ふたりの道
船に揺られ、陽にきらめく銀の髪を潮風に遊ばせながら、アーシャ・イクティノス(eb6702)は目を細めた。
海峡を渡った先は、イギリス王国。妹、アイシャ・オルテンシア(ec2418)が暮らす地。かつて後にした祖国。
住いとするノルマン王国からは、昨今は月道さえ使えば瞬く間の距離でしかないが、たまには海を渡るのも悪くない、とアーシャは思う。
「初めて渡ったのは、もう何年前だっけ?」
故郷を思い出すとき、まず浮かぶのは、一面のシロツメ草。
放っておくと家の中で本ばかり読んでいる妹を連れ出して、花冠を作った。
貴族の家に生まれ、騎士になるべく育てられていた二人が、晴れた空の下、語り合うのは将来の夢。
「大きくなったら、二人で王様をまもろうね」
アーシャの言葉にアイシャが頷く。
「お姉が一緒なら」
ちょっと、怖いけど‥‥と呟くアイシャを、アーシャがきゅっと抱きしめる。
「大丈夫。アイシャも私がまもってあげる。だから、こわくないよ」
「うん。お姉がいれば、なんにも、こわくないの」
頬を染めて頷く妹が可愛くて、もっともっと強くならなきゃ、とアーシャは思った。
「でも‥‥お姉、私達、りっぱな騎士になれるのかな?」
アーシャもアイシャも小さな子供だけれど、自分たち家族が、あまり世間の人々に好かれていないことは肌で感じていた。
騎士というのは、皆から尊敬される人の筈。それなのに‥‥
「だいじょうぶ。つよくなれば‥‥みんなまもれるくらい、つよくなれば、わかってもらえるよ」
アーシャは、一生懸命考えた。
どうすれば、強くなれる? 皆を守ることができる?
「‥‥!! そうだっ」
「お姉‥‥」
半歩後ろから、アイシャがアーシャの袖を引いた。
「だぁいじょうぶ〜」
こっそり持ち出した父のナイフを、振って見せる。
本当は、練習用の剣よりずっと重くて腕が痺れていたけれど、平気な振りをした。
アイシャはアイシャで、重いランタンを一生懸命運んでいる。
「ここに、悪い化け物がすみついて、みんながこまってるの」
近くの森で見つけた洞窟。
「つよくなるには、化け物を退治しないといけないのよ」
うわん、と声が奥まで響く。
岩をよじ登り、小さな隙間を潜り抜け。生来身ごなしの軽い二人は、時折危うい場面もありつつ、奥へ奥へと歩を進めた。
‥‥がさり。
物音に、びく、と揃って振り返ると、両手の平くらいの鼠と目が合った。
あちらも驚いたらしく、咥えていた何かをポロリと落とすと、横穴へと逃げ込んだ。
「なぁんだ、ネズミかー」
一瞬の動揺を押し隠し、アーシャがため息をつく。
「何か、落としたよね?」
二人で、岩の隙間を覗き込むと、何かが、ランタンの明かりを鈍く弾いた。
「メダル?」
アイシャが首を傾げた。親指の先程の、小さくて平たくて丸い金属の塊。端には紐が通るような小さな穴。元は文字か模様が刻まれていたようだが、錆が覆っていて解読出来ない。
「ふふふ、せんりひーん」
アーシャが顔を綻ばせた。冒険では宝物がみつかるんだよ、と言って。
「この奥に、もっとあるかも‥‥」
横穴を覗き込む。屈んで歩ける位の高さはあった。
奥に鼠の住処があるなら、色々溜め込んでるかもね、とアイシャに向き直ると、妹は顔を引きつらせ、半歩後ずさった。
「アイシャ?」
「‥お姉‥‥」
アイシャの視線を追って、再び穴を振り返る。
「‥‥ひっ」
並んで光る、二つの石。否、一対の、目。
「お、おばけネズミ‥‥っ」
一般的に、ジャイアントラットと呼ばれるそれと、ばっちり目が合ってしまったアーシャは、反射的に飛び退った。
「や‥に、逃げ‥‥」
「に、逃げないもんっ」
アーシャが、震える手でナイフを構え、アイシャの前に立った。
つよくならなきゃ。
アイシャを守れるくらい。みんなに認めてもらえるくらい。
しかし、ナイフを振り下ろすより早く、正面から突進され跳ね飛ばされる。
ガチャンッ。
ナイフが手から離れた音を、くらくらする頭の隅で聞いた。
‥‥あの歯に噛まれたら、いたそうだなぁ‥‥。
目の前に迫った鼠の前歯は、しかし、アーシャに届く前に逸らされた。
―キーッ!
