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<東京怪談ノベル(シングル)>
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『 黒郷 』
黒い風が吹いた。
真っ黒な、墨色の風である。それは辺りに満ちる闇を揺らし、まるで波のように何処からか打ち寄せる。寄っては消え、消えてはまた寄る。単調なその動きばかりを、ただ繰り返す。そんな静かな夜景の底では、影が揺れて、さぁぁっと、砂が崩れるような虚ろな音を立てていた。
―――影。
濃い闇の中、それよりもさらに黒い影たち。それらの形は様々で、時折形を変えていく物もあった。恐らく、形が変わっていくのは木々のものだろう。夜風に嬲られて枝葉を揺らす木々そのものだろう。明りのない夜道の上では、実物と影との境は見えないのだ。
余りにも、暗すぎて。
ひどく、昏過ぎて。前も本物かも虚影かも、判らない。
ただ、余りにも冴える月の白さだけが、やけに目に付いた。
白い光が、瞳に刺さっていた。
「……久しぶり、かの」
そんな中で、ぽつりと声が漏れる。古風な匂いを漂わせる土塀に囲まれた夜道に、湧き出るように言葉が溢れ出した声だった。
しかし、その声からは不吉さは感じられない。
何処か淋しそうで、闇に溶けた者が失った己の姿を懐かしむような―――失った物への哀しみに揺れる、そんな声色だった。
そう。あくまで人の声に他ならない。
「何年になるのか……が、寒さだけは変わらぬの。あの日とちっとも変わっておらん。……夜も黒々として、都のものとは全く違う。や、墓所に近いからこそ、か」
苦笑も共に表れ、直後に路面を何か硬い物で打ちつけるような音が、リズミカルに鳴り出す。それに釣られるように影も音を奏で、『彼』の声を飾る。
「……人の住む場所ではこうも暗くはあるまいにな」
風が、吹いた。
そして、それが暗雲を払ったかのように、余りにも頼りない月がようやく暗闇の中から『彼』の姿を救い出す。
その姿は、闇から削り出された黒その物だ。
髪は闇と見紛う漆黒。吹くも無意味なまでにひたすら黒い和服。帯も黒墨で染めたかのような不思議な質感を持ち、裾の先から覗く白い指と、それに掴まれた長い筒状の袋だけが夜の黒からはみだしている。それだけが、彼の存在を知らせるのだ。
今宵、夜空に臨む月のような白い貌はひどく冷たく見え、生気、活気、意思。それらの、気配と呼ばれる物らを全くに感じられなかった。故意か無意識のものか、気配が完全に殺されているのだ。だからこそ、語り出すまで暗がりの中にその身が溶け込んでいたのだろう。喋るということが、彼を形作るように、彼の気配を形成し、表に出したのだ。
「………わしが住むのは……人の住む場所ではないたのだろうな」
筒状の袋を持ち変え、彼は呟き終えた。
瞬間、歪なリズムが音に紛れた。
それに怖れて強張るように、風が止まる。彼の足音はぴたりと止み、しんっと辺りが沈む。
静寂に、否、刹那の内に、何一つ動かない静謐の裡へと、沈む。
白い月は、ただただ光る。月明かりは届いているように見えない。夜空には雲ひとつないのに、光が、乏しい。
ぴたりと、彼は止まる。
そしてきっ、と月を見上げ真っ赤な瞳で月を覗いた。
鋭利な視線。闇の空を斬り付けて己が場所を得たかのような真円の月を見据え、握った袋をより強く握り締める。
かちっ。
金属と金属が触れ合うような音。
ちゃきっ。
何処かで聞いたような音だ。
ちゃきっ。
繰り返されるそれは、唾鳴りの音。
ちゃきっ。
彼の手にした袋に包まれるそれが、強く握り締められて、僅かに開き、堕ちて閉まる音。
