クリエーター名  西尾遊戯
コメント  お目に留めていただきありがとうございます。 シリアス、戦闘、日常、ほのぼのなど幅広く対応可能です。 実際の作風については、サンプルや納品物にてお確かめください。
サンプル ■サンプル1
天地を繋ぐ、暮れの緋


 まだ暑さの残る八月の終わり。
「急ぎで書いて欲しい原稿がある」
 締め切りまで間がないが、引き受けてはもらえないか――。
 馴染みの編集者から相談を受け、綾のもとに一件の仕事が舞いこんできた。
 何名もの著名な文筆家を旅人として招き、短いエッセイとともに日本の伝統文化の現状を紹介するという特集記事。
 観光会社と連動しての企画で、掲載予定の雑誌を抱える出版社では綿密な準備のもと、すでにほとんどの原稿が集められていた。
 しかし、数名の原稿が未だに揃わず、彼は差し替えを念頭に代わりの書き手を探している最中だという。
 その編集者には何かと声をかけてもらっている恩もある上に、企画自体に興味を持った綾は、二つ返事で依頼を引き受けた。
 それが、半月ほど前のことである。
 取材をしたのは数日後のことで、初秋の京都へ行き、若手の染色職人を訪れた。
 入稿が済んだのは九月に入ってすぐ。
 その後、綾は別の原稿にかかっていたためすっかり忘れていたが、九月も半ばにかかった今なら、そろそろ掲載誌が書店に並ぶころだ。
 編集者は後日見本誌を送ると言っていたから、近日中には荷物が家に届くだろう。
 そこまで思い返し、綾はふと足を止めた。
 通り過ぎかけた書店まで引き返し、店の入り口をくぐる。
 入稿誌の発刊と同時に、思い出したことがある。
 取材をした若手の染色職人は、線の細い小柄な少女だった。
 都心で芸術関係の専門学校を卒業した後、染色好きが高じて京都を訪れ、今の工房に師事するようになったという。
『いつか、自分の手で再現したい色があるんです』
 それは何という名前の色ですか。
 問いかけた綾に、良く通る声で彼女は答えた。
『<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>』
 その時浮かべた少女の笑顔を、綾は今も鮮明に覚えている。
 目標を語るまっすぐな瞳。
 頼る者のなかった京都へ、単身少女を駆り立てるほどに印象的な緋(あか)。
 彼女を突き動かしたその色彩を、この目で見てみたい。
 綾は少女の出身地――奈良県の地図を手に取ると、雑誌の書架には目もくれず、そのままレジへ向かった。
 旅先は奈良県、奈良盆地の南西部。
 かつて豪族が支配した土地。御所市(ごせし)・葛城古道――。



