<東京怪談ノベル(シングル)>


第1楽章 アレグロ・モルト・アパッシオナートホ短調


 少しの間が開いた時に、誰かの感じ入った吐息が聞こえた。
 このホールに溢れる音達を堪能していた人々はそれすら咎めるような視線を交差させたが、私にはそんなものどうでも良かった。
 腕を引く度に、硬い弦を押さえる度に、ヴァイオリンが悲鳴のような声を上げる。感情豊かに泣き叫ぶ。

『何て演奏をするんだ──』

 たった十三の少女が、と。
 平澤・夢夜──彼女の演奏を聞いた者はあらゆる感情をその瞳に宿し、そう口にする。


●第一楽章

 演奏する曲は一曲だけだった筈なのに、不必要なほど讃え誉めそやされた夢夜はやや疲労気味だ。
 追いすがってくる大人達を振り切り、先ほどまで演奏をしていた建物を出た。
 その手には、もちろん彼女愛用のヴァイオリンの入ったケースが握られている。他の物を持ちたくなくて、服はコンクールに出場したそのままだ。
 ワンピースの裾を蹴飛ばす勢いで歩いていると、声をかけられた。

「平澤夢夜!」

「‥‥?」

 見知らぬその声に肩を引くように振り返ると、見た事もない人物が不細工な笑いを浮かべて立っている。

 ──気のせいね。

 アッサリ断じて無視して歩き始めると、また呼び止める声が。

「おい! 後輩が先輩に挨拶なしかよ!」

(‥‥‥‥先輩? 誰が??)

 億劫そうに振り返り、上から下まで眺めてみる。
 普段着ではまず着ないだろうタキシード。という事は、コンクール会場から出てきたという事は参加者か。
 だが、どう見たって覚えが無かった。要するにそれだけのつまらない演奏をしていたという事なのだろう。

「くそっ、周りがこんなガキを甘やかすから身の程知らずな態度をしやがるんじゃねぇか! たかだか十三のクソガキに‥‥っ!」

 しかも感情豊かでない夢夜の表情が気に障るのか、勝手に怒り始める始末。小物にも程がある、と白けた視線を向けた。
 なら、自分で優勝を取れば良かったのに。何故いちいち私に言うのかが分からない。

「いいか、調子に乗るんじゃねぇぞクソガキ。阿呆な周りがちやほやしやがるから自分の演奏が人より優れてるからじゃねぇよ、お前が銀髪で目立つから物珍しくて注目されてるだけだ!」

「‥‥‥‥」

「わかってんのか? 身分不相応な優勝を貰ったところで後々自滅するだけなんだぜ!」

 罵倒されてるわりに冷めた瞳をしている彼女が余計に癇に障るらしい。だがそんなもの、私にどうしろと。

「チッ、澄ましきった顔しやがって‥‥そんな顔して実は今日の優勝も裏取引の成果だろ? それとも親が金でも握らせてくれたか?」

「‥‥?」

「だから! あんな弾けて当然の曲を弾いて優勝なんかしたのは、あの爺に取り入って言う事聞かせたからだろ? お前の実力で勝負してみろよ、卑怯だ!」

 一方的に決め付ける言葉、夢夜を毛嫌いしている視線、そしてこうして足止めを食らっている事──

「‥‥ばかばかしい」

 全てが鬱陶しかった。

「あ?」

「ばかばかしいと言ったのよ。何でそこまでしなきゃいけないの?」

 自分より年嵩の男を一瞥し、後はもう振り返らずに歩いた。その背中は時間の無駄だと雄弁に物語っている。

「な、何だってェ‥‥? お、おい、否定しないのは裏取引で優勝したからだろ! そうに決まってる!!」

 ぎゃんぎゃんと喚くその男の姿が、ただ虚しかった。


●第二楽章

 コト、と小さな音を立ててヴァイオリンケースを置いたのは、人気のない屋上。
 うるさい程の歓声と惜しみない拍手を送った観客はここにはいない。あるのはただ、建物に邪魔されず縦横無尽に行き交う風の音のみ。
 会場を出た直後にイチャモンをつけられた夢夜は、その感情の見えない目をきゅっと細め、飴色に輝くヴァイオリンを鎖骨の上に乗せた。
 風さえも演奏を待つかのように音絶える。
 しんとする場所に相反し、夢夜の耳に先ほどの口汚い罵りの言葉が甦った。

 ──今日の優勝も裏取引の成果だろ?

 左手の人差し指、中指、薬指、小指で弦を押さえ、ポジショニングする。触れ慣れた弦の感覚。

(裏取引? やっていたらどうだと言うのかしら)

 口元にだけ、酷薄そうな笑みが浮かぶ。
 選んだ曲は、ヴァイオリン協奏曲。あの男が卑怯だと言った優勝を勝ち得た曲だ。

 ──お前の実力で勝負してみろよ、卑怯だ!

 卑怯を連呼する、こちらを罵りながらも悔しげな顔をしていた男。あんな顔をさせたのは私なのだ、と思えば皮肉な言葉も思い浮かんだ。

(自分より経験の浅い私に負けたから? それがまだ十三の子供だから? 大人達の注目を集めるから? 私が銀髪だから?)

 それは完全な八つ当たりだ。しかも、それではまるで自分に卑怯さが一つもないように聞こえる。
 誰も居ない屋上で、時には弱く、時には強く、声を上げ続けるヴァイオリン。自分よりよほど感情のある声だ、と夢夜は思う。

 ──卑怯だ!

(それではあなたは卑怯な事を何一つしていないと言うのかしら? 優勝者を呼び止め、罵倒し、裏取引を疑うあなたが?)

 どんどんとスピードを上げ、荒れ狂う嵐のように音を奏でるヴァイオリンと違い、心の中で言葉を紡ぐ夢夜はあくまで冷静だ。
 自らの体の一部とも言える楽器を奏で、心の中であの男と再び対峙した。
 悔しいと書いた顔で、私に絡んできた男と。

 ──お前は、卑怯だ!!

(そう、私は卑怯よ)

 でも。

(卑怯なのは私だけじゃない。人は誰でもそうじゃない)

 ただ冷たく、密やかに紡がれる言葉は──誰に聞かれる事も、ない。


 ──屋上に響き渡るヴァイオリンが奏でるのは、メンデルスゾーンのコンチェルト(協奏曲)──