冷たい音。
ちゃきっ。
それを聴くだけで、切り裂かれてしまいそうになる。
錯覚を刻ませる、寓音。
「……………」
小さなその音を聞きながら、彼は視線を地面へと落とした。自分の影が映る、土の地面。夢と現の間を彷徨っているかのように、何処か現実味のない闇と明りの狭間に照らされる、大地。
彼を支えるには、それは余りにも不安定すぎた。
ふっと、彼は笑った。
彼は既にもう呟いた。故に。後は告げるだけである。
この場で、風も音も光も止まった、ただ闇と月が佇むこの場で、告げるだけ。
「……わしは躊躇わぬよ。わしは、わしの道を進むだけじゃ。わしは、わしの絶対悪と自身の正義を貫く。それだけじゃ」
首を垂れた間々に孤高に紡ぎ、袋を自分の身に寄せる。冷たい刃を、肢に寄せる。
再び、風は吹いた。
けれど、それは前と同じ風ではない。風自体が音を持った強い風。
「…それだけじゃ」
長い髪を闇に躍らせながら、振るえを知らない強い声で彼は繰り返す。降りた前髪にラインを引かれた眼には何が映るのか。
それは月すら知らない。絶えず夜に浮かび続ける月さえ知らない。ただ、月は知る。月は知っている。
彼が身に寄せているのは、彼の初恋の人を殺した、その刃であることを。
「…それだけじゃ」
風が、狂ったように木霊し、彼を掻き乱そうとするかのように吠え猛る。死んだ者達が集り恩讐を奏でて、鬼哭を上げる。
刀に宿りついた妖しが笑った。
怖れるように、それを見ていた黒猫が、さっと身を翻す。
何時、だったのか。何故、だったのか。
そんなものはどうでも良い事だ。やってしまった結果は変わらない。
その記憶が瞳の奥底にへばり付いている事が問題なのだ。ただそれだけが問題。
気にしない訳ではない。気にならない訳はない。が、彼は立ち止れない。強いのだ。強さがより彼を縛る。何よりも自分形作る強さが、彼を支え、同時に自分の意思を貫かせる。
彼の名前は狂闇 昴露。
風は問う。彼は何故、まだそんな刃を持っているのか―――?
もしかすれば、それは狂っている証なのかもしれない。
狂って、ただひたすらに狂っているのかもしれない。そればかり存在意義であるかのように。
彼は、狂闇。
名前の通りに、狂う程の残酷な強さを携えるもの。
線香の微かな香りが闇を彩る。
鮮やかな赤が、暗闇に浮かぶ。
狂闇が静かに見ていたのは、一つの墓石。彼の深紅に瞳に、綺麗に洗い尽くされたその姿は入り込んでいる。
赤いのは、一輪の薔薇だ。墓に供えるには余りにも綺麗で、似合わない。花言葉自体も確実に合わない。そもそも、血を連想させる赤色の禁意であるのだ。決して墓の前に贈ってはならない。が、彼はあえてその花を選んだ。
真っ赤な薔薇を、墓に供えた。
そして、その女性と出会ったのだ。
偶然か、はたまた――理由があるのか、それは出会いに関係ない。
「……何故、ここに来られたのですか?」
哀しげな顔で、彼女は聞いて来た。
彼女の顔は、狂闇の知る顔。だが、これ程哀しみに歪んだ顔は始めて見た。秋の訪れと共に朽ちた草葉のようだった。
瞳も翳っている。
朽ちる、もしくは色褪せる程、哀しみ一色に食い破られた表情。
それを見ても、狂闇の声に震えはない。辛そうな顔なのに、迷いも、淀みも見せず、一声で宣言した。
「……処に眠っている自分が殺してしまった初恋の女性の為、じゃよ。おぬしも判っておろう…?」
その一言で何が起きるのか判っているつもりだった。
けれど、澄んだその声を聴くと、その決心を揺さぶられる。
「……そうですか」
すっと、引かれる声。
すっと、知らずに惹かされる綺麗な声。
「……そうですか」
繰り返された。
「そうじゃ」