 翌日、早朝から地図を頼りに車を走らせること数時間。
 目的の土地へたどり着くころには、すっかり昼をまわってしまっていた。
 周囲の景色からは背の高い建物が消え、視界の端にはなだらかな山が延々と連なっている。
 朝からの晴天続きで、山の上には青々とした空が広がっていた。
 平日ということもあって車線を走る車はまばらで、窓から吹き込む込む風が穏やかな午後を感じさせる。
 しばらく道路を道なりに走った後、綾は道の端に車を止めると、本日何度目かの地図との確認をはじめた。
 旅行慣れしているため、どんな場所でも大きく道を外れることは滅多にないが、それでも初めて通る道では慎重にならざるをえない。
 これまでにたどってきた道順を再確認し、現在地を把握。
 次に目標とする場所までの道順を確認すると、一息ついて眼鏡を外した。
 そろそろ、軽食を兼ねて車を駐車できる場所を探そうとあたりを見回した時だ。
 道の脇に、ひときわ目を惹く<緋>を見つけた。
「そういえばもう、彼岸花の季節なんですね」
 異様とも言えるシルエットを持つ彼岸花は、一目見れば誰もがその名を言い当てられるほど、秋の代表花として名高いものだ。
 並木や雑草に混ざっても、遠くからはっきりとその姿を認めることができる。
 季節になると突然花を咲かせ、一週間ほど咲いて、気が付いた時には姿を消している。
 実際には茎が伸びる期間、花が散った後に葉が成長する期間などあるのだが、綾にとって彼岸花というのは、突然現れて突然姿を消す神出鬼没の印象が強い。
 おりしも今は九月中旬。
 彼岸花が見ごろを迎えている時期だ。
 見渡してみると、この付近にはまばらに緋の群生が見えた。
 多くはあぜ道などに、転々と固まっている。
 田畑の周囲にこれだけの彼岸花が点在しているからには、近年咲き始めたのではなく、長年この土地で見られる光景なのだろう。
 染色見習いの少女は、この土地で生まれ育ったのだと言っていた。
 そして彼女を染色へと突き動かしたその色は、ただの<緋(あか)>ではなく、<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>なのだという。
 <此岸(しがん)>とは「この世」を指す言葉だ。
 そして<彼岸(ひがん)>は悟りの境地――俗に言う「あの世」を指す。
 少女がそこに「生まれ育った地に咲く花」、「彼岸花」の意味を兼ねているとしても不思議ではない。
 <暮れ>は夕暮れで間違いないだろう。
「そうすると、<繋ぐ>というのは、この世とあの世の境目がなくなるような光景――夕暮れに咲く彼岸花を指すんでしょうか……」
 ぐるりと視線を巡らせてみたが、目につくほどたくさんの彼岸花が咲いている場所は見あたらない。
 夕方になると田畑が緋く染まって見えるのかもしれないが、道の端であれこれ考えていても仕方がない。
 現地の人間に話を聞いてみれば、何か他のことがわかるかもしれない。
 綾は助手席に地図を置くと、サイドブレーキを解除した後、ウィンカーを出し、ハンドルに手をかけた。



 葛城古道とは奈良県葛城市から南へ走る道のことを言う。
 御所市じたい歴史ある土地として多くの史跡や文化財が残されているが、葛城古道周辺は特にその数が多い。
 葛城山のふもとにある不動寺(ふどうじ)から始まり、鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)、駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)、九品寺(くほんじ)、一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)、極楽寺(ごくらくじ)など、古道の端にある弥勒寺(みろくじ)に至るまで、総計十を超える神社・仏閣が建ち並ぶ。
 遅めの昼食を済ませた際に入手した情報によると、彼岸花の群落は九品寺から一言主神社周辺に集中しているという。
 綾がその場へたどりついた時、東の空はすでに薄暗さをともないはじめていた。
 山の端に沈む陽光は草木を橙に塗りかえ、空を黄金に染めていく。
 対して、大地は一面の緋。
 車から降りた綾の影法師が、その上を延々と伸びている。
 絨毯を敷きつめたように広がる緋色の群落は、陽光を受けてなお緋く鮮やかに彩られている。
「これが、あの子を動かした色……」
 目の前に広がる彼岸花の数は、あぜ道に点在していた数とは比較できないほどだ。
 田畑一面を、彼岸花が乗っとってしまった、そう思えるだけの花が、ここには咲き誇っている。
 点在する彼岸花なら何度も見た覚えがある。
 だが、群生する彼岸花を見るのは初めてだ。
 染色見習いの少女が目指していた緋。
 彼女を職人の道へ駆り立てた緋。
 綾は眼前の光景に目を奪われ、呆然とその場に立ちつくした。

