|
|
|
|
<東京怪談ノベル(シングル)>
|
復讐という名の美酒
その事実は完璧に封印され闇に葬られている。その様な凶事があったことなど、どの資料を紐解いても閲覧する事は出来ない。
例外はただ1人‥‥その人の記憶の中に。
強い日差しが何もかも真っ白に染めてゆく。蝉の鳴く音も、緑濃い街路樹も、行き交う人の波も‥‥なにもかも目に入らない。後で落ち着いて考えれば、どのような些細なことも脳裏に描けるのだろうが、今はただ一つの事しか考えられない。
『嘘だと‥‥間違いだと‥‥』
そのフレーズを何度心の中で繰り返しただろう。それでいて、冷静な心の何処かがハッキリと認めている。消え失せたかの様に存在を感じ取れない事の意味‥‥それは『死』以外ない。
「どうぞこちらです」
古くさい建物の入り口を入ると、平日の昼間であったが人が沢山いた。自動車免許の更新。交通違反の罰金。なんてことない近所のトラブル。それらをすり抜け地階へと階段で下りる。辛気くさい顔をした人相の悪い男が1つの扉を示す。香の香りが不意に強く感じられた。安っぽいスーパーで売っているまとわりつくような嫌な香り。
「どうぞ」
歩き出さないのを不審に思ったのか、それともいらだったのか。その男は先ほど自分が示した扉を開けた。
どうやって歩いたのか。どうやってその顔に掛かる白い布を取ったのか。気が付けば目の前に見慣れた顔があった。真っ白に血の気のない‥‥冷たく、固い頬。
「息子さんに間違いないですね」
遠くから男の声が聞こえた。
「お気の毒です。通り魔の犯行と断定されました」
「‥‥!」
言葉にならない慟哭。涙がこぼれた。後から後から涙が湧き零れる。愛おしい命は永遠に失われた。夢も未来も全ての時間が命と共に息子から不当に奪われたのだ。そして、こんなにも自分が無力だったとは‥‥愛する息子1人助けられずに何が‥‥何が『長』だろうか。
虚無と絶望。激しい慟哭が昂露を襲った。ただ泣くだけしか出来なかった。その身体に追いすがり、声をあげて名を呼び泣いた。
季節は秋になっていた。まだ時折暑い日もあるが、今夜は台風の影響で雨が降っている。
昂露は自分の家ではない、ある大きな日本家屋の中にいた。柱から梁、襖や欄間に至るまで惜しみなく金のかかった豪奢な家だ。金が集まるところには当然、憎しみも利害もまた渦巻く。その一つが昂露を呼び寄せた。数刻後にはここで1つの命が消えるだろう。
「なんだって!」
大きなだみ声が響いた。他に人の気配がないところからすると、電話で話をしているのだろう。馬鹿馬鹿しい程に広大な屋敷なので、かえって音に気を遣わないのだろうか。愚かな事だと思うが、日々安寧に暮らしていると人は警戒心を麻痺させる。それを経験的に昂露は知っていた。今夜は思っていたよりも早く片が付くだろう。そっと男が居る部屋へと音もなく忍び寄る。
「約束が違うだろう。誰がガキのコロシをもみ消す仲介をしてやったと思ってる!」
だみ声が圧倒的な力を持って昂露の心に突き刺さった。振り上げた腕も足も動きを止める。激しく動揺しているのが自分でもわかった。特定の名前が挙がったわけではない。けれど、直感が告げていた。それは愛し子の事である‥‥と。
「そうだ。その通りだ。この俺にどれほど恩義があるのかよく考えろ。それともカツアゲしか能のない息子同様、親も能なしか」
だみ声は更に威勢を増してくる。
「明日の朝、もう一度かけてこい」
ガチャンと乱暴な音がした。受話器が本体に叩きつけられた様だ。カチリと小さな音がしてすぐに葉巻独特の匂いがした。会話が終わってしまったのではこれ以上座して情報を得ることは出来ない。昂露は意を決した。音もなく部屋へと侵入する。
「動くな」
シガーナイフに付属している小さな刃が男の喉に押し当てられていた。手にした葉巻がポトリと毛の長い絨毯に落ちる。