灯火に蛾が引寄せられるよう、狂闇は応じ、
虚空から鋭い白光が滑り出し、一筋の弧を描く。
それは一振りの、刀。
夜闇と交えれぬ、磨かれた鋼の白。
「なら……私が私の姉の仇を討つ為、闘って下さい」
刃の欠片のような言葉が落ちる。落ちた言葉は闇に消えるが、引き抜かれた刃は鞘へと戻らない。怜悧な表面に冴えた月光を宿らせて、ある。
それに触発され、大気も変質していた。女性の声が砥石であったかの如く研ぎ澄まされ、異様な静けさに変わり始めている。先程まで聞こえていた風の音が遠く、遠近感が歪む。
「それはできぬ」
「どうして? あなたの好きだった私の姉を殺せて、どうしてできない?」
ぽつりと、涙も落ちる。
女性の白い頬を伝い、零れていく。透き通った雫が澄んだ殺意を湛える瞳から溢れていく。迷いという濁りを捨て、手に握る刃のように研摩する。
女性の声がひどく震えた。
「……なら、何故殺したの? それとも、『殺した』から『殺されたい』というの…?!」
怒りも憎しみも、それの根源となった哀しみも全てが滲み出した声色。声帯が孕むには多すぎて、感情が飽和している。
それら示すように、狂闇へと向けられた剣先が、一言一言の間に乱れている。
「あなただけ。あなただけが幸せになった。……だから、私は許せない」
「そうか……」
全てを聞いて、それでも狂闇は瞼を閉じるだけ。
だった筈だ。
が、次の瞬間。彼は近くの墓石に立てかけていた包みへと、その中にある刀へと手を掛けた。左で引寄せながら右手で柄を握り、引き抜く。
それが、契機となった。
たんっ、と石畳を蹴る女性。その動きは直線的過ぎるが、人を殺すには十分な速度を持つ。大気を裂く音を叫ぶ刀は、筋肉と心臓の詰まった胸部を容易く刺し貫く程に鋭い剣先を持つ。
前屈みになりながら突き進む彼女の刃が、狂闇の急所を捉える範囲に入ったのと、彼が刃を引き抜いたのはほぼ同時。が、狂闇は微かに手首を反すだけで左手に持った鞘と右の天骸を交差させ、直進する刃を止める。
ぎんっと、硬い音の側で黒い髪が踊る。
止められた。そう知るや否や、女性は後ろへと跳び退く。今のが彼女の必殺の一撃、という訳ではなかった。全力ではない。――彼が刃を抜けば、軽く止められる程度の技と速だ。
だからこそ、何も思わず退いたのだ。刀を抜いた、つまり、自分と闘う覚悟を狂闇が抱いたという事。それを確認するだけで、十分だった。
刃を引き戻し、構えを変える。刃を後ろに引きながら下へと降ろす下段の構え。上半身の防御を半ば捨て、防ぎ難い下段からの斬撃に特化させた姿勢だ。
防御に疎いという事はすなわち、疾さで決めるという事でもある。先手を取り、防御を掻い潜り斬り捨てるか、スピードで相手の防御を切り崩す。
狂闇は、微かに眼を細めた。
「………あなたは…私から『奪っていた』」
止まらない涙をそのままに、女性はそう呟くと再び駆ける。
次は、動き自体に弧を付け、側面からだ。しゅっ、と刃を啼かせて一太刀の余韻を夜に刻み、狂闇へと向う。勢いと上半身の反転を付けた、速度に鋭さを載せた太刀筋である。
対して、狂闇が取ったのは、防御ではない。
迎撃である。
全く同じ角度から、女性の刀へと天骸をぶつけたのだ。
きぃぃん、と金切り声の反響音が墓所に響く。
「……っ!」
二人の刃は同時に弾かれていた。受け止められたのではなく、丁度フェィシングで見るように、弾かれて本来の軌道から逸れたのだ。刃は僅かな間、噛み合い、全く逆へと向うが反発し、違う方向へと飛ばされる。
「……ぅっ」
痺れるような痛みが二の腕に走る。が、それは狂闇も彼女も同じだ。一撃の力は互角だったのだ。故に、二人の刃は共に弾かれた。けれど、それは同時に腕力において、女性の圧倒的不利を知らせる。
