<東京怪談ノベル(シングル)>


−シアワセノカタチ− 第3話



 都会の陰に潜むようにひっそりと建つアパートで、ラムは代わり映えのしない毎日を送っていた。
 その部屋で暮らすようになってからだいぶ経つが、相変わらず部屋は殺風景なまま。仮に今すぐにここを引き払うことになったとしても、まとめる荷物さえないような、そんな状態だった。
 本当に必要最低限の出費しかないため、貯金は貯まる一方。しばらくは働かなくても悠々と暮らしていけるだけの額にまで膨れ上がっていたが、それでもラムは「仕事をしない」という選択肢は選ばなかった。
 家にいても家事をするわけでもなく、趣味や娯楽に打ち込むわけでもない。そんなラムにとって、仕事こそが生活のすべてであると言っても過言ではない。その仕事さえも手放してしまったら、本当に何もなくなってしまう。ただ自堕落に、1日じゅう部屋の中でぼんやりするだけの毎日になってしまう。そうなれば、もはや廃人も同然だ。そうなってしまったら本当に何もかもおしまいだというわずかな焦りが、かろうじて残っていたラムの理性に訴えかけた。
(別に、そうなったっていいじゃない……だって僕はもう生きる意味も理由も、何も分からないんだから……)
 そんなふうに、投げやりに吐き捨てる自分がいる。
 けれども、もう1人の自分が言い返す。
(そんなこと言ってるけど、本当はまだ諦めがつかないんでしょ? 未練があるから、まだこうして生きてるんでしょ?)
 頭の中で、果てなく繰り広げられる口論。
 その一言一言に耳を傾けていると、気が狂ってしまいそうになる。
 だからラムは強制的に思考をシャットダウンする。
 意味など考えるな、理由など考えるな。何も考えてはいけない。自分は機械だ。機械は考えない。正確に仕事をこなすために計算を行なうだけ。そして弾き出された答えを実行するだけ。
 そう何度も何度も自分に言い聞かせ、ラムは心を凍らせてゆく。そして何もかも忘れようとするかのように、ますます仕事に没頭するのだった。



 そんなある日のこと。
 仕事の仲介人との商談を終えたラムは、あてもなく街を歩いていた。まっすぐ家に帰っても、何かすることがあるわけでもない。殺風景な部屋に閉じこもっていると、どうしても余計なことばかり考えてしまうので、ぶらぶらと街を彷徨い歩いているほうがまだマシだった。
 すれ違う人たちの笑い声が、やけに耳につく。
 何がそんなに楽しいのか、ラムには分からない。かつては自分にだって、あんなふうに楽しそうに笑っていた頃があったはずなのに……それは色褪せて破れかけた古い写真のようで、もうはっきりと思い出すことはできなかった。
「あのお店のケーキ、美味しいんだよ〜」
「えー、あたし行ったことないんだ。今度連れてってよ」
「いいよいいよ。いつ行く?」
 後ろから歩いてくる女の子2人組。年はラムと同じか、少し上くらいだろう。しかし彼女たちとラムとでは、纏う雰囲気があまりにも違いすぎる。
 彼女たちが交わす会話の内容が、ラムには理解できなかった。自分がつい先ほどまで仲介人と会話するのに使っていた言語と、確かに同じはずなのに、無意味な記号の羅列のようにしか聞こえない。
 まるで自分と女の子たちの間に、絶対に超えられない見えない壁が立ちはだかって、世界を分断してしまっているかのよう。
 いや……実際、そうなのかもしれない。明るい日向の世界に生きる少女たちと、自らの手を血に汚して生きるラムとでは、住む世界がまったく違うのだ。こうして同じ瞬間に同じ道を歩いているのに、決定的に違う。
 その違いに何故かほんの少しだけ苛立ちを感じて、ラムは無意識のうちに歩調を速めた。
「ねえ……あれ、火事じゃない?!」
 慌てたような少女の声が聞こえた気がしたが、その言葉の意味を深く考えることもせず、ラムはがむしゃらに歩いた。まるで何かから必死に逃げるように。
 歩いて歩いて歩いて、息が荒くなるほどに歩いて、ようやく少し心が落ち着いた頃になって、何やら周囲がやたらと騒がしくなっていることに気付く。どこからか流れてくる不快な匂い。何かが激しく爆ぜるような音。その時になってようやく、先ほど耳に飛び込んできた言葉の意味を悟った。
(火事、か……)
 顔を上げると、道の少し先にあるマンションから火の手が上がっていた。消防隊や救助隊、逃げ延びた人たち、それに野次馬で、辺りは騒然としている。しかしそんな光景を見ても、ラムは特に何も感じなかった。
 自分には関係のないことだ。どうなろうと知ったことではない。
 興味すら示さず、ラムはそのまま脇を通り過ぎようとした。
 しかし……
「お兄ちゃんがまだ中にいるの! 助けて、お願い!」
 がやがやという喧騒の中から、悲痛な叫び声が響き渡り、ラムは思わずびくりと足を止めた。
 お兄ちゃん。
 その一言が胸を深く抉る。
 つられるようにして声のしたほうに目を向けると、1人の女の子が救助隊員に助けを求めていた。煤に汚れて全身真っ黒で、ところどころ怪我もしていて、それでも自分の痛みなど気に掛ける余裕さえなく「お兄ちゃんを助けて」と繰り返す。
 ラムの心臓は、まるで誰かに鷲掴みにされ、握り潰されているかのような苦しみを訴えた。
(違う……あの中にいるのは、僕のお兄ちゃんじゃない……)
 そんなことは分かりきっている。
 でも、理屈を考える前に、ラムの足は勝手に走り出していた。
「あっ、君……! 止まりなさい!」
 建物に向かおうとするラムに気付き、救助隊員が慌てて制止するが、間に合わない。取り押さえようと何人かが動き出した時には既に、ラムは黒煙の中に飛び込んでいた。
 煙が目に沁みて前がよく見えないし、まともに呼吸をすることもままならない。激しく咳き込みながら、それでもラムは走る。
(助けなきゃ……お兄ちゃんを助けなきゃ……)
 心の中で、呪文のようにそれだけを繰り返す。それが自分の兄ではないとか、そういうことは、もうどうでも良かった。
 そこに助けるべき「お兄ちゃん」がいる。
 ならば、助けなければ……
 今ここで無視して立ち去ったなら、自分は「お兄ちゃん」を見殺しにすることになってしまう。今まで見ず知らずの人々の命を無慈悲に奪ってきたはずなのに、「お兄ちゃん」を殺すのだけはどうしても嫌だと、手放してしまったはずの心が叫んだ。
 やがて何階か上に上がったところで、階段の踊り場に倒れている少年を見つけた。急いで駆け寄ってみると、わずかだが呼吸をしており、脈もある。逃げる途中で力尽きて気を失ってしまったのだろう。
 自分より背も高く体重も重いその少年を、ラムは無言で担ぎ上げ、再び階段を降りる。だいぶ煙を吸い込み、あちこち火傷を負った体では、ただ歩くだけでもかなりつらいはずなのに、今のラムにはそんなことはまったく気にならなかった。
 そして―――
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」
 無事に運び出された兄の元に、泣きながら駆け寄る妹。その姿を見届けた後、ラムは誰にも何も言わず、人ごみに紛れるようにしてすぐにその場から立ち去ってしまった。



