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<東京怪談ノベル(シングル)>
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闇と血に染まり
むせかえるような生臭い匂いが路地に充満していた。ただの人間なら不快であると共に恐怖と狂気を感じただろうその匂い。けれど、その香りにとろけるような快楽と甘美を感じる者もいる。人の身でありながら獣に堕ちた者か、闇よりいでし魔の者か‥‥。
「見ていたのか?」
昂露は薄く笑って振り返った。自分ではない誰かがいる‥‥それはとうにわかっていた。振り返ると痩身の美女が立っていた。名は知らない。けれど魔を祓う力を持つ者であることは判っている。美女の表情は険しく厳しい。目はまっすぐに昂露を見つめている。路地は数十の身体から漏れた血で真っ赤に染まっている。昂露の身体もも返り血で赤い。
「とうとう見つけたわ‥‥やっぱりあなただったのね」
「‥‥ふふっ。見事」
固い女の言葉に昂露は満足げな笑みを刻む。黒衣の退魔者と血色の殺戮者。2人を照らすモノはなにもない。街灯も月もない闇夜に血の臭いをはらんだ風だけが吹きすぎてゆく。
「出会いは偶然であったか‥‥しかし今宵ここで逢うたは必然やもしれぬ」
昂露は女との出会いを思い出す。
そこは最近見つけたばかりの本格的なバーであった。カウンター席だけの小さな店だが、オーナーマスターを兼ねる老バーテンダーの腕は確かだ。様々産地年代の酒が老バーテンダーの背後にある棚を埋めつくしている。沢山のグラスが淡い照明を浴びて鈍い光を放つ。女は1人で座っていた。癖のあるバーボンをロックで飲んでいるのを見て興味が湧いた。心のどこかが『ただ者ではない』と警告するのも刺激的だ。構わず昂露はカウンターに歩み寄った。勿論、女のすぐ横だ。
「隣に座って良いか?」
女はすぐに振り返った。想像通り美しい顔をした女だった。野性的で挑戦的な目が印象に残る。
「勿論、どうぞ」
席は他にも空いていたが女は断らなかった。笑顔を浮かべて礼を言うと昂露はカウンターに座った。
「ドライマティーニを‥‥」
注文したのはそれはオーソドックスなカクテルだった。老バーテンダーの腕が舞踊の様に動き始める。それを眺めているのだけでも楽しそうであったが、ふと悪戯心が昂露の胸に沸き起こる。
「この頃の人間に‥‥御主は不満を感じないか? 上っ面だけで薄っぺらな心しかない」
わざと人間を否定するような言葉を女に言ってみる。もし女の正体が昂露の予想通りならば、なんらかの反応があるのではないかと期待する。
「さぁ‥‥」
しかし女は軽く笑って受け流した。老バーテンダーが注文された酒を昂露の前にそっと差し出す。優雅な仕草で華奢なグラスを取り、昂露は酒を一口飲む。
「美味しい」
「ありがとうございます」
老バーテンダーは礼を言って2人の近くから少し離れる。
「勿論、彼‥‥あのバーテンダーの様に見事な人間はいる。しかし、儚いほどにその数は少ない。人は間違った道を歩んでいるのではないか‥‥そう思ったことはないのかな?」
挑むように‥‥或いは試すように昂露は問いかける。
「あなたの問いに答えはない‥‥違って?」
女はそれだけ言うとグラスの中身を一気に飲み干す。
「御主は良い人間じゃ。羨ましいよ」
昂露は哀しげな表情でそういうと、テーブルに金を置きすっと席を立つ。飲みかけのマティーニを残しそのまま店を出る。
「‥‥不憫な事よ」
人間にはまことに様々な者がいる。愚劣で醜い者もいれば峻烈で美しい者もいる。そして大概は美しく見事な者ほどその命は儚い。女の未来を思って昂露は目を伏せた。
女が駆けつける少し前にこの路地裏では圧倒的な力が放たれた。人であった者は血と肉という物になり、人ではない魔は血色に染まって端然とそこにいる。何もかもが異質なる異界の者。
「何故こんな事をしたの‥‥ってこういう言葉は無意味ね」
女は油断なく身構えながら昂露に向かって話し掛ける。軽口を叩いても女の緊張感が伝わってくる。それはそれで心地良い。
「これは我が本性。闇に生き闇にうごめき人の命であがなわれる。誰の許しも救いも乞わぬ」
昂露が感情のこもらない冷たい口調で言う。
「わかっていたわ、きっと最初に逢った時から‥‥」
じりじりと女が立ち位置を変える。それは昂露も同じであった。あのバーで逢った時から、いつか対峙するときがあると思っていた。魔を狩る者と人の命を喰らう者。初めから2人の間には妥協も融和もない。接点はただ一つ。相容れぬ者として互いに立ちはだかる事だけ。
「我もわかっていた。御主には正直になろう。この身は人の血を欲する‥‥人間どもが吸血鬼と呼ぶ魔の種族じゃ。人の間に紛れてはいても、いつの日にか人の中に目覚める勇者と戦うはさだめなれば‥‥」
昂露は目を伏せる。血に染まるその姿はもう少しも人間には見えない。擬態を止めてしまったのだろう。けれど、美しき魔性の者はその顔に悲しげな表情を浮かべていた。
「私と‥‥戦うの?」
女の中の闘気が高まってゆく。その気高き意志のなんと甘美なことか。その身体を巡る血のなんと芳しきことか。飽きるほど浴びるほど血を流したすぐ後だというのに、極上の美酒に酔いしれたい欲望にかられる。
「御主‥‥我に喰われたいか‥‥」
昂露の目は媚薬の様であった。視線は狙った獲物に絡みつき、何もかも奪おうとする。一瞬の後、女は顔を振って後ろにさがった。額に大粒の汗が浮かんでいた。目に見えない心の戦いが女の昂露の間で交わされていたのだろう。
「人間はただ狩られる存在じゃないわ。派手に殺せばそれだけ強い恩讐がお前を追うのよ」
「‥‥承知」
昂露は笑った。
「それでも、御主とは逢い対して言葉を交わしてみたかった。これもまた詮無い道楽だと叱られようがな」
朗らかに笑う昂露が片手を上げる。すると血に染まった身体は分解するように細かくなり、その1片ずつが黒く小さなコウモリに変化した。ざぁああああと風の様な音をたて、コウモリ達は竜巻を作って上空に飛び立つ。残されたのは血染めの路地と無数の死体、そして美女だけであった。
「‥‥夢、みたいな荒唐無稽な話なのに、現実なのね」
今夜の出来事を誰に話せば信じるだろう。自分だって誰かに聞かされたら笑って一蹴にするはずだ。
「追うわ。絶対に追いつめてみせる」
女は闇に解けてもう見えない昂露をじっと見つめ、小さく誓いの様につぶやいた。
そして、今宵も昂露は人の世をうつろい歩く。永遠に終わらない夜を渡るには、一瞬であったとしても慰めと癒しはなくてはならないのだから。
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