<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ひと時の休息


 ひとつ歩み、ふたつ歩む。みっつを数える時には、綾瀬の体はふわりと宙を跳んでいる。
 綾瀬の両手は右も左も繋がれている。右を向けば、そこには朗らかに笑う父の姿が見えた。左を見れば、そこには穏やかな微笑みを浮かべた見知らぬ女の姿が見えた。
 綾瀬の頭の片隅で、綾瀬自身の声が、今自分は夢を見ているのだと囁いている。
 今、目の前にある風景は、現実のものではないのだと。――これは夢なのだと、密やかに囁いている。
 綾瀬は、左手を握り締めている女の姿を仰ぎ見た。
 女の向こうに広がっている蒼穹はひどく澄み渡っている。注がれる陽射しは眩い光をもって綾瀬の顔を穏やかに照らしてくる。
 女の顔は、太陽が創り出す逆光のせいもあって、今ひとつ判然としない。ただ、その顔には優しい微笑みが湛えられているのだという事だけが、なぜかひどく克明に、綾瀬の脳裏に焼きついているのだ。
 その顔さえも判然としない女ながらも、綾瀬の頭のどこかが、この女の名前を知っている。

「おかあさん」
 
 ひとつ歩み、ふたつ歩み、みっつを数えるのと同時に、綾瀬の体は再びふわりと宙を跳ぶ。
 両手のそれぞれを握り締めている両親は、綾瀬の小さな体をふわりと持ち上げて、そうして再び、ゆっくりと大地の上に戻すのだ。
 空は果てしなく続き、どこまでも青く。
 風は穏やかに吹き流れ、綾瀬の黒髪を梳いていく。
 視界の端々に映るそこには、薄紅色の花を満開に咲かせた木々が並ぶ。
 綾瀬の心の奥底に、隠しようのない幸福な笑みが浮かぶ。綾瀬はそれを惜しげもなく顕し、右と左に並ぶ笑顔を何度も何度も交互に見やっては宙を跳んだ。
 

 不意に、涼やかな風が頬を撫でて過ぎた。
 まだ少しだけ重みを感じる瞼を薄く開けば、細く伸びる真白な雲を幾筋か浮かべた、澄み渡った青空が一面に広がっているのが見えた。
 ――――夢の中で見ていたあの空とさほど違わぬその色を、綾瀬はぼうやりとする頭を抱え、眺め仰ぐ。
 穏やかな風が吹き、綾瀬の前髪をさわりと梳いて過ぎていく。
 手にしていたのは柔らかく伸びる緑の大地だった。
 左手を持ち上げ、その先にあるものを確かめようとしてみたが、
「……くっ」
 鈍い痛みを覚え、持ち上げた腕はそのままはたりと草花の上に戻された。
 ――――ああ、そうだ。
 思い出し、短い息を吐く。
 綾瀬は、あの男に負けたのだ。あの、屈強なまでに真っ直ぐな眼差しを持った、あの男に。
 ならば、もしかすると、怪我の一つでも負ってしまったのかもしれない。
 息を吐き出した後、綾瀬は再びゆっくりと体を動かし、そしてそのまま上体を持ち上げようと試みた。
 そして、ようやく、自分の頭の下にある違和感に気付いたのだ。

「痛くはない?」
 
 違和感の正体を確かめようとした矢先、なんの前触れもなく、穏やかな女の声が綾瀬の耳をくすぐった。
 女の声に、綾瀬の心が小さく跳ねた。
 急ぎ、上体を起こそうと試みる。が、綾瀬の動きは女の手によって制され、引き戻された。
 綾瀬の頭を自分の膝の上に乗せて、女はひどく穏やかに微笑んでいる。
 
 知らぬ顔の女だった。
 漆黒色の長い髪を、紅い布で一つに結いまとめている。
 身につけているのは白色の単衣。白衣の襟元には襦袢の襟が半分程顔を見せている。
 綾瀬の頭を乗せている膝は緋の行灯袴を穿いていた。
 女の双眸は澄んだ青色で、――どこか懐かしさを覚えるものだった。

