<東京怪談ノベル(シングル)>


水月の夢

 目覚めろ──。
 頭に直に響くような、強く呼びかける声に目を開ける。
 目を開け、瞳に映しだされた景色に、一瞬、まだ夢の中にいるのかと思う。視界には、今まで見たこともない異様な景色が広がっている。
 果てが見えない漆黒の大地。
 紺青の空にかかる丸い月。
 それが投げかける白い光のせいか、夜空には星の一つも見ることができない。それ程にまぶしい光ですら照らしきれないほど果てまで続く大地は、地平線で空の境界と解け合い、どれだけ歩けば辿りつくのか確かめることもできない。
 果てなく広がり、月光が支配する世界には、耳が痛くなるほどの静寂のみがある。あまりにも静かすぎて、不安に早く打つ鼓動や乱れる吐息の音ばかりがやけに大きく響く。
 なぜこんなところにいるのか。
 その問いかけだけを反芻しながらふらりと足を踏み出すと、ぱしゃりと水が跳ねる音がした。
 ひたひたと足先を濡らす冷たさは、水のものだったのか。
 漆黒の大地を作り出すのは、隙間なく敷き詰められた黒い敷石だ。その敷石が濡れ濡れと艶めいて見えるのは、その上を満たす水と淡々しい月光のせいだったのか。
 月明かりを受けて淡く光る水に触れようと、膝をつく。
 その時、さらりと零れた滑らかな感触に、思わず手を挙げる。掲げた指の間を滑らかにすり抜ける、長い黒髪。それを受け止めようとする、桜色の爪を備えた華奢な手。
 なぜ……?
 白い鏡のような水面に映る顔は、慣れ親しんだ自分のものではない。
 憂いを含んだ漆黒の瞳。咲き初めた桜のような唇。刻まれた白い文様が、褐色の肌に色を添える。美しい、けれど人ではない女性の姿がそこにあった。
 柔らかな膨らみや細い腰、こんなものを自分は持っていなかった。水面に映るやわやわとした頬や細い首筋に手を滑らせる。
 確かにそう思える。けれど──。
 自分は、温かい肉を持って、ここにいる。こんなあり得ない姿をした存在であるというのに。
 さまよう手が、側頭部から生える角に触れる。指先に触れる角が、直に頭蓋から生えているのがわかる。その事実に驚愕する気持ちに反応したか、背にある一対の翼がはためいた。
 どちらも血の通う体の一部だということに、さらに頭は混乱する。
 これは夢だ……。
 ふらりと立ち上がり、四方を見渡す。ぼうっと明るく光るものが、視界に映る。それに誘われるように、足を踏み出した。