 何分、何十分、そこに立ちつくしていただろう。
 吹きぬけた風が花を揺らし、波打つその光景に、はっと我に返る。
 気がつけば太陽は地平に潜り、空も大地も、闇に包まれようとしていた。
 足もとにあった彼岸花にそっと手を触れ、今見た情景の神々しさを胸に刻む。
 激しさを持つ炎の赤とも違う。
 警告を呼びかける赤とも違う。
 この世とあの世とを繋ぐ、暮れの緋。
 天と地を繋ぐ、境界を払う色。
 今この瞬間、この場でしか見られない光景。
 それは綾の体に深く静かに染みこんで、いつまでも消えない炎を灯したかのようだ。
 瞼を閉じると、鮮烈でいてどこか懐古的なその情景を、すぐに思い返すことができる。
 秋の暮れは早く、辺りはすぐ闇に包まれ、冷たい風が髪を撫でた。
 冷たさを増す風に追いたてられるように、車に乗り込む。
 先ほどまで全身の感覚の全てを埋めつくしていた緋は、今ではもう闇間に息をひそめている。
 綾はエンジンをかけなおすと、再度大地を見つめ、その場を後にした。



 何日、何年経っても、綾は今日見た光景を忘れないだろう。
 一輪一輪の輪郭を思い返すことはできなくとも、あの日見た<緋>は、この全身が覚えている。
 視覚だけではない。
 感覚の全てで体感した。
 震えるほどの経験を、今はただ言葉にして書きつけておきたい。
 そうして文字として残すことで、一人でも多くのひとに、この感動を伝えたい。
 同じ場所で、同じ光景を見つめたとしても、その胸に残る印象は、ひとつとして同じものにはならない。
 染色見習いの少女も、やがては一人前の職人となり、作品を残していくだろう。
 その時再現された<此岸と彼岸を繋ぐ、暮れの緋>は、いったいどんな色合いなのだろうか。
 彼女の胸に残された緋と、自分の胸に灯った緋。
 染色と、エッセイ。
 表現の違いはあれども、見据えた先は同じ場所に在る。
 真っ白な原稿を前に、記憶の中の色を探る。
 脳裏に焼きついた情景を呼び起こしながら、綾は紡ぐ言葉をたどり、ゆっくりと目を閉じた。





 了
■サンプル2
色取月の≪藍≫は清けし。


 ひとの感覚というものは、どこまでを「実像」として認識しているのだろう。
 当たり前と思っていたことが、ひとつとして「当たり前ではなかった」と知った時、世界は全く違うものに変容してしまった。
 急速に香りと色彩を失っていく生活。
 全てを失ってから、妻がいかに日常の中に彩りを添えてくれていたかを思い知った。
「そういえば……家から花が絶えたこと、なかったな……」
 誰もいない家に、ひとり。
 色も香りも絶えた家の中で、男はぼんやりと、藍色の花を手に佇んでいた。





 九月に入ったある日のこと。
 織は以前より縁のあるギャラリーから、「ちょっと頼まれてくれないか」と声をかけられた。
 今月行う展示イベントの、店内ディスプレイを担当して欲しいというのだ。
「実際の『いけばな』ではなく、『いけばなのスナップ写真』の展示会、ですか」
「そうなんです」
 早々にギャラリーを訪れた織に、ギャラリーのマスターは「ちょっと変わってるでしょう」と、笑いかける。
「写真を撮っているのはアマチュアの男性作家さんで、亡くなった奥さんのいけばなを撮影しているんだそうです。ご自身も最近いけばなを習い始めたそうなんですが、個展を開くのが奥さんの夢だったらしくて。旦那さん、写真ででも夢を叶えてあげたいって言ってましてね」
 織は展示予定だというパネルの一枚を見つめる。
 パネルには深い藍色の花をメインに生けた、清楚な花鉢が捉えられていた。
 アマチュアの写真と言うが、なかなかどうして、素朴な味わいのある一枚に仕上がっている。
「その作家さん、今日はこちらにいらっしゃっていないんですか?」
 展示イベントを前にした作家なら、ギャラリーに直接足を運んでいることも多い。
 今回は急な声かけとあって、準備期間があまりなかった。
 できれば今すぐにでも作家に会って、ディスプレイのイメージを相談したい
「それがその作家さん、パネルの搬入だけ済ませて、あとは全部任せるって言うんですよ」
 展示関係は全くわからないから、良いようにしてくれ、と。
「……その方と連絡を取ることはできますか? できれば、直接会ってお話をしたいんです」
「そりゃそうでしょう。ええと……今日はお時間大丈夫ですか? 少し待っていてください。すぐ連絡を取ってみます」
 マスターは足早に事務所へ戻ると、作家へ連絡の電話を入れた。
 電話はすぐに繋がり、織の都合さえ良ければ今日にでも来てくれて構わない、とのことだった。
「ありがとうございます。すぐにでも向かってみます」
 織はマスターに聞いた作家の住所を控え、単身、作家の家へ向かうことにした。



