<東京怪談ノベル(シングル)>


協奏曲第1番 ホ長調、RV.269「春」


 ──重い。

 子供用のヴァイオリンから大人が持つのと大差ないヴァイオリンに変えられたのは、いつだったか。
 幾度も繰り返し弾く楽器の紡ぎだす音を聞きながら、ふと思った。
 クラシック楽器など手にする事もなく一生を終える人も多い中、平澤・夢夜はそれこそ赤ん坊の頃からこのヴァイオリンに親しんできた。
 何故なら、父親が自分に英才教育という名の鎖でもって私を雁字搦めに縛ってきたからだ。

 ──重い、こんなもの。

 どんなに美しい音色を響かせても、それは全長が60cmはあるのだ。重さは500gほど。
 それを鎖骨の上に乗せ、硬い弦を押さえ、つま弾く。

 ──指先だって、連続で弾き続ければ痛いのだ。

 ちらりと視線を上げると、眼を瞑った父親が腕を組んだまま、私が生み出す音色のチェックをしていた。
 冷たい眼差しで弾き続けながら、私は考え続ける。
 この鎖から逃れられるにはどうしたらいいのか。

 ──この重みから、どうしたら離れられるのか。


●第一楽章

「夢夜ちゃん、今日はもうお夕飯食べていくでしょう?」
 夢中になって友達と遊んでいた私は、持っていた人形をぽとりと落としながら難しい顔をして考えた。
「夢夜ちゃん、きょおははんばーぐなんだよ? ままのはんばーぐはおいしいの」
 嬉しそうに笑うその子は、同じ幼稚園の友達だった。
 自分が銀色の髪を持つのに対して、その子はふわふわした茶色の髪。フリルがとてもよく似合う子で、お母さんの料理が一番好きだとも。
「うん‥‥でも」
 優しい友達もそのご両親も凄く優しくて、一緒にハンバーグを食べるのはとても楽しそうに見えた。
 ううんと愚図りながら、心の中で早く家に帰らなきゃ、という思いを退けるだけの都合の良い理由を探していた。
「遅くなったら、送ってあげるよ。ちゃんとお預かりしますってお母さんにも言ってあげる」
「あ‥‥はい、ありがとう!」
 大人が言ってくれるなら、と思って私は笑顔で頷いた。そう、私はよく笑う子供だったのだ──‥‥

「お前は稽古の時間も覚えてられないのか!?」
 そんな私を出迎えたのは、迎えに来るの一言もなかった父親の上気した顔だった。
 ──怖い‥‥。
「いつもこの時間は先生が来ていると知っていて約束を破ったのか!?」
 友達のお母さんが電話した時は、何も言わなかったのに。
「もう遅いから寝る? ふざけるな! 夕方に出来なかった練習はこれからやれっ!!」
 そう、この時に。
 私がヴァイオリンを弾かないと、どうなるか分かったのだ。
 お父さんが、怒る。
 お父さんが、私を罵る。
 お父さんが、私を嫌いになる。
「ごめ、なさ‥‥」
「謝る時間があるならさっさとヴァイオリンを取ってくるんだ! 早く!!」
「はっ、はい‥‥っ」
 部屋を出て、廊下を走りながら。私は泣きそうになるのを堪え、歯を食いしばった。
 お父さんが、もっと私を嫌いになるから。
 ヴァイオリンを弾かない私は、嫌いみたいだから。
 置いているケースに手をかけ、子供用のヴァイオリンを取り出す。
 昨日まで楽しく弾いていたそれは、今はもう、重くて──‥‥


