君と紡ぐ都の夢
小柄な少女、と殆どの者は思うだろう。しかし、シェラ・ウパーラ(ez1079)は違った。
子供にしては振舞いが落着いているし、それより何より、懐かしい‥‥間近に触れ合った時間こそ短いものの、シェラの内に鮮烈な印象を残していずこかへ消えたあの娘、かの懐かしい空気を、彼女は纏っていたのだ。
あの子だ、と思った。紅の髪も碧の瞳も、目深に被った頭巾に隠れて見えなかったけれど。
「おっと‥‥」
使用済みの皿を高々と積み、抱えた彼女の小さな背中に、大柄な客の背がぶつかった。
その瞬間を目にしたら、多くの者が、思わず耳を塞いだだろう。しかし、数拍経っても酒場の喧騒が遮られることはなかった。
一瞬崩れかけた皿の塔を、彼女は器用に腕を回し足を踏出し、立直して見せたのだ。誰にも気付かせないほどさり気なく。
この、身のこなし。間違い、ない。
「わーい、お久しぶりだよね? ロロちゃんだよね?」
「‥‥っ、うわ、何す‥‥ッ」
「元気だった? シェラはちゃんとロロちゃん覚えてたよ。ロロちゃんはシェラのこと覚えててくれた?」
かくして、酒場の給仕ロロ‥‥かつては、道化としてパリの街角に在ったパラの女、ロスヴィータ・ロベルティーネ(ez1142)は、本日二度目の食器粉砕の危機を、持てる技術全てを駆使して回避する羽目になったのだった。
「ご、ごめんねロロちゃん。シェラ、嬉しくてつい‥‥」
侘びは、割物運搬中に死角から飛付いた件について。
「別に」
ふ、と溜息をつくロロの手から、餌を啄ばんでいるのは隼のヴィッツ。
酒場の裏手、店と店との隙間の細い通りに、シェラとロロは居た。
「割れなかったから、もういい」
隼の分が終わると、今度は自分の夕食らしい。樽に腰掛けると、チーズを挟んだだけの黒パンを二つに割った。
「ほら」
「わぁい、ありがとう。頂きま〜す」
「毒入りだったりして」
「むぐっ‥‥」
喉をつまらせ、ぱたぱたと飛び回るシフールの背を、パラの手がトン、と叩く。
「‥‥っ。ああ、飲んじゃった! シェラ死んじゃう? 死んじゃうの!? 冗談だよねロロちゃんっ」
「さあ? ロロはお尋ね者だよ。キミから居場所が割れるのは、困るかもしれない」
にやり、と浮かべた笑みは、悪戯が成功した子供のそれのようで。
「ロ、ロロちゃんは、いじわるだー!」
くつくつ、とひとしきり笑った後、元道化の顔から、ふ、と表情が抜けた。
「‥‥で? 何しに来たんだい」
「えっとね、芸が見たいな」
会いたいと、ずっと思っていた。けれど、何の当てもなくて。
「芸?」
「シェラ、ロロちゃんの芸を見たこと無かったから見てみたかったの。いい? おひねりないと、だめ?」
ここで会えたのは、偶然。とっても幸せな偶然だから、シェラは気持ちを伝えることを躊躇わない。
一期一会。人との出会いは、その瞬間だけのもの。同じ時は、二度とは巡って来ないと知っているから。
「道化の仮面は、とっくになくしたんだ。どうして、あんなもの‥‥」
ロロは、顔を背けた。自分の『笑い』は出来の悪い悲劇、愚者が愚者をあざ笑うような。いつからかそんな物になっていたと、分っている。
そして、そんな芸すら、既に手放したのだということも。
「ロロちゃん‥‥」
月のない、夜の裏路地だ。頭巾を外していても、互いの髪の色も瞳の色も判らない。
けれど、シェラはそれらを瞼の裏にありありと描く事が出来る。
鮮やかな紅の髪、印象的な碧玉の瞳。
不思議な魅力を湛えた視線、独特の語り口調。
思い出すと、懐かしくて。その人が、今目の前に居ることが、嬉しい。
「ロロちゃんのお話するのを聞くのも好きだったの。でも、ロロちゃん本人が一番好き」
「‥‥‥」
ロロは無言のまま背を向けると、シェラを置いて酒場の中へと戻ってしまった。
そしてその夜、もう一度扉が開く事は、無かった。
翌朝、シェラは鳥の羽ばたく音で目を覚ました。
「あっ」
宿の窓枠に佇んでいるのは見覚えのある隼。ロロの相棒、ヴィッツだ。
ちらり、とシェラに視線を遣ってから、飛び立つ。
「待って!」
後を追って、窓から飛び出した。
眼下に広がる小さな街は、収穫祭の最中。朝から、大勢の人が行き交って、祭りを楽しむ準備に余念が無い。
その人だかりから、少し離れた裏路地を、するすると抜けてゆく人影を見つけた。
