故打撲の跡があったのであろうな? 幾つもの傷痕があったのであろうな?」
 ぽつり、ぽつり、ぽつり。単語と単語の間に不明瞭な響を載せ、狂闇はやつれた微笑を浮かべる。自虐的で、なのに何処かどろりとした微笑み。
「そうなのじゃよ。通り魔ならば、嬲り殺す必要が何処にあったのじゃ? 鋭い刃物で腹を刺すはずじゃろうて。わざわざ、金属バットで何度も殴打する必要はない」
焦燥しきったその顔に浮かべられるそれは、ひどく人形的な、非人間的なものだ。
表情をその間々に、狂闇はくくくっと、喉を動かして笑う。
 彼が聞くには、彼の息子の死因は殴打による頭蓋骨の骨折と、脳挫傷。が、体中に骨折の跡が見られ、凶器は恐らくバットだというのだ。
 果たして、通り魔がそのような獲物を使うのだろうか。なんとも効率が悪く、一つでの犯行ならば時間の掛かる殺害方法だ。本当に通り魔だというのなら、もっとスマートかつ速やかに殺す筈なのだ。
 だから、狂闇は通り魔の犯行だというのを信じられなかった。
 そんな事を言った警察も信用できなかった。
 息子の葬式が終った後、彼は独自に息子の事件の調査を始める。警察からは資料だけを貰い、探偵も雇った。しかし、まるで雲を掴むかのように、手ごたえがない。専門家である筈の探偵ですら、警察のいう通り魔の情報さえなかったのだ。
「見つからぬか……だがな。通り魔であれ、例えそうではなかったとしても……復讐はさせてもらうぞ」
 喉奥で彼は笑う。笑い声は踊るように部屋に隅で反響し、虚しく木霊す。彼以外に部屋には誰も居ない。
闇に埋もれた月がその華麗なる白さを一人孤独に湛えるよう、狂闇は綺麗な雨音の中、暗く哂う。


 

 

 それから、一ヶ月が過ぎる。
 見つからないものが、ふとした時に見つかる事はよくある。
 けれど、それはいつも突然過ぎた。



 

 夏の夜空の始まりは蒼。暗くとも包み込むような夜が、夕刻の終わりと共に世界に染み込みはじめる。
 静寂は厭な程に狂闇の耳を覆い、視界のみを研ぎ澄ませる。全く効かない聴覚の代わりを、瞳が務めようとしているのだ。
 いや、聞こえた一声だけを脳中に反響させる。
 聴こえた、狂闇の息子の名前を。
「で、俺たちはアイツを殺しても無実の間々ってことさ。捜査本部も打ち切りってね」
 軽く、笑うような少年の声。
 それに続いて別の少年が言う。
「まあな。あの馬鹿も毎度毎度うざかったけど……本当にバットで殴っただけで死ぬなんてなぁ」
「あれだけ殴っていれば、死ぬってさ」
 けらけら、けらけらけら、けら。
 奇妙なまでに歪な笑い声。それを聞いて、無意識の内に狂闇は唇を噛み、いや、唇を噛み切った。元は獲物を裂く為にある筈の鋭い犬歯が、の口内を彼自身の血の味で湿らせる。
(なんと…云った)
 こやつらは。そう想いながら狂闇は壁に背を預け、ぐっと拳を握る。忍び込んだまでは良かった。いや、それは誰にも気付かれていない今とてそうだ。けれど、予想外の言葉に頭の中が白に染まりつつある。
「……それにしても、あれだよな。結局この世界って権力が全てってやつ?」
「だよなー。うちの親に言うだけで、全部上手く納まっているし。警察だって、力があればなんでもできるんだよ」
「通り魔、か。そうすればいいんだよな。まあ、死んだ奴の事なんて…知ったことじゃないし」
 その扉一つ向こうで、ぎりっと音が立った。狂闇の歯と、刀を握る指の発した音だ。しかし、それに気付けずに、彼らはまだ談笑を続ける。それも、狂闇の死んだ、いや、殺した狂闇の子供の話しだ。
 それが狂闇に怒りを覚えさせる。際限を知らず増えていく怒気に、刀が鞘から滑って白刃を狂闇の深紅の瞳の前へと晒された。
 そうだ。元より、ここの親を殺せという依頼にしたがって此処に来たのだ。余計なモノを殺したとしても、何の問題があるのだろうか。
 そう想うと、思考が冴える。憤りに研ぎ冷まされて剣先を覗かせ始められた殺気が、殺しの本能によって制御、昇華されて、幾数十の殺しのパターンを脳に刻んで知らせる。
 吹き出る血、断末魔、覗く断面、切り裂く感触。
 連想するたびに、彼の息が澄んでくる。怒りを向ける矛先と、その剣の形を定めて、引き抜く。
 扉から漏れてくる光によって、彼の刀、妖刀天骸が妖しく光ったように見えた。闇が、それを歓迎するかのように、厭なまでに、ゆっくりと流動する。
 屠る。それだけだ。知る。理解する。―――判った。
 握り締める刃に己の憤りと本能を預け、握り締める指に殺意を込める。それはあえてやることだ。残酷に無惨にはするつもりだった。けれど、理性は保たなくてはならない。
 何故。彼は自分に問う。理由は簡単だ。自分の名が表の世界に出ないようにしなければならない。なら、怒りに任せて剣を振るえない。
 なのに、その全てを集った少年たちの一声が崩した。

「……も、カツアゲの邪魔さえしなければ、あいつも死ななければよかったのな」
「え、でも殺す必要あったのか?」
「あったんじゃないのか……邪魔だったし」


 その、一声。それで十分だった。
 邪魔なのは、邪魔だったのはアイツらなのだから。


 
 どんっと、鋭くも鈍い斬撃音。斬り捨てられた首は宙を巡り、地へと堕ちる。
「……ぁ……っ…」
 突然の事。血臭に彩られて、現実から隔離された今が飾られる。堕ちた肉片。骸の群れ。
 そして、今言葉を吐いた少年へと刃は突き進む。弱すぎる大気の抵抗を突き破り、剣先はそれよりも脆弱な人肉へ貫いた。正確に心臓をである。刃の隙間から血は零れ、ともに、狂闇の頬に降りかかる。
 涙に、混じる。
 押さえつけようとていた理性は消えうせ、刃のみが残る。損なわれぬ憤りばかりが鋭く、微塵も其処に心はなかった。
 贈られる、死。
 「復讐が無駄で醜いと言うなら言え第三者の立場で言えば何とでも言えるわしは道化となり愚者の踊る喜劇を壊し、大切な客を喜ばせる道化となろう。さぁ今宵から死ぬまで舞台で廻り、踊り、歌い、笑おう愛しき子よ、わしの道化の芝居を見ていておくれ。狂った道化の哀しき芝居を狂狂廻る。狂狂踊る。狂狂歌う。狂狂笑うくるくる…クルクル…狂狂狂狂狂…」