高速移動による勢い、反転させた体の捻り。それらを加えた上で、天骸を持つ狂闇は対して体を動かす座に振るった一撃に弾かれたのだ。それも彼女は両手で、彼は片手。
「……ぅっ!」
それでも、両手に力を込め、無理に刃の向おうとする方向を捻じ曲げる。
腕力では勝てない、剣術に置いて多大な部分を占める力で負けている。しかし、引く訳にはいかなかった。
無理矢理に捻じ曲げた腕が軋む。しかし、その結果、狂闇が刃を翻すより早く、刃の先は狂闇へと向けられている。心臓に向けて、突き出せる。
大気を刺し貫き、進む刃。
まだ流れる涙が宙を舞う。
綺麗、そう思った狂闇は小さく失笑し――一気に、刃を加速させる。
それは、残影だけを残していた。
「…ぇ」
軽い、溜息のような声。貫くように影はそれの中を通り過ぎ、ぴんっと跳ねる。上から降り下りたそれは、彼女の身を傷つける事はなかったが、その一振りで全てが決められていた。
女性の白刃が大気を刺し貫くのなら、狂闇の黒刀は、空間ごとそれを切り裂いたのだ。
狂闇の身に到るよりも早く、女性が持つ、その刀を。
するっと、中央より滑らかな断面を滑る彼女の刀身。それに引寄せられるように、女性は体のバランスを崩す。
再び、振り上げられる天骸。
それが振り下ろされた時、ずるりと何かが地面へと落ちた。真っ赤な血を花弁のように散し、周囲の墓石を彩る。
それは、彼女の後ろへと抜けた。否、彼女の後ろに迫っていた黒服の男だけを切り裂いたのだ。狂闇は女性の脇を潜り抜け、恐らく女性を狙っていただろう刺客へと贈った一太刀。黒服の男の腕を切り落とし、それでも黒々と光るそれ。
「ぅっ」
男は呻く。鮮血の落ちる断面を押さえ、すぐにその場から逃げ出す。
地に落ちた腕を見れば、その手の甲には真っ赤な刺青のような刻印があった。恐らくは魔皇の一人だろう。ならばあれぐらいでは死なないかもしれない――そんな事を思いながら、狂闇はまだ片手に持っていた天骸を収める。
「………大丈夫か? いや、まだ大丈夫とは云えぬの。何しろ、まだあやつは生きているのだし…これからは気をつけよ」
呆然としている女性へ、狂闇は語りかけた。
だが、女性は咄嗟に反応できなかった。斬り捨てられた自らの刀身と、切り落とされた腕を交互に見つめ、ようやく呟く。
「……助けたの?」
あたかも、自分ではなく、捨て猫を指しているかのような声、表情。
「うむ」
「……助けて、くれたの?」
もう一度呟き、女性の瞳に、また激情が湧き出し始めた。
「助けたの、私を…? 姉さんは助けずに殺して、私は助けたの…!?」
悲鳴に近かった。喉から振り絞れたのは、絶望に似た絶叫。
が、狂闇は微笑んで応じる。辛そうに、微笑んでみせる。
「そうじゃよ。……殺してしまった。じゃが、おぬしは助けたかった…今助けたかった。それだけじゃ…。殺す理由など、なかろう?」
「私には…ある……っ」
「…わしにはない。そして、おぬしにはできぬ」
そう云うと、会話は終わりと告げるように身を翻す。
「では…の。また合うかもしれんが……それまで、先程の男に殺されぬように気をつけよ」
「……まって」
掠れた、呼び止める声。漏れ出そうとする嗚咽に声帯を潰されたような声。頼りない、声。
「…私では…姉の代わりにはなれませんか……」
「そんな事をすれば、おぬしはおぬし自身を否定する……」
そう言うと狂闇は振り返り、口付けをかわす。
「では、の」
闇に溶けるような黒い姿は、墓所の闇へと紛れて―――嗚咽がそれを追う。
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