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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
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夜は、花
捨て台詞は危うく噛むところだった。しかしとりあえず、捨て台詞らしい台詞は捨ててきた。売り言葉に買い言葉とも言う。
彼女は家を飛び出していた。着の身着のまま、だ。ポケットの中には小銭入れが入っていたが、所持品と呼べるものはそれだけだ。怒りで我を忘れていたとはいえ、あまりに若く、浅はかな行動だった。
「……なんなんのよあのクソ親父! あんなんだからハゲんのよ! ギョーザつまらせて死ねばいいのに! クソ! 死ね! ハゲ!」
祀の家は、彼女にとって、窮屈がすぎた。歴史を持つ呉服屋で、ことに父親はその伝統に、脅迫概念じみた誇りを持っている。祀は物心ついたときから厳しくしつけられて育ったが、中学校に通い始める頃まで、不満らしい不満も抱かずに、父親に従い続けていた。これが『普通』だと思っていたのだ。学校のおかげで、祀は年頃の少女らしい自我を持ち、自分の家が『異常』だと気づいたのである。近頃はこうして父に反発し、たびたび捨て台詞を残して家を飛び出すようになっていた。
炎のように燃え上がっていた怒りが、ふつふつと勢いを治め、静かに滾るおき火になっていく。それにつれ、祀は夜の住宅街の静けさに気づき始めて、知らず走るのをやめていた。最終的には、とぼとぼと――歩いて、見慣れた公園に入っていたのである。
日も暮れて久しく、出歩いている者はない。犬の遠吠えさえ聞こえない。
ここのところ近辺に凶暴な野良犬か異常者か何かが出没しているらしく、外で飼われていた犬が惨殺され、子供が怪我をする事件が頻発していた。付近の住民は夜の外出を控え、買っている犬は家の中に入れている。確か、学校でも注意を呼びかけられたのだ。祀はそれを思い出し、恐怖にうなじを撫ぜられた。
ひとりでふらふらしていては危険だ。それは、わかっている。けれども、「もうあたしはあんたの子じゃない」と父親に吐き捨てた手前、今さらあとには引けなかった。
「荷物まとめてから出てくるんだった……」
家に帰る、という選択肢は彼女の中になかった。誰もいない、声さえもない公園の中に在れば、自然と気持ちも沈んでくる。怒りが完全におさまってしまえば、彼女を苛むのは後悔の念と意地ばかりだった。時折、鼻の頭がむずがゆくなって、慌てて祀は空を見た。
しかし空を見つめて涙をこらえても、月が嘲笑いながら見下ろしているのだ。
祀には、そう見えた。
けれど月には、いい思い出もある。
十五夜に、いまどき月見をする家は祀の家だ。いつかの十五夜を、祀は祖母の家で過ごした。そうだ――祖母がいる。少なくとも祖母は、いつでも祀の味方だった。父と喧嘩をして、双方があとに引けなくなったとき、いつも仲を取り持ってくれるのは祖母である。今夜も、今から向かえばだいぶ遅くなってしまうだろうが、祖母はきっと自分を迎えてくれるはずだ――祀はそれに気がついた。
祖母のところへ行こう。そうするしか、ない。
冷えたベンチに座っていた祀は、重い腰を上げた。
突然上がった叫び声に、祀は不意を突かれて飛び上がった。人間の叫び声ではなかった――恐らくは、猫のものだ。その声はしかし、人間の断末魔のように大きく、必死であった。
声があったのは桜並木の方角だ。
幼い頃から慣れ親しんだ近所の公園であるから、勝手はわかっている。近道を駆け抜け、祀は桜並木の散策路まで走った。すでに春は終わりつつあるから、並木の桜色はどこにもない。ああ、満開の桜の道を、父や祖母と一緒に歩いたこともある――。
葉桜がつくる闇の中、月明かりに照らし出されて、白い猫の姿が浮かび上がっていた。
ウウウウ、
ウウ、
ウウウ、
犬じみた唸り声が、猫の周囲にある。それに気がついてはいたが、祀をそのとき突き動かしたのは、爆発する炎の心だった。祀は視線と唸り声の中心に飛びこみ、猫を抱き上げて、並木道を無我夢中で走り出した。なにも見なかった。見てはならない気がしたのだ。