 自分がどうしてそんなことをしたのか、ラムにはまったく分からなかった。
「見ず知らずの他人のことなんて……どうでもいいはず……なのに……」
 そう、どうでもいいと思っていた。
 そのまま通り過ぎるつもりだった。
 それなのに、ふと気付いた時には既に火事の真っ只中に飛び込んでいた。とにかく無我夢中だったので、その時に自分がどんなことを考えていたのか、後になって思い出そうとしても思い出せない。マンションの中に助けに入ってから出てくるまでの間……その部分だけ記憶に靄がかかったようになってしまっていた。
 思い出そうとすると、苛々した気分になる。
 もう少しで手が届きそうなのに掴めなくて、でも掴んでしまったら後悔しそうな気がして、それでもやはり思い出せないのはもどかしくて、むしゃくしゃする。
 そんな鬱々とした気分を早く消し去ってしまいたくて、ラムは目的もなく街へと繰り出した。
 あてもなく歩いていると、少しだけ気分が落ち着く。少しだけ、忘れられる。
 何も考えずに、ラムは道なりに歩き続けた。
 だから、急に誰かに呼び止められた時には、かなり驚いた。
「君、あの時の子だよね? ほら、この前のマンション火災の時の……」
 やや興奮気味に話しかけてきたその男性は、まったく見覚えのない人物だった。ラムが怪訝そうな表情をしていることに気付き、男性が慌てて自己紹介を行なう。
「私はあの場にいた救急隊員なんだ。私たちが救助活動を行う前に、君があの少年を助け出してしまったものだから、みんな本当に驚いたよ」
 面倒ごとにならないように、できるだけ速やかに立ち去ったつもりだったが、やはり顔を覚えられてしまっていたようだ。失敗したと思いながら、ラムは男性の話を無視して、足早にその場から離れようとする。しかし男性はラムを解放してはくれなかった。
「ちょっと待って、話を聞いてくれ」
「…………」
 あからさまに興味のない素振りをしながらも、肩を掴まれ、ラムは仕方なく立ち止まる。
「火災というのは本当に危険なんだ。一歩間違えば君も無事では済まなかった。そのことは分かるよね?」
「…………」
「けれども、あの子の妹さんは、君に本当に感謝をしていたよ。私たちも、君の勇気ある行動には敬意を抱いている。だから、これから本格的に救助のことを学び、訓練してみる気はないか?」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
 少し遅れて、相手がふざけて冗談でも言っているのではないかと思った。
 しかし、まじまじと相手を見上げてみると、その顔はとても真剣だった。
 男性は、もう一度言った。
「レスキュー隊の一員になってみないか?」















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