月夜の逢瀬
「11月、5日‥‥」
控えめに響く鐘は、今日と明日の境界を示している。
パリの雑貨店ブラン商会の娘、シャルロット・ブラン(ez1140)は、再び数日前に届いた手紙を手に取った。
封筒を開けると、ほのかにハーブが香る。
カサリ、と。便箋を開けば、見慣れた筆跡で、まるで、声が聞こえてきそうな一節が綴られている。
『11月5日、真夜中に迎えに行くわ。準備をして待っていてね』
「‥‥ユリゼ・ファルアート(ea3502)」
呟いた差出人の名に、ばさり、と羽音が重なった。
「あ‥‥っ」
窓の外、月光にきらめく羽を広げていたのは、今まで見たことの無い‥‥それこそ、絵本の中でしかお目に掛かれないような巨大な生き物。
ムーンドラゴン、だった。
「こんばんは。お迎えに上がりました」
しかし、その背に載った涼やかな声の主は、シャルロットにはとても馴染み深い、親しい人で。
外套のフードを後ろに払うと、青と碧の瞳がこちらを見つめていた。
「こんばんは。お久しぶり、ユリゼさん。お待ちしてました」
頬を撫でる風の冷たさに、シャルロットは思わず首をすくめた。
それでも、決して下は見ない。あまりの高さに、すくみ上がってしまうからだ。
その代わり、同乗者の背、青い外套に、きゅ、としがみ付いた。
「ごめんね、夜遅くに」
月影色の翼が夜空に翻り、信じられないような速さで二人を運ぶ。
「でも、一月早くお誕生日おめでとう」
お祝いは、アイボリーのコート。今まさに、シャルロットを夜風から守っている。
「ありがとう、ございます」
襟元を飾る兎の毛が、少しくすぐったくて、とても温かい。
「でも‥‥どうして、急に?」
会いに来てくれた事は、とても嬉しい。けれど、その理由が解らなかった。
「ほら、見えてきた」
しかし、ユリゼは、問いには小さく笑みを返すばかり。
「おかえりなさい、シャルロットちゃん」
高い城壁と、夜半にあってもなお絶えない灯り。それは、ノルマン王国随一の都市。
「‥‥パリ。ちょっと久しぶり、ですね」
故郷の灯火に、シャルロットは目を細めた。
「驚く、かなぁ」
「んな‥‥ぁっ」
夜着のまま、まろぶように飛び出して来た人影に、ユリゼは満足げな笑みを浮かべた。
「お、お嬢さん?」
石畳に降り立ったムーンドラゴン、フロージュ。その背から降りようとしてバランスを崩したシャルロットを、迷いなく抱きとめた仕草に、その笑みはさらに深まる。
「こんばんは、リュック」
「‥‥‥」
平然と放たれた挨拶に、青年はがくりとうな垂れた。
「何よ。久しぶりなのに。嬉しくないの? 私は嬉しいわ」
「いや、何か‥‥」
色々言いたい事がありつつ、何から言ったものかと数拍迷った末に、青年‥‥ブラン商会店員リュック・ラトゥールは、まずはこれだけは、と言葉を搾り出した。
「俺も、嬉しいです。お帰りなさい」
「ただいま。少しの間だけ、だけどね」
「でもどうして。ていうか、これ」
恐る恐る、ドラゴンを見上げると、やっと、その背に乗った女性を認めた。
「‥‥ねえ、リュックさん。一応、私も居るんだけど?」
視界に入らなかったかしらね、と、にっこり。
リュックが手にしたランタンの明かりを、胸元の淡いピンクの宝石が弾いた。
「‥っ、ユリゼさん。ども、お久しぶり、です」
ユリゼの姿に、リュックは諸々悟ったようだ。昨今、ドラゴンの乗りの冒険者も、珍しくはないらしいから。
「これ、お祝い。今月なんでしょ? 誕生日」
差出した包みは、シャルロットのコートと揃いのマフラー。
「手編みのは、何時か貰ってね」
手編み、の言葉にシャルロットは微妙に目を逸らした。料理がそうであったように、いつか扱かれる日が来るかもしれない。
「あれ? 何で知って‥‥。ええと、ありがとうございます。‥‥お嬢さんの、事も」
「ふふ、どうしたしまして。二人への、ささやかな誕生日プレゼントよ」
その言葉に、リュックとシャルロットの視線がぶつかり、弾かれたように、離れた。
友人というには甘酸っぱく、さりとて、恋人というには何か足りない。
相変わらずのようにも、少し変わったようにも見える2人に。
「さて、これ以上邪魔しちゃ悪いし、その辺り飛んで来るわね。暫くしたら、迎えに来るから。‥‥しばしの逢瀬を、お楽しみください」
シャルロットに向けたウインクと同時に、ふわり、と風がまき上がった。
屋根を飛越え、教会の尖塔をくるりと廻ってかわして。
高く昇って、ゆっくりと旋回する。
ここまで来ると、既に、風とフロージュの羽ばたきしか聞こえない。
眼下には、住み慣れた町の、屋根が連なる。そして…
「‥‥ポラリス」
呟きが、夜に溶けた。
軽く騎龍の背を叩いて、旋回をとめる。
視線の先、控えめに輝く北極星。
‥‥求めてみようと、思ったのだ。
「北の、果て‥‥」
伝承や書物には、触れた事がある。
だから、この目で。氷の地の不思議を探しに。
極寒の雪の下密やかに眠る草花の息吹、海を覆う一面の氷、それから‥‥
「それから‥‥天に横たわる光の帯」