「ああ、あなたが烏丸さんですね。ようこそおいでくださいました」
 訪れた先で顔を出した男は、どこにでもいそうな地味な人物だった。
 表情の穏やかな男で、質素な身なりが品良く似合っている。
 すでに会社も定年退職し、今は年金生活をして暮らしているという。壮齢というだけあって、歳を経た落ち着きの感じられる人物だ。
 居間に通されると「男やもめでお恥ずかしい」と、盆の上のお茶を出しながら男が笑う。
 ギャラリーに顔を出さないというだけで人付き合いの苦手なのだろうかと想像していたが、そうではないらしい。
 聞いてみると「飾り付けとか、デザインなどの方面はサッパリなんです」、と申しわけなさそうに笑った。
 織は展示イメージのせめてもの参考にと、男の持ってきたいけばなのアルバムを眺め、それぞれのいけばなについて解説を聞いていった。
 鉢の置かれていた場所、そのころにあった出来事……。
 アルバムは五冊以上にも及び、最初のうちは奥さんが自分で写真を撮っていたという。
 それをいつしか男性が撮影するようになり、奥さんが亡くなるまでの花鉢を全て撮影してきたらしい。
「ギャラリーのマスターには、あなたもいけばなを習っていると聞きました」
 織の問いに、男が頷く。
「葬式の日にね、竜胆を見たんです」
「……りんどう」
 「ええ、これです」と男が頷き返し、織が開いていたアルバムを指し示す。
 男が示したのは、釣り鐘の形状をした背の低い藍色の花だ。
「涙を隠すためにうつむいた時、足下にこの花が咲いていました。妻が居た時は全く気に留めことのなかった色が、その時ぱっと目に飛び込んできたんです」
 男はアルバムを眺めながら、静かに微笑む。
「写真を整理していて、妻が好んで飾っていたものと同じ花だと知りました。家の中から花が消えて、これまでいかに生活の中に花が溢れていたかということに気づいたんです」
 写真を見れば、男の言葉がなくとも妻の気遣いを感じとることができた。
 花鉢の置かれる場所に合わせた花の選び方、生け方。
 きっと亡くなった妻は、彩りや香りまで考慮して、家にいけばなを置いていたのだろう。
 じっと鑑賞するのではなくとも、せめて少しでも夫の疲れが紛れるよう、視界に入る微かな彩りが彼の心を癒すよう――。
「妻の夢を叶えてやりたいと思いギャラリーにお願いはしたものの、展示物の見せ方については、どうにも知識が足りなくて……。今回はどうぞ、宜しくお願いします」
 男はしんみりとした空気を打ち払うように、改まって頭を下げた。
 織はかしこまらないでくださいと慌てる。
「奥様にご満足いただけるよう、私も精一杯ディスプレイさせていただきます。そこでひとつ、提案なのですが――」
 織は男に向かって微笑むと、すでに考え始めていたディスプレイの案を説明し始めた。

