<東京怪談ノベル(シングル)>


あるべき場所へ


 一閃。
 遠くにある何かに反射したものであろう光彩が、綾瀬の双眼を貫いた。
 眩しさに、刹那、視線を細める。その瞬間、綾瀬の目前の風景が一変した。

 風が唸り、咆哮する。絶え間なく立ちのぼる血煙と、硝煙の匂い。肉の焼ける臭いと肉の腐りゆく臭い。
 轟くのは、渦巻いているのは、これは本当に風の唸りなのだろうか。否、生きながらにして地獄の苦痛を味わい死して往く仲間達の恨み言なのではないのだろうか。
 綾瀬は、心に過ぎるその言葉を、決して口にしようとはしない。
 心は、言葉は、形と成せばとても容易に、目に見える全てのものを振るわせる。
 仲間達の士気を奮わせ、死して往く者の魂を震わせる。
 だから、綾瀬はそれを言葉と成そうとしない。その代わり、己自身を彼らの士気と成すのだ。
 綾瀬は短く呼吸を整え、刹那、目を閉じる。
 仰ぎ見る天空はただ広い。果てしなく続く死地を覆い隠し、飲み下さんばかりにただ、ただ広い。
 澄み渡る青空など絵空事の中にのみ存在する、空想の産物だ。
 刹那の後に目を開き、綾瀬は気鬱な物々しいばかりの天空を睨みすえた。
 そして、次の瞬間にはその身は戦地の真ん中に立っていたのだった。
 花などひとつも残されていないこの世界を――あるいは、その姿が綾瀬の目に映りこんでいないだけかもしれない――、綾瀬の小さな体は確りと踏みしめる。
 天は果てしなく遠い。花は昔語りの中の産物だ。
「動ける者は私に続け! これより向かうは地獄! 敵陣の腑の中だ! 再び生きて戻れるという保証はどこにもない。が、私達は未来を救う救済の手となるだろう!」
 大剣を掲げ、高々と叫ぶ。
 戦況は極めて厳しい。
 夕べ、あの粗末な食事を共にした仲間達は、その大半が既に現し世の存在ではなくなっている。
 戦力の、半分以上を削り取られてしまったのだ。
 しかし、それでも、綾瀬の声を皮切りに、ボロボロになった姿で彼らは大地を踏みしめる。
 天は果てしなく遠く、気鬱なばかりの雲が幾重にも重なり、その奥にある青を隠しやっている。
 綾瀬は剣を斜めに構え、味方の布陣の先頭を切って走り出した。
 風なのか恨み言なのか分からない声が渦を巻いて綾瀬の足を絡め取ろうとしている。
 綾瀬は、視界に映りこんだ神帝軍の兵隊を一閃した。
「アアアアァァアアア!」
 叫び、剣を振り上げる。振り上げた剣に、刹那、眩い光彩が閃いた。その眩さに、綾瀬はふと視線を緩める。

 
 霧神の性を抱く綾瀬は、文字通り、戦地に立つ夜叉の如き少女だ。
 ふと脳裏によぎったその光景は、それはかつて彼女が存在していた世界――今自身が立っているアクスディアとは逸した、未来世界のアクスディアのものだ。
 綾瀬は、崩壊した世界の住人だった。
 息吹を失った大地は、ただそこに広がってあるばかりの屍だった。花などはどこにも無かったし、まして緑だのというものはただのひとつでさえも存在していなかった。
 人類も、悪魔も、――恐らくは神でさえも疲弊しきっていたかもしれない。
 そこには、希望などという夢は断片さえも存在していなかった。
 神と魔は決して共存し得なかった。まるで違う存在だった。互いに侵食する事さえ忘れたかのような――そんな世界だった。
 その『死した世界』から、今まだ息吹いているこの世界――綾瀬からすれば”過去の世界”へと踏み入ってしまったその理由は、果たしてなんなのだろうか。
 そう思い考える時、綾瀬の心に希望のかけららしいものが頭をもたげるのだ。

 この世界が、もしも綾瀬が本来存在していたアクスディアの過去ならば、もしかするとこの世界を変えることで、未来も変わっていくのかもしれない。
 世界は死なずにすむのかもしれない。仲間達は無碍に命を落とさずにすむのかもしれない。空には灰色ではなく青が広がるようになるのかもしれない。風は唸り声ではなく優しい唄をささやいてくれるのかもしれない。
 自分のこの手にあるのは、剣ではなく、もっと違う――例えば花だの緑だの――そんな穏やかな時間を過ごせるようになるのかもしれない。

 そう思い、綾瀬は背に背負い持っている一振りの大剣を指で撫でた。
 とうに死んでいたはずの父の遺品である大剣は、綾瀬の指に合わせ、声無き声で言葉を告げる。
 綾瀬は、ゆっくりとかぶりを振った。
 ――――意味の無い空想だ。
 事実、今自分の手にあるものは、花などではなく、敵を斬り伏せるための一振りだ。
 この世界には、花がある。緑があり、見上げる天は青をたたえている。
 
 ああ、でも、それでも、やはり、天は遠くにある。

 綾瀬は再びかぶりを振った。先ほどよりも大きく。頭をもたげる空想事を根本から否定するように、力をこめて。

 この世界には、とうに死んだはずの綾瀬の父が生きている。
 この大剣の本来の持ち主である、屈強たる戦士である父親を――その男の顔を思い、綾瀬はわずかに眉根を寄せた。
 迷いそうになる心は、血が滲むほどに強く握り締めた拳の中で打ち消す。
 口をついて形を成そうとする心は、唇をかみしめる事で飲み下す。
 綾瀬は、自分の父親を屠らなくてはならない。とうに死んでいたはずの父親を殺すのは、他でもない、自分自身であったのだ。
 甘さなど許されるものではない。僅かにでも心を乱せば、あの男はたちどころに綾瀬を――自分の娘の首を刎ねるだろう。
 迷いなど許されるものではない。生半可な決意であれば、あの男はたちどころに綾瀬を――自分の娘を焼き滅ぼすだろう。
 心などいらない。言葉など欲しない。穏やかな空想など滅んでしまえばいい。
 今あるのは力のみ。欲するのは、あの男を滅ぼす力のみだ。

 綾瀬は天を睨みやる。
 綾瀬の双眸と同じ色をたたえた天空は、綾瀬の心に反し、のどやかに広がってあるばかり。
 立ち上がり、短く息を整える。

「これより向かうは、敵陣の腑のただ中だ。再び生きて戻れるという保証などどこにもない。だが、私は、」
 呟き、天を睨みやっていた視線を眼前に広がる戦場へと向ける。
 その視線が映すのは、宿敵との決戦の地。
 風が綾瀬の耳を撫でて流れた。

 行こう、私の立つべき戦場へ。




―― To the next stage ――