だが、
背中に大きな衝撃が走って、祀は猫を抱えたまま転倒していた。
立ち上がる前に、彼女は振り向いて、見てしまったのだ。
自分に体当たりを食らわせたのは、犬ではない。猫を襲おうとしていたのは猫ではない。蒼い毛の、目が光る犬などこの世にない。涎を滴らせながら唸り声を上げる犬どもは、犬ではなかった。不揃いな牙も、巨大なあぎとも、何もかもが現実離れした化物だ。近隣で子供や飼い犬を傷つけてきたのは、彼らにちがいない。
――た……助けて。
悲鳴は声にもならなかった。胸に抱いた温かい感触も、ぶるぶると震えているのがわかる。
――助けて、神様。
ウウウ、
「あ、」
ウ、
「あ、」
ウウるるるるる――
「あ――!」
しゅバっ!
恐怖のあまり目を瞑った祀が見たのは、終わったあとの光景だった。月が照らし出しているのは化け犬たちの屍だ。どれもがぬらぬらと血に塗れ、目を背けたくなるような光景だ。確かに祀は救いを求めた。誰かがこうしてくれなければ、もしかすると、血塗れの屍になっていたのは化物たちではなく自分かもしれない。
しかし、これは――あまりに――
神ではなく、悪魔の仕業のように残忍だ――。
そしてそこに立っているのは、ああ、悪魔そのものではないか――蝙蝠の翼と鞭のような尾、罪深き山羊の巻角を持ち、二振りの手斧を引っさげた、悪魔ではないか。
「あ、」
和装の悪魔だ、
「あ、」
血濡れの斧を引っさげて、
「あ、」
それはそこに立っているだけだった、
「あ――!」
けれども……
いま……背を向けたまま、悪魔はそっと金の双眸をちらりと祀に向けたのである。
花瀬祀の視界が炎色に染まる。身体か、魂のどちらかが――或いは両方が――ばちりと弾け、かたい殻を粉々に打ち砕いた。
焼ける……灼ける……燃えてしまう。心も過去も、何もかも。
「……いつまで腰抜かしてんのさ」
呆れた色を孕む悪魔の声は、少年とも少女ともつかない。その横顔も、あまりに中性的だった。髪と紅をさしていない和人形の素体のようだ。
「僕はきみの逢魔……都昏。やれやれ……随分情けない魔皇様につくことになっちゃったな……」
悪魔は名乗る。そうして、ため息をついた。
「……ま……いいか……。これからしっかり成長してもらえば……」
「あ、あんた……あんた、なに?!」
「だから、逢魔だよ。ほら、早く立たないと。こいつらだけで終わりじゃない。……犬の群れには絶対、リーダーがいるんだから」
ウ、ウ、ウウウウるるる……。
都昏と名乗る悪魔の言葉通り、静かに、ゆっくりと、死んだ化犬たちを束ねていたものが並木の陰から現れた。
それは、ぬらぬらと蒼く輝く、獣であった。
獣の大きさを確認するいとまもなく、祀の身体は都昏に抱えられ、横様に飛んでいた。背の翼はまがいものではないようだが、二人分の体重を支えられるほどの力はないらしい。空は飛ばず、地を蹴って彼は祀を助けた。
獣の涎と爪の一撃は祀に触れることもなかった。ただ、都昏の着物の裾が、紙のように引き裂かれただけだ。
「あれはサーバントだよ」
都昏は忌々しげに目を細めた。
「説明はあとでするね……面倒だからいまは逃げよう」
「ま、待ってよ!」
祀は猫を抱えたままだ。都昏の言葉に、思わず彼女は反発していた。
「じゃ、あのデカいモンスターほっとくっていうの?!」
「だって、僕ひとりじゃ倒すの時間かかるし」
「だめだよ! そんなの! 近所の誰かが襲われて怪我することになるじゃない!」
どういうわけか、恐怖は置き去りにされていた。祀は燃え上がる激情のままに声を張り上げ、都昏はわざとらしく大きなため息をついてみせた。
「……さっきまで腰抜かしてたくせに」
「うっさいわね!」
「……わかったよ。魔皇殻を喚び出すんだ。僕があいつを引きつけるから、なるべく一撃で決めてよね」
都昏はまるで吐き捨てるようにしてそう言うと、祀を離し、ひらりと身をひるがえした。手にはいつの間にか、あの斧がある。そうして少年は、ろくに物怖じもせず化犬に立ち向かっていった。嫌味を言いつつも、彼は祀のために動いたのだ。
――で、『マオウカク』ってなに?!