●第二楽章

「平澤さんっ! ひーらーさーわーさーんっ!!」
「‥‥」
 キーンコーンカーンコーン。
 どの学校でも同じように鳴る鐘の音を聞いた私は、いつもの通り、席を立った。
 起立、礼。サヨウナラ。
 それを言ったらもうこの学校に居る事はない。私には、他にやる事があったから。
「ひ、平澤さん、相変わらず歩くの早いね〜」
 私を呼びとめ、追いかけてきた子は小学校で一人は居る人気者、というやつだった。
 ころころと笑って、怒って、友達と一緒に泣いて。学校に来ていてもいつも楽しそうだ。
「‥‥何?」
 冷たい対応にも関わらず、彼女は笑っている。えっとね、と照れたように私に誘いをかけた。
「もうすぐ運動会あるじゃない? だから、皆で長縄跳びとか、二人三脚とか。練習しようって言ってるの。平澤さん忙しいかもしんないけど、」
「悪いけど」
 放っておいたらべらべら喋り続けそうな言葉をぶった切り、私はいつの間にやらすっかり能面化した顔で言った。
「家に帰らないと、ヴァイオリンの練習が出来ないから」
「あ、そ‥‥そっか」
 ひたと見据える灰の瞳に押されるように、頷いた。
 拒否とか否定とか、夢夜の瞳を見ていると出来ない気がする、とクラスメイトは思う。
 まだ十かそこらで泰然自若とした態度、そして相手の愛想すら無用だと言ってのける夢夜は、他の生徒達と完全に一線を引いていた。
 先生すらも、一目置く女の子。
「じゃあ‥‥」
「あ、あの、今日じゃなくってもいいから、運動会までなら参加、いつでもいいからしてねっ!」
 手を振るでもなく去って行く夢夜の背中に向かってかけたれる言葉。
 彼女の気遣いは、親切からくるものだ。大人達の裏のある感情ではない。それは分かっているけれど。
 ──はぁ。
 既に来ているだろうヴァイオリンの講師を思い浮かべ、溜め息を吐く。
 きっと父親に運動会に出たいと言えば、突き指したらどうするのかと言うだろう。もしくは、時間の無駄だと言うのか。
 どっちみち、義務教育期間の小学校の間すら、私は自由にする事を許される事はない。
 もうこの頃には、幾つかのコンクールで賞を取り、天才ヴァイオリニストの名を欲しいままにしていたから。
 教師も文句を言わない、誰一人として父親の方針に文句を言えやしないのだ。──私ですら。
「はぁ‥‥」
 最近、ヴァイオリンが重くて仕方がない。弾いても、全くと言っていいほど楽しくない。
 父親としての態度を期待するのもバカバカしいと思えるようになってしまった自分も、随分子供らしくないのだろう。級友達の態度を見ていれば違う。自分とは何か根本的に違うのだ‥‥と。
「家、出たいな‥‥」
 一人で立つ事も出来ない子供は、所詮大人の玩具だ、と心中毒を吐いた。


●第三章

「違うと言っているだろう、どうしてそんな簡単なところで躓くんだ!?」
 幾度もの繰り返しの後そう言われた台詞に、夢夜はぎゅっと唇を噛んだ。そこは何度も講師に注意された場所。
 ──どうして楽しそうに弾けないの?
 講師の困惑する顔と、自分の思うように弾けない娘を叱る父。その両方が、私にとってとてつもなく重い。
(楽しい事? 一体何を思い浮かべればそんな気持ちになるのよ)
 前髪の下で父親を睨みつけながら、弓をきつく握る。
 ──私が笑うのを止めたのはお父さんなのに。遊べなくしたのはお父さんなのに。
 でもこう言ったところで逆上するのは眼に見えている。私はただ悔しくて、このヴァイオリンが憎らしかった。
「これは迎えた春を嬉しい、楽しい、草原の中で駆け回るような気持ちで弾くんだ。簡単な事じゃないか」
 ぎっ、と唇を噛む。
 いつ私が草原の中を駆け回った事があると? 外で遊ぶ暇があるなら室内でヴァイオリンを弾けと言った貴方が!
「‥‥もういい、時間を置く。少し頭を冷やしてこい」
 何故そうな父親が苦悩しているのか。腹立たしくて、ヴァイオリンを引っ掴んだまま部屋を出た。

 バンッ!
 自室へ戻るなりヴァイオリンを投げつけるべく、思い切り振り上げた。
「〜〜〜〜!」
 ぼすっ! とソファに叩きつける。
 一瞬後のヴァイオリンを想像すると、憎らしいのも本当なのに床に叩きつける事が出来なかった。
 ──っはぁ‥‥バッカみたい。
 窓の外は、雨が降り注いでいる。沢山の量の水が、窓を叩いている。
 ざああ、ざああ、ざああああ──‥‥
「‥‥‥‥」
 何も、考えられなかった。
 何も考えたくなんか、ない。
 もう、自分で受け止められるだけの量じゃなかった。

「‥‥っは、寒っ‥‥」
 土砂降りの雨の中、私は飛び出していた。
 ふわりと広がっていたワンピースの裾が、濡れて足に纏わりつく。気持ち悪いけれど、拭くものはない。
 ──なのに、どうして私は『これ』を持って出てきたのか‥‥。
 タオルや傘を持って出れば良かったのに、何故か私の選択肢には存在しなかった。
 この雨から身を守るものでなく何故私はヴァイオリンを──‥‥
 分からない。分かりたくもない。
 父親の本音も、私の中変質してしまったものの正体も。

「おやおやおやおや」

 そんな時に声をかけてきたのが、この人だった。

「お嬢さん、何で傘を持ってないんだい? それじゃあ寒いだろうに‥‥」

 誰、と呟く唇は既に色を失くしていた。
 風邪を引いたのか何なのか、どんどんと急速に狭まっていく視界の中で、私が見たのは。

「大丈夫かい?」

 見た事もない一人の老人が差し出す、眼に眩しいくらいの青い傘‥‥。




 ──私はもう、ヴィヴァルディの『春』なんて弾けないものだと思っていた──