 ひととおり展示のアイデアを相談しあった後、仕事場に帰った織はすぐに準備に取りかかった。
 今回必要なのは、男の写真を「ひきたてる」ディスプレイではない。
 いけばなを「あるべき状態」に配することだ。
「あのお宅を訪れたのは正解でした。おかげで、奥様にも彼にも、良い贈り物ができそうです……」
 綾はひとり微笑むと、その日のうちに展示構成をまとめあげ、パーティション代わりに使うタペストリーと、染めに使う材料調達や小物の手配を始めた。



 そして、展示イベント当日。
 織は朝早くからギャラリーに入り、数日前から手がけていたディスプレイの仕上げを行っていた。
 パネルの順番、タペストリーの配置、照明、小物の演出。
 そのどれもが織のイメージ通りに間違いなく完成されていることを確認する。
 ギャラリーの入り口に戻ると、本日の主役とも言うべき作家――先日会いに行った男が姿を現したところだった。
 織の姿を認め、男が頭を下げる。
「おはようございます、烏丸さん」
「おはようございます。ちょうど良かった。今最終チェックが終わったところなんです。ぜひ、あなたに一番に見ていただきたくて」
 織は男を連れて会場に向かうと、うながすように入り口を示す。
「決められた順路はありません。どうぞあなたの思うままに、歩いてみてください」
 私はここでお待ちしていますからと、その背中に声をかける。
 織の言葉にいぶかりながらも、男は納得したようだった。
「では、拝見してきます」
 ぺこりと頭を下げると、男はそのまま入り口に向かっていった。