古ぼけた外套、目深に被ったフード。向かう先は街の中心。真ん中に噴水を据えた街人の憩いの場。
シェラは、頬がゆるんでいくのを感じていた。
…ロロちゃんだ。あれは、ロロちゃんだ。
シェラには、分った。彼女は今、舞台に向かって歩を進めている。
カツッ、と、石畳を蹴る、靴の音。
薄暗い陰から、広場に飛び出すと、小さな背中をさらに屈めて、人々の足の間を抜けていく。
―バササッ‥‥
高く羽ばたき、いくらかの人目を集めた隼が、空に大きな円を描き、ゆっくりと下降する。
降り立ったのは、噴水の縁石に駆け上がった、小柄な人物の肩。
体型は外套に隠され、容貌も、深く被ったフードの陰。
それでも、何故か目に留まる不可思議な存在感に、数人が足を止める。
「パリを、見たことがあるかい?」
外套を払い現れたのは、道化服。黄と、緑と、赤。どこか非現実的な、極端な色合い。
「若い王が座し、白い鎧の騎士が守る、ノルマンの都」
両手を高く掲げ、くるり、と独楽のように回る。
体の動きに一拍遅れて、長い三つ編みが跳ねる頃には、路行く人皆足を止め、彼女の所作に見入っていた。
「知らないなら、教えてあげよう。街を彩る花の色」
右手を開くと、掌に花が咲いた。ひらり、ひらりと、作り物の花弁が風に乗る。
「そして、辻に響く歌声を」
左手をすっと天へ伸ばす。その指の先、ロロの視線の先に、シェラはいた。
シェラの瞳が驚きに見開かれ、やがて、それは満面の笑みに変わる。
ふんわり下降し、伸ばされたロロの手に小さな手を重ねると、軽く膝を曲げ、スカートを摘んで観客に挨拶。
竪琴を取り、心浮き立つ旋律をかき鳴らし、高く澄んだ歌声を重ね。
わぁ、と観客が沸く様子に、道化と吟遊詩人は、笑みを交わした。
何故だろう、とロロは思った。
とっくに捨てた筈だった。道化としての心も、芸も。仮面はとうに剥がれ、割れたのだと。
けれど。
『ロロちゃん本人が一番好き』
開け放しの、体の奥から先っぽまで、好意で一杯の、こんな笑顔を向けられたのは、何時振りだろう。
その時、ふとパリを想ったのだ。
そういえば、あの街には、このシフールのような、とんでもなくお人好な連中が居た。
嫌いじゃなかった。美しいものと、醜いもの。愛おしいものと、憎いもの。様々なものを孕み、人々を渦のように巻き込んで、力強い時を刻み続ける、あの街が。
だから、伝えても良いかと思ったのだ。今ロロが生きている、この街の人々に。
曲は、歌は、ますます高らかに響き。
拍にあわせて、様々な小道具が、芸が披露され、笑いと拍手を誘う。
夢みたい、とシェラは思った。
そう、夢だった。王様の結婚祝いと豊穣を祝う収穫祭で沸くパリの路上で、ロロと競演する、ひと時が。
ここは、ずっと夢見ていたパリではない。ずっと小さな…都なんか、見たこともない人たちばかりの街。
それでも、皆の胸には今、パリの風景が広がっている。ロロの芸が、シェラの曲が、こんなに遠くまで、花の都を運んでくる。
なんて、素敵なことだろう。
ポロン、曲の終わりの一音と、高く放った球が道化の手に収まるのが、同時。
一拍の余韻の後、割れるような拍手が、歓声が、広場を包んだ。
隼は道化の肩に収まり、道化は大仰な仕草で、吟遊詩人は可愛らしく、観客に礼を返す。
そして、声を揃えた。
「「ご観覧に、心より感謝を。――次の舞台で」」
「また会おうね」
祭りは終わり、人々は日常へ戻ってゆく。シェラも、ロロもだ。
「縁があれば、ね」
ふと、ロロちゃんには色々難しい事情があるのかもしれない、とシェラは思った。お尋ね者、そんな言葉も零していたから。
でも、難しいことはよく解らない。解ったのは、ロロはやっぱりロロだった、ということだけ。
それが、本当に嬉しかった。シェラにとっては、一緒に笑えることが幸せで、それ以上に、一緒に居るときその人らしく在ってくれたら、何よりも幸せなのだから。
次の縁は、きっとある。
なかったら、頑張って繋いでみればいい。
その時まで、ちょっとだけお別れ。
珍しく、穏やかに微笑む友と、その相棒に、シェラは大きく手を振った。
「ロロちゃんに素敵なものがたくさん降りますように。‥‥またね!」
<終>
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