鼠の悲鳴と同時に、腕を引っ張られる。
「お姉、逃げよう!」
アイシャの声で我に返った。
彼女が無我夢中で振り回したランタンが、奇跡的にジャイアントラットの頭を捕らえたのだ。
その隙に立ち上がり、あとはもう、逃げて、逃げて、逃げて‥‥
「うわぁぁん‥‥」
夕刻。屋敷には幼い娘達の泣声が響き渡った。
ジャイアントラットから、逃げて。しかし、足はあちらの方が速く、もう駄目だと思ったその時、駆けつけた父に助けられた。
ナイフとランタンと姉妹が消えている事に気づき、探しに出たのだそうだ。昨日の雨の為に、二人の足跡が残っていた事が幸いした。
彼の手に掛かるとジャイアントラットなど造作もなく退けられ、その頼もしさに心底安堵した二人だったが、本当の恐怖はその先に待っていた。
幸か不幸かその日まで、姉妹は父の本気の叱責を経験した事が無かったのである。
「あいたた。‥‥アイシャ〜、そろそろ泣き止まない?」
跳ね飛ばされた時にぶつけたらしく、アーシャの頭には大きな瘤が出来ていた。それを濡らした布で冷やしながら、アイシャの顔を覗き込んだ。
「だ‥だって、も、もしかしたら‥‥お姉がしんじゃったかも、しれないって‥‥うっく」
お化け鼠よりも、父の雷よりも。大好きな姉がいなくなるのが一番怖い。
「大丈夫、私はいなくならないよ。ずっと、アイシャのそばにいるよ」
「うん‥‥」
「はい、私達のたからもの。アイシャがもってて」
ふわり、とアイシャの首に、錆びたメダルのペンダント。
メダルの穴に通したきれいな飾り紐は、アーシャが母から貰い、大切に閉まっておいたとっておき。
「お姉‥‥だいすき。ずうっと‥‥」
「うん、私も、アイシャがだいすき。ずっとずっと、だいすきだよ」
毎日が、楽しかった。
アイシャがいれば。
お姉がいれば。
二人で語り会う未来は、本当にきらきらしていて。夢見るだけで、幸せな気持ちになれた。
その時は、知らなかったのだ。
そうして過ごす「今」こそが、奇跡のような幸せで、夢のように儚い時間だったということ。
その日は、突然やってきた。
いつもより早く起こされると、隣に寝ている筈のアイシャはいなかった。
寝巻姿で、促されるままに外へ出ると、荷物を積んだ馬車と旅装のアイシャ。
「アイシャは、どこへいくの?」
その問いに、答えは無く。
馬車に乗り掛けたアイシャが、アーシャを振り返った。
「お姉は、どうして一緒にこないの?」
‥‥。
返す沈黙に、じわり、と不安が寄せる。
「ねえ、アイシャは‥‥」
口に出しかけた問いは、馬を鞭打つ音に遮られた。
ガラガラと走りだす馬車。
「‥‥っ、アイシャ!!」
飛び出そうとしたアーシャ。しかしその両肩は父の手に押さえられ、びくともしない。
馬車の窓から、アイシャが顔を出す。
徐々に、歪んでいく表情。
『おねえ‥‥』
呟かれたであろう言葉と、後に続いた筈の泣き声は、離れていく距離と馬車の騒音に遮られ、とうとうアーシャの耳には届かなかった。
あっけない別れだった。
生まれてからずっと共にあった姉妹を裂くには、あまりにも。
「お姉ぇ〜」
港で手を振る妹の姿を認め、アーシャも手を振り返す。