 自分の撮影したパネルを「拝見する」と言うのもおかしな話だと思いつつ、男は目の前の展示会場を見渡していた。
 展示は藍色のタペストリーでいくつかの空間に分けられていたが、とりあえず、一番最初のパネルへの道はひとつしかないようだった。
 タペストリーの道に沿うよう歩み、最初に置かれていたパネルは小振りの花鉢を撮影したものだった。
 派手さには欠けるが、いけばなを知らないひとが最初に目にする作品としては、身近な雰囲気があって良いのかもしれない。
 男はそのまま先に進む。
 藍色のタペストリーは、まっすぐに進む道と、左に折れる道に分かれていた。
「左は個室のようになっているのか」
 男は左の道を選び、タペストリーによって区切られた空間を目に感嘆する。
 そこは入り口にあったものより、幾分濃いめに染められたタペストリーが三方を囲っていた。
 こうしてみると、パーティションを使わずとも、きちんとした小さな個室に見える。
 照明は暗めに落とされ、そこにパネルがいくつも飾られていた。
 パネルの下には、それぞれ本が置かれている。
「これは……。あの日私が烏丸さんにお貸しした本じゃないか」
 男の家を訪れた日、織は花鉢の置かれていた場所を実際に確かめたいと、家の中を見て回っていた。
 書斎を見たときに偶然いけばな関係の本を見かけ、花について勉強したいからと、いくつか本を貸し出したのだ。
 それが、このように使われているとは。
 良く見ると、本は撮影された花について解説されているページが開かれているようだ。
 スタンドライトによって照らされたそれは、書斎で本を見ている感覚に陥る。
「書斎で……。まさか」
 勘の悪い男にも、しだいに織の意図していることがわかりはじめていた。
 男は個室を後にし、次に広い個室へと向かう。
 今度は本の置いてあった所とは違い、淡いめに染め上げられた、一見秋空を思わせる風合いの鮮やかなタペストリーが三方を囲っている。
 全体が明るい照明で演出され、タペストリー越しに陽光を思わせる光が当てられていた。
 飾られたパネルに映されていたのは大振りの作品や大輪のいけばなが多く、そのどれもが、男が家の居間で見かけたものばかりだ。
 抱いていた確信を強め、男はあわてて個室を出る。
 続くタペストリーの道には、点々と距離をとって作品が置かれていた。
 合間合間に小さな台座が置かれ、その上にはフォトフレームに飾られたいけばなの写真が飾られている。
 それはパネルにしてあるような見映えのする作品ではなく、妻が初期に作っていた無骨な作品や、素人写真とわかるようなピンボケしたものばかりが並べられている。
 一度失敗した作品をフォトフレームに。後日再挑戦した鉢をパネルにして飾り、妻の上達ぶりを伺えるよう構成されたものもあった。
「……これも……。あの日烏丸さんにお話ししたから……」
 男はフォトフレームを手に、じっと写真を見つめ呟く。
 今朝も世界は色褪せていた。
 妻を失ってから、色彩は全て抜け落ちてしまっていた。
 いけばなを始めてみたものの、妻と過ごした日々に見た彩りが戻ってくることはなかった。
――それなのに。
 男の目に、会場の色彩が強く、色濃く、鮮やかに映り始めていた。
 男の家を模した間取りは、全て竜胆色の濃淡で染められたタペストリーで演出されている。
 今ではその色彩までもが、作品の一部のようだ。
 男は先を急いだ。
 通路の最奥にある作品で、展示は最後のようだった。
 奥へ進むにつれ、ふんわりと花の香りが漂ってくる。
 男はその先に置かれた小さな花鉢を認め、足を止める。
 竜胆をメインに、秋の野草を添えたそれは間違えようもない。
 あの日、織によって提案された、「妻への花束」だった。
 手習い始めたばかりで、まだまだ展示できるような作品など作れないからと、とまどう男を織が説得したのだ。
 「奥様への花束にしましょう」、と。
 会場内で唯一「本物の」いけばなは、完成度こそパネルの鉢に劣るとはいえ、他にはない心地良い香りを放っていた。
 竜胆をメインに、秋の野草を集めたささやかな花鉢。
 手習い始めたばかりの、まだつたない作品。
 妻への想いと感謝を込めた、優しさに満ちた作品。
 ああ、そうだ。
 彩りは常に彼の傍にあった。
 色彩や香りが、常に彼を癒してくれていた。
 玄関、書斎、居間、廊下。
 花は作品としてではなく、亡き妻の、日常を彩る心遣いそのままに飾られていた。
 男の撮ったいけばなの写真は、全て彼の家になぞらえて配置されていたのだ。
「……いかがでしたか?」
 入り口に立っていた織の姿を認め、男は穏やかに微笑んだ。
 彼の記憶そのままに、花は会場全てに咲き誇っている。
「お見事です……。本当に、素晴らしい作品でした。ありがとうございます」
 頭を下げた男の目に、藍色のタペストリーが映る。
 その藍は葬式の日に見た色とは違い、どこまでも青く澄んでいる。
 男は自分の世界に彩りの戻ったことを改めて実感し、じわりと霞む視界に、喜びを噛みしめていた。





 あの展示イベントいらい、廊下の突き当たりには、いつも小さな花鉢を置くようにしている。
 もちろん、ひとつの作品として、きちんと花を生けて。
 妻の作品にはまだ叶わないが、そんなことは一向に構いやしない。
 家の中に色彩があることで、浮かび上がる想い出がある。
 ただよう香りに、心癒されることがある。
 無くした物や失った者は帰らないけれど、記憶も想いも、彼の心の中で色褪せず咲き続けている。
 それを見失わないために、今日も野草を取りに出かける。
 彼の過ごす日々に、鮮やかな色を添えるために。
 今、妻のいる場所にも、彩りと香りがあることを願いながら。





