<東京怪談ノベル(シングル)>


協奏曲第2番 ト短調、RV.315「夏」


 浮かんでは消えていく意識の中、私が見ていたのはかつて友達と呼んでいた人の笑顔──‥‥

(夢夜ちゃん)

 とても可愛らしい声で私を呼び、ヴァイオリンが上手く弾けない、と言って泣いていた。
 大会とかコンクールとか、まだ人の注目を一身に浴びる舞台に緊張していた頃で、弾く順番が偶然私の前だった。
 歳が近かったからか。それとも私がまだ変わる前だったからか。
 私は彼女と、とても自然に近づいたのだ──‥‥

(夢夜ちゃんのヴァイオリンのおと、だいすき)

 そう言ってくれていたのに。



●第一楽章

 ハッと目を覚ました時、真っ先に知覚出来たのは雨の音でなく、年老いた二つの顔だった。
 ぱちくり、と私と見つめ合った少しの後、老婆が柔らかく笑う。
「‥‥良かった、目が覚めて」
 見た事もない人物がホッとしたのは、私が目を覚ましたからだろうか? 何故?
 寝かしつけられていた身体を起こそうとすると、重い。水を吸った服を着ているかのようだ。
 かけられた言葉に反応するでもなく、ぼうっと年寄り二人を眺めると、老婆が水に入ったコップを差し出してくれる。
 鈍いが、何をどうしたいのか理解出来なかった。
 ──私を助けてこの人達に何かメリットがあるんだろうか?
 そんな冷めた事を思っている私。
「これをお飲み。熱が高くて喉が渇くだろう?」
 熱?
 ぼんやり手をやると、確かに熱かった。そのまま部屋を見回すと、見覚えのない部屋に寝かされていた事に気付く。それと同時に雨の音も。
 ハッ。
「ヴァイオリン‥‥ヴァイオリンは!?」
 雨の中、家を出てきてしまった事を思い出した。ヴァイオリンは繊細だ。そんな中、置いてきてしまったのだとしたら──
「大丈夫よ。落ち着いて、水を飲んで」
 水を差し出す爺からコップを受け取り、再度老婆が水をすすめた。
 窓の外を眺めると、大分暗い。父は、私が居なくなった事に気付いただろうか? それとも怒り狂いまた怒鳴り散らしているのか。
 自嘲気味に嗤う私はさぞ年齢不相応だったのだろう。私の態度に何か思うところがあったのか、爺の顔は少し苦い──‥‥


●第二章 

 熱のだるさも随分マシになり、寝床から這い出した夢夜は老婆がケアしてくれたらしいヴァイオリンを手に取った。
 床に叩きつけて壊してやろうと思ったのも事実なのに、あの家から持ち出したのは唯一これだった。
 私にとってどういう存在なのか、混乱したままだ。
 この部屋は自由に使っていいと言われたから、何故か置いてある楽譜台を引きずって部屋の中心に置いた。
 パチリと音を立ててヴァイオリンケースを開ける。老婆が言ったように本当に濡れてなどいなかった。
 ──別に練習をするように言われたからでもない。ただ、楽譜台を見た瞬間、弾きたいと思った。

 慣れた感触にホッと息をついて、鎖骨に乗せる。
(いつまでも居てくれて、構わないのよ)
 脳裏に浮かぶのは、この洋館の持ち主である老夫婦の言葉。
 何故あんなザザ降りの中外に居たのか、その理由が父にあると伝えたら、快くこの一室を提供してくれたのだ。
 その感情は夢夜にとっては不可解で──そう、雨の中差し出された真っ青な傘くらいに縁のないものだったから。
 ご迷惑をおかけして、と形ばかりの礼を言おうとしたらまた爺は眉間に皺を寄せた。
(大人にそんな遠慮はしなくていい)
 じゃあどう言えと?
 昔から子供の中に居る事より講師やコンクールの審査員の中に居た私は、どう反応すればいいか分からない。
 ──でも、ここでの生活は家よりずっと居心地が良い。
(やっぱり、無理矢理練習させられる事はないからかしら)
 その理由を見つけようとするように、弓を引く。ここでの練習を続ける。


●第三楽章

「たまに聴きに来ても構わないかしら」
「夢夜ちゃん、お茶にしましょう」
 笑顔の多い、聡子さんと。
「これから買い物に行こうと思うんだがね。何か口にしたいものはあるかい?」
「そうかい。無理はしないようにね」
 私の返事に敏感に反応する、源次郎さん。

 目を瞑ったまま、私は今日もこの洋館でヴァイオリンを爪弾く。家を出る原因ともなったヴィヴァルディは流石に弾く気になれず、自分で作曲したものを弾いていた。
 命令されずに弾く毎日。何をするにも自由だ、と実感した一つとして、ハサミを見かけた瞬間髪を切ってしまった。雨に濡れて重かったロングヘアー。今はすっかり短くなって軽い。
 けれど、まだ私には分からない沢山の事が残っている。弾けないヴィヴァルディ。老夫婦の見返りを求めない態度。そしてこの家に来て見たまだ忘れられない夢。

(夢夜ちゃん)

 友達だと思っていた彼女の本音。

(夢夜ちゃんのヴァイオリンのおと、だいすき)

 人は平気で嘘をつく。

(‥‥聞いて、たの?)

 本音を言った筈の彼女が傷ついたように被害者振るなんて、なんて滑稽なんだろう。

(昔は、一緒に居れば注目してもらえたけど。今は比べられるだけだもん。あの子、さいあく)

 いつから、言葉は嘘に。いや、最初から私は騙されていたのか。
 世辞という大人達が見せる汚い嘘と、同じ嘘。

(夢夜ちゃんのこと、本当はずっとずっと前から嫌いだったよ)

 ──あの傘のような青い空。現実で、見た事あったかしら。

 ない。知らない。だから、私はヴィヴァルディを弾けないのだ。きっと今弾いてるこの曲も、聞いている人間には──‥‥

 ガタンッ!

 ぴたり。思考を乱す音が部屋の外から聞こえた。
 一歩も前に進めない私の沈黙を乱す、誰かの──‥‥



 ──私はもう一度、『それ』を知る事が出来るのだろうか?──