<東京怪談ノベル(シングル)>


Black Widow


 雨が、降っていた。
「……」
 咽びかえるような血と臓物の腐臭。その中でさえ、年端もいかぬ少年はただ空を仰いでいた。

 空が黒い。
 そう思い始めたは、何時からだっただろうか。
 いつでも、そう例え太陽が天を照らし続けていたその時でさえ、少年の瞳に映る空はただどす黒かった。
 ただ天を仰ぐ瞳を、雨が穿つ。透明であるはずのそれが、なぜかコールタールのように黒く濁ってみえる。
 それでも少年は瞳を閉じず、ただされるがままにその雨に打たれ続ける。

 駸々と降り続く雨が、少年の体を容赦なく濡らしていく。
 それでいい。今はそれでいい。戦いの熱に火照った体を、雨が冷やしてくれるから。
 例え冷め切ったこの心は変わらなくても、戦いを続けるこの体はそうもいかない。
 死体の代わりをするには、それは邪魔だから。





 西暦2004年。俗に神魔戦争と呼ばれた戦いがあった。
 少年はただ、その中を生き続ける。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 何かが土を踏みしめる音。それが、雨音に混じってはっきりと聞こえる。
 はっきりとは聞こえないが、しかし間違うこともないその音に、少年は動くこともなく指先にだけ力を入れた。

 地面には無数の骸が転がっている。
 今更そんなことに感傷的になることもない。むしろ、それはこの地で生きていくには好都合だった。
 例え。それが先ほどまで自分と言葉を交わしていた仲間のものであったとしても。
 その仲間たちの骸の下に身を潜め、少年はただ時を待ち続ける。
 吐き気を催しそうなほど濃い血の匂いにも、既に慣れてしまった。

 足音から察するに、数は一。こんなところに一人で来るとはなんともおめでたい思考の持ち主だ。
 それは、ここでは殺してくれと言っている様なもの。勿論少年に迷いは一切ない。
 その相手が例え、グレゴールと呼ばれていても同じこと。
 幾らグレゴールと呼ばれる存在が常軌を遥に逸した能力を持っていようとも、ここでは関係ない。正面からやりあうのなら兎も角として、だ。
 そも、ゲリラ戦はその力関係をひっくり返すためにある。そして、戦場と呼ばれるところではそれが常となる。

 肺へと流れ込む空気は少ない。息を潜めている分、どうしても呼吸は深く少なくなってしまう。
 じりじりと近づいてくる足音。死体の中から覗く昏い瞳が、それを見つめていた。
 対象がその死体の群れの前へと歩み出た。わずかだが、息を飲み込むのがはっきりと聞こえる。



 それを見て、グレゴールである彼は一体何を思ったのだろうか。
 グレゴールとしての矜持か。
 それとも、少し前まで仲間だったはずの、もしかしたら分かり合えたかもしれない存在への悔恨か。
 ただ顔を背け、その場を立ち去ろうとする。しかしそれは叶わなかった。



 その姿を確認した瞬間、それがグレゴールであるということはすぐに理解できた。ならば戸惑う道理もない。
 死体が動く。
 ほんの少しだけ目を離した瞬間に起こった冗談のような現実に、グレゴールの動きが一瞬止まる。そしてその一瞬は、全ての明暗をはっきりと分けていた。
 動く死体。彼の目は、その裏に輝く鈍色のものを捉えていた。

 寄りかかってきた死体が、避けようとしたグレゴールのバランスを崩す。その裏から伸びる、低い位置の腕。それがしっかりとその足を掴み、掬い上げた。
 もはや重力に抗うこともできず、彼のファンタズマすら反応できないまま地へと堕ちる。
 そしてその瞳が最後に捉えたのは、自分の愛するファンタズマでも、打ち続ける雨でもなく。一人の少年の姿だった。

 鈍色が煌いた。ほんの一瞬だけを置いて、グレゴールの喉から血が噴出していく。
 返す刃は、主を失ったことすらまだ気付けていないファンタズマの胸を抉り、穿つ。
 時間にしてわずか1秒ほど。たったそれだけの時間の間に、全ては終わっていた。

 地面に転がっていたものへ仲間入りしたその二つを見下ろす。そこにあるのは、自分と同い年か、もしかしたら年下かもしれないほど幼い顔。
 その幼い顔が、どこか悲しい色を湛えたまま転がっている。その視線の先には、やはり幼い天使の骸。
「……」
 何も言うことはなかった。それはここでは当たり前のことだから。気にしていては生き残れない世界だから。
 だからそれはもう、少年の――思兼の心に届くことはない。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 この地へとやってきた理由は、ただ激戦区であるから。ただそれだけだったと思う。



 第一次神魔戦線。そう呼ばれた戦争。
 ありとあらゆる神と魔の存在が駆り出され、そして戦っていた。それは女子供であろうと例外はない。
 思兼もそうだった。しかも彼は、当時まだ10歳を少し過ぎた程度の年齢であったにも関わらず、自ら志願して激戦区へと身を投じていた。