 了
■サンプル3
雨夜の望月

 その日は朝から雨が降っていた。
 <アンティークショップ・レン>は元々客足の少ない店であるが、天候が悪いとその足は更に遠のく。
 雨は衰えることを知らず、店内では午後になってもひたすら閑古鳥が鳴いていた。
 いつもならある程度見込める卦見の収入も、今日に限っては少々心もとない。
「お互い商売あがったりだねぇ」
 声をかけたのは骨董屋の女店主、碧摩・蓮(へきま・れん)だ。
 言葉のわりに、当の本人はあまり困っているようには見えない。
 いつものように煙管をふかし、店の外を眺めては退屈そうにしていた。
「今日は、このあたりで切り上げることにします」
 十分とは言えないが、一日をしのげるだけの収入はすでに得ている。
 卦見が占い道具を片づけようとすると、蓮の制止がかかった。
「お待ち。こういう日は、何か面白いことが起こるもんだよ」
 「もう少し待っていてごらん」と続け、煙管の煙を吸い込む。
 蓮の意図はわからないが、長年ここに店を構える彼女の言うことである。
 卦見は大人しく従うことにした。

 それから一時間もしない時のことだ。
 店内に一人の男が駆けこんできた。傘を持っていなかったのか、全身びしょ濡れのまま蓮のいるカウンターに詰め寄る。
 男の歩いた場所に水たまりができるのを、卦見は何の気なしに眺めていた。
「何でもいい。何でもいいから、これを買い取ってくれ!」
 背の高い痩せぎみの男で、サラリーマンという言葉が良く似合う。
 ずれた眼鏡にしわの入った背広。店に入った時から落ち着きがなく、手にした風呂敷包みを抱え込み、しきりに何かを警戒しているようだった。
 蓮はいつもの調子で対応すると、男に品物を見せるよううながす。
 男が持ってきたのは大正か明治の頃に作られた花嫁かんざし一揃えだった。
 銀と珊瑚をふんだんに使い、桐の木に鳳凰を配した細やかな細工が施されている。漆塗りの桐箱に入れられており、卦見の目から見ても高価な代物であると推測できた。
 保存状態はかなり良く、ものがきちんと揃っているだけあって資料価値も高い。
 普通に売れば結構な値の付く代物だが、夜ごと女がかんざしを求めて現れるとあって買い手がつかないという。
 幽霊が出るのだ。
「そりゃきっと持ち主の女だろうねぇ。こんな綺麗な代物だもの。死んでからも手放すのが惜しいに違いないよ」
 蓮はかんざしが気に入ったらしい。気前良く男の言い値で品を買い取った。
 かんざしが自分の手から離れるやいなや、男はほっと安堵の息を吐いている。
「いやぁ良かった。これでわたしも安心して家に帰れます」
 男は、そこで初めて店内を眺める余裕ができたらしい。
 店の端でことの成り行きを見守っていた卦見に気づき、声をかける。
「ああ、このお店には占い師さんもいらっしゃったんですか」
 先ほどの様子とはうってかわって晴れやかな笑みを投げかける男に、卦見は会釈をして返した。
「品の買い手がついたところで、占いはいかがですか」
 男は不安から解消されたことで気が大きくなったのだろう。一瞬考えるそぶりを見せたものの、すぐに卦見に占いを求めた。
 卦見は筮竹(ぜいちく)を取り出すと、さっそく男に問いかける。
「では、何を占いましょう」
「そうだな。あのかんざしを手に入れてからはロクなことがなかったから……今後の風向きみたいなのを占ってもらおうか」
「かしこまりました」
 卦見は五十本ある筮竹の一本を抜き出し別に置くと、残りの四十九本を二つに分ける。
 右手に持った筮竹を机の上に置き、数ある手順を踏んで男の運勢を占いはじめた。
「雷火豊(らいかほう)。豊大、豊富の卦が出ています 」
 筮竹でだした陰陽の爻卦(ふけ)を、算木(さんぎ)によって六十四卦のうちのひとつの卦で表す。
 卦見は手近にあった紙に『豊。亨。王仮之。勿憂。宜日中。』と卦辞を書き出すと、男に読んで聞かせた。
「『ほうは、とおる。おうこれにいたる。うれうるなかれ、にっちゅうによろし。』つまり、あなたの運勢は今とても良い状態にあるが、それを保つことは難しい。しかし望月がいつかは欠けるように、物事は移りゆくもの。悪い状態になることを憂う必要はないと出ています」
 星占いなどとは違って馴染みのない易占のこと。
 最初は眉根を寄せて卦見の様子を伺っていた男だったが、結果を聞いてぱっと顔を輝かせた。
「なるほど? では展望は明るいと言うことだね?」
 悪い結果ではないとみて、男は上機嫌だ。
「全体として悪い卦ではありませんが、四爻と上爻に警告をうながす爻があります。謙虚な気持ちを忘れず、良い状態を保とうとする努力は必要かもしれません」
 卦見の申告をよそに、男は懐から財布を取り出している。
「いやぁ幸先が良いね。かんざしは売れるし、占いの結果は良いし」
 財布を取り出す瞬間、男の懐で何かが光るのを卦見は見た。
 タイピンとは違う。見間違いでなければ、あれは――。
「それで、見料はいくらだい?」
 男の声に、卦見は我にかえった。
 卦見はいつものように見料を伝えたのだが、男は卦見が伝えたよりも多い料金を無理に置いていった。
 帰り際、雨が降り続いていたので蓮が傘を貸そうと申し出ると、
「きっとわたしの運で雨もやみますよ」
 と豪語し、雨の中をさっそうと帰っていってしまった。
 蓮もこれには呆れたらしい。
「あの男、まるで運を金で買ってるみたいだねぇ」
 卦見は男の置いていった金をどうするか考えあぐねた末、彼から受けとった全額を駅前の募金に託すことにした。
「もったいない。基本料くらいはもらっておけばいいじゃないか」
 蓮はそう言ったが、占いの結果によって報酬が違うなどあってはならないことだ。
「わたくしは、お金が欲しくて占いをしているのではありませんから」
 そう微笑んで道具を片づける。
 ありがたく蓮の傘を借りると、今日の寝床を探すため店を後にした。

