|
|
|
|
<東京怪談ノベル(シングル)>
|
月下包容
鬱蒼とした雲が月を覆い、あたりを闇一食に染め上げていた。そんな場所で、砂を含んだ荒涼とした風が大地をかける。六月だというのに、夏の気配はおろか、腐敗した生暖かい生の空気もない。あるのは砂、それと潮の匂い。時が止まってしまったかのように、この芭蕉は変わらない。変わらない。
けれど、今日という日は違う。
六月十日。この日付の間だけ、町は活気を取り戻す。
耳を傾ければ、すぐに聞こえてくるだろう。にぎやかな、けれど悲しい音楽が。
銃弾のスタッカート。
悲鳴のソプラノ。
剣戟のダンス。
乾いた砂の匂いとは別に、鼻腔は感じるだろう。鉄さびにも似た、湿った血液の香りを。
彩を失い朽ち果てた町の中に、視界は感じるだろう。辺りを騒がす人の群れと、赤い血を。
吹き付ける冷たい風の他に、肌は感じるだろう。刺すような殺気に、鋭い痛みを。
この日テアテラの港町に、惨劇が訪れる。
ただ一人を倒すために。
その男の名は、瀬戸口・春香。テロリストととして、目下指名手配中の青年だ。
彼は弟の命日である六月十日のみ、この場所に現れる。そして、毎年春香を退治すべく、多くの魔皇達が来訪する。
戦いは今日という日が来たときから、始まっていた。
春香の右足が勢いよく繰り出されると、それだけで辺りに屍の群れができる。
春香が短剣を振るえば、それだけで周りにあるすべてが切り刻まれる。
圧倒的な強さは格の違いよりも、生物としての差、アリが像に挑むようなそんなどうしようもない戯言のようだ。
ここにいるもの全員が、気づいているだろう。
敵わないと。絶対に倒すことはできたないと。されど、魔皇達は止まらない。それが彼らの指名ゆえに。
ある者は剣を、ある者は鎌を、ある者は銃を、それぞれが持つ魔皇殻を全力で放ちはするが、ことごとく画がかわされ、マントに弾かれる。
百も二百もいた軍勢は次第に減っていき、今は半分ほどしかいない。四肢がもげ、あるいは内臓を撒き散らした姿で、屍となっている。地獄絵図。ただ一言で説明をするとしたら、これ以上の言葉は要らないだろう。
それはさながら、花のようだ。一日だけ咲く、儚き存在。
血はバラのように赤く、四肢から垣間見える骨は霞草のごとく白い。さまざまな色で戦場を彩色する髪は、まるでチューリップのように多彩だ。
かぐわしき香りは死の芳香。ねっとりと甘く、生臭い。ぬくもりが鼻を通り口腔で、生臭く広がっていく。
そして、奏でられるゴスペルは、呪詛。
死者の中から声が聞こえる。時期に死を迎える者が力を振り絞り、最後の足掻きを行なっているのだ。それは歌う、憎しみと悲しみの哀歌を。
「お前に安らぎはない」
「お前に幸福はない」
「お前に救いはない」
「殺人者、鬼畜生、外道」
怨嗟が言葉となりて、戦場に響く。それがただの音ならば、たとえ意味があったとしても無意味でしかなかった。彼らが人であるならば、そうであっただろう。負けたとはいえ、屍は総て魔皇だ。一人ならばなんということはない。されど、多くの遺志が一つの意思となり、怨念となりし声は言霊となりて心をえぐる。
「お前の望みが叶うことはない」
「お前は我等を屠った」
「お前の手は血に汚れている」
「命は数学ではない」
己を呪う言葉を聴きながらも、春香の体は止まらない。また一人、また一人と屍を増やしていく。
一人命を救えば、一人殺した罪が償えるわけではない。なぜなら、命に重さはないからだ。そして、命はモノではない。足算や引算で、軽々しく扱えるほど安易ではない。それは生への冒涜だ。
その事実を認めていなければ、呪詛は呪詛になりえなかっただろう。
一瞬動きが止まった春香の腕を、鋭く突き出された剣が刺した。赤い血が大地に流れ、幾多の血液と混じる。
春香は理解していた。己の行いが過ちであることを。彼らが語る言葉通り、自分にはなにも得られぬことなどとうの昔にわかっていた。
「――いらないんだよ。そんなもの」
痛みを感じさせない動作で、春香は、足でなぎ払い、剣を振るった。
弟は大切だった。そうでなければ、こうまでして墓参りになど来る必要はない。だから、彼は誰よりも知っている。人が死ぬということの、意味を。死がどんな陰を運んでくるのかも。
春香は、過ぎた力がもたらす災厄を理解している。ゆえに止めようと必死だ。それは信念で、揺るぐことはない。神魔滅殺。そのためならば、多くのことを厭わないだろう。弟と二人っきりの、平穏な葬儀さえも犠牲にして。
だが、傷つかないわけではないのだ。誰かを殺す度に、心は泣き叫んでいる。けれど、そんなことは死者の慰めにならない。悲しむくらいなら、殺さなければいい。殺すということに責任を持つなら、悲哀という感情は無礼だ。喜ぶことはある意味では正しいだろう。
春香にできるのは心を殺すことだけだった。傷つき、苦しみながらも、その想いは決して形にはならない。泡のように浮けば、すぐにはじける。
気づくと、春香の周りには屍しか存在していなかった。目の前には、去年となにひとつ変わらない弟の墓がある。春香は手を触れると、自嘲気味に笑った。
「お前も変わらないけど、俺も変わらないな。信じちまっているから、俺のしてきたことは間違いだとは思えないし、思う気もない。だから、死ぬまでこんなことを繰り返すだろう。俺が選んだ道だから、それはいいんだ。ただ、一つ聞きたかったんだ。……お前は許してくれるか? ――お前は俺を嫌わないでくれるか?」
墓標はなにも答えない。ただ、冷たくあるのみだ。問いの答えなど、あるわけもない。あるわけはないのだ。だからそれは偶然だ。
雲間から差し込む柔らかな月光が、春香を慰めるかのように頭上から降り注いでいようともそこに意味はない。
あるのはただの、感傷だ。
されど。
「――ありがとよ」
人はそんなものにこそ、救われるのかもしれない。
|
|
|
|
|
|
|
|