「痛くはない?」
 女の声が再び問う。
 綾瀬はかぶりを振って目を細め、自分の顔を覗きこんでいる女の顔を眺め仰いだ。
 女は、綾瀬の反応を見て頬を緩め、白く細い指で綾瀬の頬をついと撫でた。
「……無茶な事を」
 小さく呟くように述べられた言葉に、綾瀬はふと目をしばたかせてから口を開ける。
「あの男は」
「今のあなたでは、あのひとを超える事は無理ですわ」
 女の声が、綾瀬の言葉を遮って放たれた。綾瀬はぐうと息を呑み、女の眼差しから視線をそらして唇を噛み締める。
「……わかっている、そんな事」
 吐き出すようにそう返し、左腕についた無数の小さな傷を確かめる。
 ――――おそらく、自分は生かされたのだ。
 あの男ならば、綾瀬の腕など容易く落とす事も出来ただろう。腕どころか、首ですら、容易に落とせていたかもしれない。
 生かされたのだ、おそらく。
 固く噛み締めた唇からは血の味がした。それすらも不快に思え、綾瀬は力任せに前髪を掻き混ぜる。
「わたくしの名前を問わないのですか?」
 女は、綾瀬の腹の中で渦を巻いているであろう感情に触れようとはしない。ただ、さも愛しい者を見るかのような眼差しで、綾瀬の顔を覗きこんでくるだけなのだ。
「……興味ない」
「そうですか」
 突き放すような口調でそう述べた綾瀬に、しかし、女はどこか楽しげな表情すら見せている。
「……貴様が私をここまで運んで来たのか」
「ええ。怪我をしているあなたを、あんな場所に置いたままにはしておけませんもの」
 女の双眸が、緩やかな光を覗かせた。
「……」
 綾瀬は、女の眼差しを見つめ返す事をせず、ただ、左手が掴む緑の大地を見つめる。
 涼やかに吹く風は、豊かに伸びる草花を穏やかに震わせて過ぎていく。
 白く小さな花をつけた草が、綾瀬の指のすぐ傍で揺れていた。
「わたくしは、あなたに興味がありますわ。もう、色々な事を知りたいくらい」
「私の事を知りたい、だと? 貴様、」
「好きな食べ物は何?」
「……は?」
「好きな食べ物。いつもどのような物を食べているのかしら。嫌いな物はあって? お野菜とか、辛い物とか……女の子ですもの、甘い物なんかは好きなのかしら?」
 拍子抜けした綾瀬を置き去りに、女の問い掛けはさらに続く。
「お洋服などはどこで買ったりしてますの? ああ、せっかくの可愛いお顔なのに。もっと可愛らしいお洋服も着てみたら?」
「……着るものなど、どうでもいい。動きやすいものであればな」
 目をしばたかせ、綾瀬は女の顔を見上げた。
 女は澄んだ青の双眸をゆったりと細め、綾瀬の言葉にうなずいた。
「お友達などはいるのかしら。綾瀬は可愛い子だもの、きっと男の子にも人気があるのでしょうね」
「……友達など必要ない」
「まあ、いけませんわ、綾瀬。何でも打ち明ける事の出来るお友達は大切よ」
「……」
 女が、いつの間にか自分を名前で呼んでいる。
 上体を起こし、綾瀬は女の顔を真っ直ぐに見据えて口を閉ざした。
 女は綾瀬の視線を受けてふわりと微笑み、やはり同じように口を噤む。
「貴様は……」
 何者かと問おうとしたが、その言葉は形を成す事はなかった。

 この女は綾瀬の事を知っている。
 そして、綾瀬も、この女の事を知っている。……いや、正しく言うならば、綾瀬の頭のどこかが密やかに囁きかけるのだ。今目の前にいる女の名前を。
 風がそよぎ、眩しい陽光が降り注がれた。
 不意に、女の顔が陽射しを受けて逆光に晒された。
 綾瀬の目が、わずかに見開かれる。
 女のその顔は、今しがた見ていたあの夢の中で見た、あの顔だ。
 その微笑みは、綾瀬の心を安堵の色で染め上げる。
 ――――ああ、そうだ、このひとは。

「……食い物の好き嫌いは無い。そもそも、食い物を粗末に出来るような暮らしをしてもいない」
 ぼそりと呟き、女の双眸と同じ色を浮かべた眼差しを細める。
 女は、綾瀬の言葉を受けて嬉しそうに首を傾げ、うなずいた。
「もう行くの?」
 立ち上がった綾瀬を見上げ、女が訊ねる。
 綾瀬はうなずきをもって返し、ふと周りを見やって、草花の中に隠れていた剣に向けて手を伸べた。
 剣は、あれほどの戦闘を終えたばかりであるにも関わらず、わずかな刃こぼれ一つ見せていない。
「休んでいる間などない。……私には、立ち止まっている時間などないのだ」
 噛み締めるようにそう言い放ち、手にした剣を軽く振るう。草花の先端がぴしりと飛び、吹いた風に乗って舞い上がっていった。
「……そう」
 女は、綾瀬の言葉に、ほんの少しばかり、寂しそうな表情を浮かべる。
 綾瀬は剣を背負い、体のあちこちについていた草を払い落としながら女を見やる。
 
 自分を真っ直ぐに見据えている女の、澄み渡った蒼穹を思わせるような眼差し。
 手を伸ばせば届く距離にある、穏やかな休息。
 名を呼べば、女は応えてくれるのだろうか。
 ただ一言、母と、呼べば。

「私には、やらねばならない事がある。……数え切れぬ程に」
 しかし、綾瀬は、浮かんだ名前を無理矢理に飲み下し、代わりに、一言そう吐き出した。
 女は綾瀬の言葉にも笑みを消す事なく、静かに、「そう」とだけ述べた。
「また逢えるわね、綾瀬」
 踵を返し、女に背を向けた綾瀬に、女の言葉が問い掛ける。
 綾瀬は、わずかに足を止め、唇を噛み締めて、空を仰いだ。
「……縁があれば」

 言い残し、綾瀬は止めた足を再び歩み出させた。
 今、綾瀬の眼差しは、穏やかな安堵ではなく、再び巡り来るであろう宿命を見据えている。



―― To the next stage ――