「‥‥だ、だ‥‥」
だみ声は言葉にならない声をあげる。いつもならばもうここで『片』はついている。しかし、今はなにより聞きたいことがあった。
「今の話について知っていることを全部話せ」
「え‥‥」
「二度は言わない。言え」
昂露は少しだけ手に力を入れる。ざっくりと刃は男の首に埋まった。しかし、太い導静脈は避けているためまだ致命傷にはならない。しかし、昂露にとりこめられた男は大げさに悲鳴をあげ手足をバタつかせた。それでも昂露から逃れることは出来ない。
「言う。言うから‥‥た、助けてくれぇ」
「‥‥言え」
男は泣きながら語った。ある組織幹部の息子がカツアゲを邪魔された腹いせにリンチ殺人を犯した事。そしてそれをもみ消す仲介として自分が警察幹部を紹介した事。事件は通り魔による殺人として処理され、今もいもしない者を犯人としている事。
「‥‥息子だ」
「え?」
ボタボタと重い水の音がして首が落ちた。昂露にそして豪華な調度品に血が乱れ掛かる。けいれんする身体を無表情に投げ捨て、昂露は真っ赤に染まった電話を取り履歴を見た。男が最後に会話した先。それは愛する息子の仇の一つであった。
「‥‥許さない」
心に渦巻く狂乱の嵐と炎。もはや昂露を止める事は昂露自身であっても不可能であった。
血に染まる昂露を、燃えだした炎が更に赤く照らした。
組織は壊滅状態であった。先ほどの男の邸同様に、血と炎が建物を染めている。火災報知器がけたたましい警報を鳴らしていたが、それも先ほどぷっつりと切れてしまった。
「お前か‥‥それともお前か? 息子を殺した男の親は」
狂おしい笑みさえ浮かべ、昂露は1人1人そう聞きながら無造作に殺す。大抵はまともに返事さえ出来ずに昂露の手に掛かって死んでゆく。どうせ全てを殺すつもりであった。ただ、実際に息子を手にかけた男だけは見つけださなくてはならない。
「言え。息子を殺した者の名を‥‥あの子を殺めた者の名を‥‥」
貼り付いた笑顔のまま双眸から涙がこぼれる。もう一月が経ったと言う者がいるが、まだ一月しか経っていない。こんなにもこの胸の痛みは深い。こんなにもこの胸の痛みは激しい。鈍い刃を突き刺されえぐられ続けているかのように、今も心は血を流す。
「息子の仇‥‥逃がさぬ」
その夜、駆けつけた消防の目の前で建物は倒壊した。
その頃、すでに管轄警察署でも血と炎の乱舞が始まっていた。火の手があがったのは警察署長の部屋からであった。警察署の全焼、宿直署員全員死亡。更には署長ら幹部職員らと組織幹部の自宅合計50がその夜のうちに全焼、家に居た者全員が焼死した。
行政は事態の隠蔽に走り、その夜の出来事はこれ程大きな騒ぎになったにもかかわらずほとんど報道されなかった。
昂露は美しい星空をたった1人で見つめる。街を見下ろす高台の公園。ここは今は居ないあの子が好きな場所であった。禍々しい火の手があちこちからあがっている。
「自己満足だと笑うだろうか」
狂おしい波は心から去り、今は虚ろな深い闇がぽっかりと心に大きな空洞を作る。この心を埋める事など到底出来ないような気がしてならない。それほど昂露は息子を愛していた。無惨に引き裂かれ、今はもう触れることさえ出来ない。けれど、例え神も魔もが認めなくても、こうせずにはいられなかった。多くの命を奪ったが微塵も後悔などしていない。
復讐が無駄などと誰が言えるだろう。何も出来ずにただ無力と虚無に晒されるより、それはずっと甘美で優しく心を包む。失われた命を思い、時折今夜の様な狂気が心を吹き荒れるだろう。それでも、その痛みを抱えて‥‥これからも在る。それが、この身に科せられた業苦であり福音‥‥そう、かもしれない。
昂露。過去から未来へとさすらう魂の放浪者。その心の闇は‥‥なお深く暗い。
|
|
|
|
|
|
|
|