 あたりを浸し、満ちる水は、体を芯から凍えさせる。
 誘われるまま導かれるようにたどり着いたのは、丈高い木々が立ち並ぶ広場のような所だった。漆黒の敷石から生える太い幹は、敷石から象眼されたような同色の木肌を持っている。
 その色のせいで、立ち枯れたような見かけの木に咲くのは、燃えるような赤い花だった。枝の上で揺れる花は、松明のようにも見える。
「ここは……」
 甘くかすれる声が口から漏れる。
 鼓膜を震わせた声に、思わず口をおさえる。聞き慣れない声。
 自分の声は、姿はこうではない。
 違和感ばかりが募るが、自分がどんな姿だったのか、それはすでに思い出せないほど遠い過去の記憶と化したようだ。違うという記憶だけはあるのだが、それがどのようなものだったかと問われたら、おそらく答えることなどかなわないだろう。
「なぜ……、こんなことに……」
 ため息とともに立ち尽くす。
 赤い花びらが舞い落ちる。それは水面に触れると、じゅっという音をたてて儚く消えた。
「それは、炎の花なのですよ」
 背後から響いた声に、勢いよく振り向く。
 誰かがいる。
 この世界に、自分以外の人がいる気配など、微塵も感じられなかったというのに。
 こちらに向かいくる、ひたひたと水面を歩く音とともに、その声の主は目の前に現れた。
 漆黒の長い髪。しなやかで優美な肢体。褐色の肌に刻まれた、白い文様。側頭部から生える二本の角も、背に生えた一対の翼も、まるで鏡像のような者がそこにはいた。
 ただ一つ、向かい合って立つ二人を分かつものは、その瞳だけだった。この世のすべてを憎むような、激しい怒りが燃える瞳。憂いを含み、揺れる水面のような瞳。それだけが、二人が根本から違う存在であるのだと思わせるものだった。
「あなたは?」
 その問いに、彼女は嘲るような笑みを端麗な面に浮かべる。
「それもわからないのですか? ずいぶんと、愚かなことを聞くものですね」
 口角だけが吊り上がり、唇が鮮やかな笑みを形作る。だが、笑みに染まらずに見つめてくる瞳を伴うものが、こんなに対する者におびえを抱かせるとは。
「どのみちあなたなど、こちらにとっては必要もない、できの悪い模造品でしかないのですから……」
 滑るように彼女の足が運ばれる。水面が波紋を生み、やがてそれは自分の足下にまで届く。
 逃げなければ──。
 閃くように脳裏をよぎった思い。その思いに打たれたように、身を翻して駆け出す。半ばそれは、成功したと思えた。
 足に走った激痛。
 何かが自分の足に食い込み、強く締め付ける。見ると、敷石が自分の足を飲み込み、細い根を廻らせるように肌を裂きながら這い上がってくる。
「っ、あっ……」
 このまま締め付けられたら、足がちぎれてしまうのではないか。それほどの痛みに逃げることなどできず、引かれるまま敷石に叩き付けられる。
「逃げられるはずなどないですよ。あなたは、ここで消えるのですから……。これが、見えるでしょう?」
 叩き付けられ、肌を裂かれる痛みに耐えながら、生理的に溢れる涙に潤む瞳で、彼女が指し示すものを見ようとする。差し出された薄い掌には、深紅の炎と黒い薄膜に包まれた、小さく丸いものが載っていた。
 薄膜の中で何かが動くのを目にし、瞠目する。それは、いまにも孵りそうになった薄い卵の中で、育ちきった稚魚がくるくると動く様に似ている。
「これが、世界の卵ですよ」
 彼女は地に伏した自分の髪を強く引き、体を仰向けさせる。そして身動きできなくするためか、覆いかぶさるようにのしかかる。
 長い髪がさらさらと、自分の周りと水面に散る。
「そして、あなたの中で孵り、あなたを養分にし、生まれ落ちるものです」
 そう口にした彼女が浮かべた微笑みは、嘘のように美しいものだった。
「どうすると……」
 みぞおちに膝を入れられ、喉を締めあげられながら、かろうじて問いを口に乗せることに成功する。
「こうするのですよ」
 鮮やかな笑みを刻んだ彼女が、細い指を胸元に這わせてくる。手の平に『世界の卵』と呼んだものを握り込んだまま、狙いを定めるようにさまよう指先。
「あっ、あ、ああああああああっ!!」
 あたりを満たす水よりも冷たい指が、肉を引き裂き、胸の中に潜り込んでくる。激しい痛みにあられもなく悲鳴を上げながら、どうして意識を失えないのかと、そればかりを思う。
 溢れる涙。
 霞む視界。
 鉄錆の匂いが鼻を突く。
 これは……、夢ではないのだろうか。夢であって欲しい……。
 ごふりと、吐く息とともに口から生暖かいものが溢れ出る。
 胸を裂きながら潜る指に、肺を傷つけられたのだろうか。
 痛い……。痛くてたまらない。せめて、せめて気を失えたなら……。
 願いながら見上げ続ける紺色の空に映える、赤い花。
 舞い落ちる花びらのように火を散らし、ちらちらと燃え続ける花だけが、緩やかに闇に滑りゆく意識を領した、最後のものだった。


「……うあっ」
 飛び起き、そして視界に映ったものは、ありふれた自分の部屋だった。
 閉められたカーテンの隙間から零れる、眩しい朝の光。それに照らし出されたデジタル時計は、6時少し前を示している。
「僕は……」
 額も、髪も、体も、全てが嫌な汗にまみれている。
「そうだ、僕は……松本、松本・太一だ」
 耳を打つ声は、低い男のものでしかない。
 目の前にかざした手も、骨太く大きな、見慣れた形をしている。
 汗を吸って張り付く寝間着代わりのTシャツに包まれた肉体も、しっかりと鍛えられた薄い筋肉に包まれた男のものだ。
 触れると壊れてしまいそうだった、あの柔らかな体の面影などどこにもない。
「夢だったのですか……。そうですよね、あれが現実だなどと……」
 目が覚める直前まで見ていた夢は、細部まではっきり覚えている。
 与えられた痛みも、苦しみも、本当のものとしか思えないものだった、不快な夢。
 けれど、夢でよかった、あれが現実のものでなくてよかったと、心の底から安堵する自分がいる。訳が分からない世界で、訳が分からないまま引き裂かれて死ぬなど、今考えただけでもぞっとする。
 額の汗を手の甲で拭いながら、ベッドから滑り降りる。
 目覚めるには、まだ早い時間だ。だが、もう一度眠ることなどできそうもない。
 とにかく汗まみれで気持ちが悪い体をどうにかしなければと、バスルームに向かう。寝汗で湿って重いシャツを脱ぎ、ふと鏡に映った自分を見て息をのむ。
 薄い胸に刻まれた、赤い痣。
 夢の女が引き裂いた場所に印された、赤い花のような。
 かすかに、くすりと笑う柔らかな声が聞こえたような気がした。

 ─Fin─

◆ライター通信◆
ご指名ありがとうございます、縞させらです。
女体化&ホラー&お任せということで、かなり趣味に走らせていただきました。
ホラーというと、サイコという人間なので、じわじわといたぶる方向でいきました。お気に召していただけましたら、幸いです。
またの機会がありましたら、宜しくお願い致します。