 逢魔と呼ばれる存在には、対となる魔皇という存在がいる。
 しかし中には、不幸にもその魔皇を失ったり、そもそも出会えなかったりというものがいるのも確かである。
 そういったものたちは伝と呼ばれるものになることもある。が、多くのものはそうではなく、そのまま戦いへと身を投じる。
 思兼もそうだった。

 様々な理由があるだろう。
 純粋に戦いを欲するもの。戦いの中で、まだ見ぬ己が主を求めるもの。戦争を早く終わらせたいと思うもの。そして、復讐を誓うもの。

 思兼、逢魔とて両親がいてこそ産まれてくる存在である。それは人間となんら変わりない。
 つまり、彼にも両親がいた。そして今はいない。
 死んだ。彼の両親は、戦場の中で。
 幼い頃、夢にまで見た広い背中も。彼を優しく抱きしめてくれたその腕も。全ては戦場の中へと散っていった。
 それは全て、神の一族との戦いによるもの。
 ゆえに、幼い心はその戦いに全てを求めた。

 幼い少年は、ただ敵を殺し続けた。神の尖兵たちを、ただただ一心に。
 わずかに残っていた良心すらも返り血で塗り返し埋めていく。もはやそこにあるのは、ただのキリングマシーン。
 ただ神の血を求め、その体を赤く染める。



 ――生きている意味などなかった。
 自分の全てだった最愛の両親は既になく。残ったのはただ逢魔として生を受けた自分の体。
 ならば殺そう。ただ殺し続けよう。
 両親を殺したものを殺し続けよう。

 いつか惨めに死ぬこととなってもかまわない。
 今自分に残った意味は、ただ殺し続けることだけなのだから。この命など、惜しくはない。
 だから、殺そう――



 そうして彼は、主を持たぬ逢魔のみで形成されたゲリラ部隊へとその身を投じた。
 それから幾つの命を奪ったのかは、覚えていない。
 復讐心とも自虐心ともつかないその心には、もう何も写さないから。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ふと、自分が自らの思考に埋没していたことを理解した思兼は、一つの事実に気付く。
「……ちっ」
 思わず舌打ちが漏れる。その先にある存在を理解したがための、苛立ちからくる舌打ち。
 らしくもない。試案に耽るあまり、そんなものにも気付かないとは。
 そうして彼は、再び骸の中へとその身を潜らせる。

 ハッハッハッハッ――。

 犬やその眷属が発する独特の息遣い。弾むようなそれが、少しずつ数を増やしていく。

 それは、神の一族が生み出すサーヴァントと呼ばれる存在。その中でも特に鼻が優れたもの。
 それが、ここ一帯の死臭を嗅ぎつけてきたのだ。

 なんとも舐められたものである。本来サーヴァントなど、逢魔や魔皇からすれば一部を除けば他愛のない存在である。
 だがしかし、ことこの状況では違う。
 恐らくは残兵処理のために放たれたものと思われるそれらは、実に厄介な存在でもあった。

 一つは、獣特有の優れた五感。特にその臭覚は、ありとあらゆるものを嗅ぎ分けてしまえるほどの能力を持つ。
 それはつまり、彼らには死体の真似などほぼ通用しないということ。とはいえ、まだ濃い血の匂いが立ち込めるこの地ならば誤魔化し様がある。
 問題はもう一つ。彼らは『数』による戦闘を得意としていること。
 幾ら一体一体が大したことはなかろうと、それが積もれば馬鹿にならないのは事実。蟻ですらそれを理解するほどの、有効な戦闘手段である。
 先ほどの坊やのような甘い失態は、既に期待できるはずもない。

 ここにおいて、ゲリラ戦での優位性はほぼイーブンへと持ち込まれてしまったといえる。
 グレゴールに飼われる存在であるはずのサーヴァントが、その飼い主よりも厄介だというのはなんという皮肉だろうか。
 しかし、このような状況が今までなかったかといえば、そうではない。
 ならばこそ、既に思兼の覚悟は完了している。

「……」
 今度こそ、息を潜めるなどとは言わず息を完全に止める。その呼吸一つですら、命取りとなりかねない。
 じわりと近づく影。その数、恐らくは五。

 ここで死ぬのならば、所詮その程度だったということだろう。
 そも、既に自分は死んでいる。命をいらないと思ったその時から。
 ならば、この体を食われようが、この体があれらを呑み込もうがさして意味の違いなどない。違いがあるとするなら、転がる死体の数くらいのものだろう。



 たたっと軽く地面を蹴る音が響く。その瞬間、死体が爆ぜた。
 獣は獣であるがゆえにその感覚が素晴らしい。間髪いれずに物音に反応した獣たちは、しっかりとその姿を捉えていた。
 だがそれでいい。まず目の前の一体を倒せるかどうかが運命の分かれ目となる。
「――ッ!!」
 何よりも獣じみた咆哮が、思兼の口から放たれた。





 時は、西暦2004年を数えていた。
 戦況はまさに佳境を迎えようとしていたその時。多くのものたちが、その命を散らしていた。





<END>