祀は猫を手放し、思わず自分の手のひらを見つめた。
都昏は舞うように跳びながら、手斧を振るって獣の爪を受け流し、時折蒼い毛並みに斬りつける。しかし彼自身が言ったとおり、倒すには時間が要りそうだ。化犬はあまりに大きく、そして頑強だった。都昏は爪や牙を引きつけてはかわし、斬りつけてはかわす。袖が、裾が、散っていく。
並木道に、花が染め抜かれた絹が舞う。
それは都昏のあまりにほそい身体が、獣の攻撃の風圧に乗っているかのような――
春のような光景だった。
――あんたが誰なのか知らない。あたしは家出しててそれどころじゃない。でも家出なんかよりずっとずっと、大きなことが起きてるのね。あんたが、何にも知らないあたしのために、やってくれてるなら……
「あたしはあんたのために何でもするわ」
何故、そう思ったのか。
何故、それが成せたのか。
そのとき花瀬祀は漆黒の弓を握りしめていた。ちらり、とまたしても金の双眸が祀を見つめる。彼は引きつけて――飛んだ。
「そんなんだったっけ?」
「そんなんだったよ」
「嘘! あたし腰なんか抜かしてない!」
「嘘じゃないよ、ほんとに情けないったら。魔皇殻喚べなかったら逃げようかと思った。……ていうか、喚べそうにないなこりゃとか思ってた」
「あんたね、説明不足なのよ! いろいろ起こりすぎていっぱいいっぱいな人間にはちゃんと順を追って説明しなくちゃ!」
「そんなこと出来る状況じゃなかったろ……ていうか、覚えてるんじゃない」
そしてここは、さくら荘。
花瀬祀の日常は、数年前の或る夜に変わった。すべてがあの月夜の桜並木にあったのだ。あの夜に、祀は魔皇として目覚めた。そして、本当に、捨て台詞の通り――呉服屋の父の子供ではなくなってしまったのである。都昏の父親が手配したさくら荘に住むことになり、逢魔・都昏と生活をともにするようになり、素晴らしい男と巡り会って――戦って、勝って、笑いあって、ここに至る。
「……そろそろ買い物に行ったほうがいいんじゃないの? 今日の当番、魔皇様だよ」
「あ――――ッもうわかってるわよ! ホラ都昏、あんたもついて来なさいよね。荷物持ち!」
「……はいはい」
そして都昏は、祀にいかに煙たがれようと、怒鳴られようと、皮肉を言いながらもついてきた。祀も都昏を邪険に出来ず、
――あんたのためなら、夕飯も作るわ。
ともにある日々が当たり前だと感じている。
何故、そう思うのか――いまの祀にも、あのときの祀にも、はっきりとはしないかたちで理解できるのだ。
春には桜、夜に月。悪魔に翼、海に風。
魔皇・花瀬祀には、逢魔の都昏。
<了>
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