 数日後。
 卦見が店を訪れると、蓮は珍しく機嫌が悪かった。
「どうかなさったんですか?」
 聞けば、先日の男が持ってきた花嫁かんざしの備品が、いくつか抜けていたらしい。
 左右で対になっているはずの品が足りなかったので気づいたという。
「その場で良く確認しなかったあたしも悪いけど、言い値で買っちまったからねぇ」
 蓮は悔しい悔しいと連呼している。
 この分では、しばらく訪れる客がシビアな鑑定を受けることになるだろう。
 卦見はいつものように店の一角を間借りして店の体裁を整えると、店の外を通りゆくひとを眺めていた。
 しばらくして、新聞に目を通していた蓮が声を上げた。
「怖いねぇ。この近所で若い男の変死体が見つかったってさ」
「変死体……ですか」
「全身に刺したような傷があるらしい。まったく。東京はいつまでたっても物騒で仕方がないねぇ」
 卦見は蓮の発言を聞き流すと、再度店の外に目を移した。
 あの日、卦見は男の懐に光るものを見た。
 卦見の見たそれが蓮の言っている花嫁かんざしの一部であるならば、分かたれたかんざしに女の幽霊は何を思うだろう。
 卦見の目から見ても、かんざしの細工は見事だった。
 蓮の店で売るよりも、コレクターなどに売る方が遥かに良い値で売れるのは確かだ。
 しかし、雷火豊、四爻と上爻は警告をうながしていた。
 見込み違いが多く、やり過ぎで失敗し易い。そのままいくと転落が待ち受けている――。
「『豊。亨。王仮之。勿憂。宜日中。』 きちんと品を揃えて売りさえすれば、あなたの展望は本当に明るくなったかもしれないのに……」
「ん? 何か言ったかい」
 蓮の声に、卦見はなんでもありませんと返す。
 道を示したのは卦見だが、行く先を選んだのは男自身だ。
「今日は晴れると良いですね」
 卦見はそうつぶやくと、店の外に広がる空を見上げた。

 数日ぶりに太陽が顔を出した日のことだった。


 了