あの別れから、再開するまでの数年間。
その間に、姉妹は自分たちの立場を理解した。
なぜ、アイシャが養子に出されなければならなかったのか。
ハーフエルフの両親の元に生まれた、不吉と忌まれる双子の姉妹。
立派な騎士にさえなれば皆に認めて貰える、と思っていたけれど、時はそれを待ってはくれなかったのだ。
「お疲れさまでした。イルカにはしゃぎすぎて、落ちたりしませんでした?」
相変わらず可愛いものに目がないですからね、と。片目をつぶって見せるアイシャに、姉の陰で怯えていた幼子の面影はない。
「しないもん。アイシャの意地悪」
唇を尖らせたアーシャに、くすくすと笑みを漏らす。
「お天気で良かったです。せっかくだからお散歩しません?」
数年間の離別を経て二人は再会し、今では、同じ冒険者として共に戦うこともある。
しかし、一緒の時間を重ねても、分かれた道が再び重なる事は無かった。
眺めの良い高台を見つけ、並んで腰を下ろした。
しばらく、黙って海鳥の声を聞く。
空が、青かった。いつかの、シロツメクサの野原から見上げたそれのように。
「お姉‥‥」
アイシャの呟きが、二人の間に落ちた。
「私は、強くなりました」
「‥‥? うん」
意図を量りかね、アーシャが視線を遣ると、アイシャは真っ直ぐに、正面‥‥祖国の海を見つめていた。
つられて、水平線を眺める。滑るように行き交う、白い帆がまぶしい。
「王国は私が守ります」
『大きくなったら、二人で王様をまもろうね』
一面のシロツメクサ。澄渡る蒼穹。
幼い日の、夢物語。
果されなかった、誓い。
「‥‥‥」
守ってあげるという約束すら、あの別れの日、無に帰した。
だから、アイシャは自ら強くなった。
アイシャの、剣に添えられた手。かつては、姉の袖を握り締め、小さく震えていた手。今では、王宮騎士見習いという地位を得、さらなる高みを掴もうとしている手だ。
「だから、お姉は、お姉の道を生きてください」
は、とアーシャが顔を上げた。
「何神妙な顔してるんです、能天気なお姉らしくもない」
「な、なぁ‥もうっ、‥・アイシャ、本っ当〜にイイ性格になったっていうか〜」
「私にも、色々あったんです」
つん、と。大げさに顔を逸らせてみせる。冗談めかした仕草だが、幼い日に家族と離れ離れにされたハーフエルフの娘。生易しい『色々』では、無かった筈だ。
けれど、それは今更言っても仕方の無いこと。
イギリスで、ノルマンで。冒険者として活躍する傍ら、アーシャは生涯の伴侶を見つけ、アイシャは目指すべき場所を見据え。
それぞれの道を歩んでいる。
同じ道ではないけれど、同じ場所から続いてきた道を。
「さて‥‥そろそろ。夕食買って帰りましょう。お姉も、手伝ってくださいね、沢山食べるんだから」
「そ、そんなことないもん〜」
別たれた道、果されなかった誓い。それでもなお、変わらぬ想いは。
『お姉‥‥だいすき。ずうっと‥‥』
『うん、私も、アイシャがだいすき。ずっとずっと、だいすきだよ』
胸の奥、大切に仕舞った言葉。
それがきっと、いつまでも続く姉妹の絆。
並んで、歩き出す。
先刻より少し伸びた影が重なり合って、二人の後に続いた。
|