「光の、帯?」
シェアト・レフロージュ(ea3869)が視線を向けると、こくり、と金髪の頭が傾いた。
「うん。僕は、見てないんだけど」
屋根の上、並んで腰掛け、二人で流れる星を数える。
「僕達が歩いたところより、ずっと北の、もっと寒いところでは‥‥七色の光の帯が夜空を飾るって、聞いた」
見に行きたいと思ったんだけど、と。遥か北の大地。その旅を終えた少年は、呟いた。
「まだ無理だ、って言われた。でも‥‥」
「いつか見たい、と?」
「うん。世界は、広いんだね。知らないもの、知らない人、知らない言葉‥‥沢山知るたび、もっともっと、知らない事が増えてく気がした」
水晶のようだった瞳には光が宿り、背丈も顔つきも、随分大人びた。
「よい旅を、されたんですね。リュシアンさんは」
「そうかな。‥‥うん‥‥そうだと思う」
微かに浮かべた笑みも、以前とは少し違う。ただただ無垢だったそれは、今では、やや深い色を帯びるようになった。
「あの子‥‥リゼにとっては、どんな旅になるのでしょうか」
小さなため息のあと、呟く。
「本当に、言い出したら聞かないのね‥‥」
夜中の訪いに、また何かあったのかと扉を開くと、旅姿。
そして、少し首をかしげて、言ったのだ。
あのね、姉さん。何かね‥‥
「何かね‥‥北の地が呼んでる気がするの」
帰り道。
「気にかかる事は沢山あるけど、一度パリを離れようかなって」
再びムーンドラゴンの背に揺られ、空の中。
「‥‥でも何かあれば、連絡を貰えばすぐ帰ってくるから」
「あの‥‥」
言葉を捜している気配に、ユリゼが沈黙で応えると、シャルロットはゆっくりと言葉を紡いだ。
「離れてみるのも、良い‥‥と思うんです。たまには、ですけど」
背中から、ほんのり、熱と振動が伝わる。
「えっと‥‥離れてみないと、解らない事も、あったから」
人も、土地も、そして境遇も。
「うん‥‥」
離れてやっと周りが見えたり、ますます愛おしさが募ったり。
「どうか、お気をつけて‥‥」
気をつけて行ってらっしゃい。
少しの呆れと諦めが混ざった、包み込むような笑み。
シェアトに連絡役を頼んだ時の、彼女の表情。『心配』の割合はそう高く無かった、と思う。
ちゃんと何処に居るのかこまめに連絡を寄越してね、と言っていた。
旅を職分とするバードの、彼女に見送られるのは、少し不思議な気分で。
ああ‥‥この人は、己の在る場所、帰る場所を定めた人なのだ。
そう思った。
それでは、とユリゼは問う。私、は‥‥
「‥‥本当は、見つかるまで帰らないつもりだったけど‥‥参るわ。でも、待ってるだけも嫌だしね」
呟きは風に紛れ、シャルロットには届かなかった。
それでも、気配を感じたのだろう。問い掛けるように首を傾げた仕草に、なんでもないの、と笑みを返した。
行方不明の連れは、探しに行ったらあっさり見つかった。
旅への覚悟と、身支度は見事に空回り。嬉しくないと言ったら嘘だけれど、すっかり旅路に就いてしまった心の整理を、どうつけたものかと思ったのだ。
「さあ、着いたわ」
手を取って、ドラゴンから降りるシャルロットを支える。
「ありがとうございます。‥‥北へは、このまま?」
「ええ。旅の前の我侭に、付き合ってくれてありがとう」
ふるり、と首を振って、シャルロットはユリゼを見上げた。
「ユリゼさんの『我侭』はいつも、誰かの為だもの。もし、誰かの嬉しい顔が、ユリゼさんにとっての、自己満足や我侭なんだったら‥‥」
にこ、と。花が開くように、笑った。
「それは、とってもとっても、素敵な我侭です」
「シャルロットちゃん‥‥」
冷気でやや紅潮した少女の頬を、ユリゼは両手でそっと包んだ。
「3年も、経ったのよね。初めて会った時から、可愛らしかったけど。‥‥本当に、綺麗になったわ」
こつ、と額を合わせる。
「ユリゼさんには、適いません。全っ然」
2人、間近で視線を合わせ微笑みを交わす。
「それじゃ‥‥」
名残を惜しむように、ユリゼがシャルロットの肩に腕を回した。
一瞬、両腕に力を込めると、ひらりと身を翻してドラゴンの背へ。
「行って来ます。12月5日には必ず帰るわお姫様」
「行ってらっしゃい。良い旅に、なりますように」
小さくなってゆく竜の影が、月の形に重なった。
「あっ‥‥。忘れてた」
大切な事を、伝えるのを。
「私、聖夜祭の前には、パリに帰る事になったんです」
北へ向かって、呟いた。
「また、お店が忙しくなると思うから‥‥手伝って貰えたら、嬉しいな」
頼りは、星の瞬きと相棒の羽。
大地には時折灯火が、大空には幾多の星が。
その間を渡る私たちはちっぽけで、しかし、その全てをこの目に焼きつけ、眼裏に描く事が出来る。
夜が明けたら、また違う景色が見えるだろう。
どこまで、行けるかな。
風の音に耳を澄ませ、時折、懐かしい歌を口ずさみ。
空を、駆ける。
北へ。
真っ直ぐに、北へ。
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